新選組が「壬生浪士組」として京都で産声をあげた文久三年(1863)。この一年のあいだに、隊の顔ぶれは大きく入れ替わりました。筆頭局長の芹沢鴨と、彼を囲んだ水戸派の幹部たちは、年の暮れまでに一人残らず隊から消えています。長州の間者とされた隊士たちも、次々に斬られました。この記事では、文久三年の壬生で何が起きたのかを、人ごとにたどります。
十三人の壬生浪士
文久三年二月、清河八郎の浪士組が京都に入りました。清河が江戸へ引き返すと、それに従わず京都に残ったのが、芹沢鴨の一派と近藤勇の一派でした。三月、彼らは会津藩のお預かりとなり、壬生の八木邸などを屯所として「壬生浪士組」を名乗ります。
はじめは芹沢が筆頭で、隊の実権も水戸派が握っていました。
文久三年の年表
| 時期 | できごと |
|---|---|
| 二月 | 浪士組が京都に入る。清河八郎の帰東に従わず、芹沢派・近藤派が残る |
| 三月 | 会津藩お預かりとなり、壬生浪士組が発足する |
| 三月二十五日 | 京都残留者の取りまとめ役だった殿内義雄が四条大橋で斬られる |
| 四月 | 家里次郎が大坂で切腹させられる |
| 八月十日 | 副長助勤の佐伯又三郎が嶋原で斬られる(実行者は諸説) |
| 八月十八日 | 八月十八日の政変。壬生浪士組も御所の警備に出動し、このころ「新選組」の名を与えられたとされる |
| 九月十三日ごろ | 副長の新見錦が切腹させられる(日付は田中伊織の墓碑による) |
| 九月十六日(十八日説あり) | 芹沢鴨と平山五郎が八木邸で斬られる。平間重助は逃亡 |
| 九月二十五日 | 荒木田左馬之助らが永倉新八を襲い、失敗する |
| 九月二十六日 | 長州の間者とされた荒木田左馬之助・御倉伊勢武・楠小十郎が斬られる。越後三郎・松井竜三郎は逃げ延びる |
| 十二月二十七日 | 水戸派で最後に残った野口健司が切腹する |
水戸派の幹部はどう消えたか
- 新見錦(副長)—素行を咎められて切腹。ただし同時代の史料にほとんど現れず、実在を疑う声もあります。壬生寺に葬られた「田中伊織」と同じ人ではないかともいわれます。
- 芹沢鴨(筆頭局長)—大坂の商家への強談など、乱暴なふるまいが重なり、会津藩の意向もあって暗殺されたとされます。表向きは「賊の仕業」とされました。
- 平山五郎(副長助勤)—芹沢と同じ夜、同じ家で斬られました。墓は壬生寺にあります。
- 平間重助(副長助勤)—暗殺の夜に一人逃げ延び、その後の消息ははっきりしません。
- 野口健司(副長助勤)—暗殺の夜は角屋に残って難を逃れましたが、年の暮れに突然切腹を命じられました。二十一歳。
長州の間者とされた隊士たち
同じ年、長州の間者(スパイ)とされた隊士も斬られています。御倉伊勢武・荒木田左馬之助・越後三郎・松井竜三郎の四人は、そろって入隊し、桂小五郎の指示を受けていたといわれます。芹沢暗殺のわずか十日ほど後に御倉と荒木田が斬られたことから、芹沢殺しの罪を彼らにかぶせたのではないか、という見方もあります。
「美男五人衆」の一人に数えられる楠小十郎も、同じ朝、前川邸の門前で原田左之助に斬られたと伝わります。
そして近藤の新選組へ
文久三年の終わりには、隊の幹部は近藤勇を局長とし、土方歳三・山南敬助を副長とする顔ぶれにまとまりました。翌元治元年(1864)六月、新選組は池田屋事件で一躍名を知られることになります。
その後も、隊の規律による切腹や粛清は続きました。その全体は新選組の切腹・粛清一覧にまとめています。
文久三年の壬生を読み解く
なぜ芹沢は消されたのか—三つの見方
芹沢鴨の暗殺の理由については、大きく分けて三つの見方があります。
一つ目は、芹沢の乱暴が度を越えていたという見方です。大坂での力士との乱闘、嶋原の角屋で暴れた話、そして八月十三日に京都の生糸商・大和屋の土蔵に火を放った「大和屋焼き討ち」などが知られています。こうした振る舞いに手を焼いた会津藩が、近藤勇らに内々に始末を命じたとする説もあります。
二つ目は、隊の主導権をめぐる争いという見方です。はじめ筆頭局長として隊を握っていた芹沢の一派を除けば、隊は近藤の試衛館派のものになります。実際、暗殺のあと水戸派は年内に一人も残りませんでした。
三つ目は、八月十八日の政変のあとの組織の立て直しという見方です。政変での働きで「新選組」の名を与えられ、会津藩のもとで正式に京都の治安を担うことになった隊にとって、規律を乱す幹部は放っておけない存在になっていました。三つの見方は互いに打ち消し合うものではなく、いくつもの理由が重なっていたと考えるのが自然でしょう。
京都に残った人々は、どうなったか
文久三年のあいだに壬生浪士組から姿を消した主な人々を並べると、この一年の激しさがよく分かります。
| 消え方 | 人物 |
|---|---|
| 斬られた | 殿内義雄(三月)、佐伯又三郎(八月)、芹沢鴨・平山五郎(九月)、御倉伊勢武・荒木田左馬之助・楠小十郎(九月) |
| 切腹させられた | 家里次郎(四月)、新見錦(九月)、野口健司(十二月) |
| 逃げた・離れた | 根岸友山ら(春)、平間重助(九月)、越後三郎・松井竜三郎(九月) |
わずか十か月のあいだに、斬られた者と切腹させられた者だけで十人にのぼります。そのほとんどが、隊の外の敵ではなく、隊の内側で命を落としました。新選組の「外への戦い」が本格的に始まるのは翌年の池田屋事件からですが、その前の一年は、ほとんど「内への戦い」に費やされていたといえます。
誰がこの一年を語り残したのか
文久三年の壬生で起きたことを伝える記録は、書いた人の立場によって色合いが違います。
| 記録 | 書いた人・語った人 | 読むときの注意 |
|---|---|---|
| 『浪士文久報国記事』『新撰組顛末記』 | 永倉新八(試衛館派の当事者) | 近藤派の内側からの記録。仲間をかばう書き方がありうる |
| 『新撰組始末記』 | 西村兼文(西本願寺の寺侍) | 新選組に同居された寺の側の人で、隊に厳しい目を向ける |
| 『新選組始末記』ほか | 子母澤寛による八木為三郎らの聞き書き | 当時子どもだった人の、数十年後の思い出 |
どの記録も、一つだけで事実を決めることはできません。芹沢暗殺の実行者や日付に諸説があるのは、こうした記録どうしが食い違っているからです。このサイトの隊士ページで「伝わります」「といわれます」と書いているのも、そのためです。
訪ねるなら(京都・壬生)
- 八木邸:芹沢と平山が斬られた屯所。奥座敷の刀傷が伝わります。
- 前川邸:もう一つの屯所。楠小十郎が斬られた門前。
- 壬生寺:芹沢鴨・平山五郎の墓、田中伊織の墓があります。
- 光縁寺:隊の規律で命を落とした隊士の墓がある寺。光縁寺に眠る新選組隊士たちで紹介しています。
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参考にした資料:永倉新八『新撰組顛末記』『浪士文久報国記事』、子母澤寛『新選組始末記』(八木為三郎の談話)、西村兼文『新撰組始末記』、新選組研究の諸資料。日付や実行者には諸説があります。

