| 原田左之助 | |||
| 職名 | 十番隊隊長 | ||
| 出身 | 伊予松山 | ||
| 終焉場所 | 上野戦争 | ||
| 終焉方法 | 戦死 | ||
江戸試衛館に出入りしており近藤らと懇意となります。
新選組結成時には10番隊隊長を拝命します。
坂本竜馬暗殺では首班説が流れたこともあるが詳細は不明です。
鳥羽伏見の戦いや甲州勝沼の戦いで敗れ、永倉とともに「靖立隊」を結成するがすぐに脱退し上野彰義隊の戦いに参加し戦死しました。
豪快な槍の使い手
原田左之助は、伊予松山の出身で、槍術を得意とした新選組十番隊組長です。豪放で血の気の多い性格で知られ、腹の傷を見せて武勇を誇ったという逸話も伝わります。試衛館以来の仲間として、池田屋事件など新選組の主要な戦いに参加し、その武勇をふるいました。
上野での最期と生存伝説
戊辰戦争では、原田は江戸に戻ったのち彰義隊に身を投じ、上野戦争で重傷を負って命を落としたと伝えられます。一方で、ひそかに生き延びて大陸へ渡り、馬賊の頭目になったという伝説も語られるなど、その最期には謎とロマンがつきまといます。破天荒な生き方そのものが、幕末の動乱を体現した隊士でした。
原田左之助をもっと深く——武士ですらないところから始まった人
新選組の幹部を出身で並べると、この人だけが際立っています。武士ではありません。
伊予松山藩の中間の子
天保十一年、伊予国松山の矢矧町に、松山藩の中間・原田長次の長男として生まれました。中間は非武士身分です。
藩士・内藤房之助の江戸赴任先で小使を務め、帰国後は藩校明教館助教・中島隼太に若党として仕えました。
近藤勇は多摩の農家、土方歳三も同じ多摩、沖田総司は白河藩足軽の子、斎藤一は旗本の家来の子。そのなかで原田だけが、武士ですらない身分から出発しています。
腹の傷
有名な逸話があります。上役の武士との喧嘩で「切腹の作法も知らぬ下郎」と罵られ、激怒して本当に腹を切った。傷は浅く命に別条なかったが、腹に一文字の刀傷が残った——。
妻の菅原マサが傷跡を目撃して「国許を出るときに駕籠の中で切腹したらしい」と証言しています。
ただし切り分けが必要です。「腹に傷があった」という妻の証言はありますが、由来の物語の部分は子母澤寛『新選組物語』にしか出てきません。駕籠のなかでの切腹は状況として考えにくく、マサの記憶違いか、左之助が本当のことを伝えなかった可能性が指摘されています。
槍の人でした
松山を脱藩したあと、大坂で谷三十郎・万太郎兄弟の道場に入門し、種田流槍術の免許を得ました。
(永倉新八の記録には「種子田宝蔵院流」とありますが、実際は種田流で、流派名の記述に誤りがあります。)
池田屋では土方隊。狭い屋内に大槍を抱えて突入し、逃げる浪士を槍で仕留めています。「原田戦死」の噂が流れるほどの奮戦でした。
三条制札事件では、褒賞の筆頭
慶応二年九月十二日の夜、三条大橋西詰北。三条会所に原田ら十二人が伏せました。深夜、土佐藩士が制札を引き抜こうとしたところへ原田隊が急行し、乱戦になります。
藤崎吉五郎を討ち取り、宮川助五郎を捕縛。褒賞二十両で筆頭でした。(このとき斥候だった浅野薫は、通報が遅れて挟撃が成立せず六人を逃したため、新選組を追放されています。)
妻子がいました
慶応元年三月ごろ、二十六歳で菅原マサと結婚しています。マサは十八歳でした。マサは昭和五年まで生きています。息子の茂は「十四代将軍・徳川家茂から一文字取った」といわれます。
上野で撃たれました
鳥羽・伏見、甲州勝沼と戦い、江戸へ戻ったあと近藤と意見が衝突します。永倉新八とともに靖兵隊を結成しますが、山崎宿で「用事を思い出した」と言い残して離脱し、一人で江戸へ引き返しました。そして上野・寛永寺の彰義隊に加わります。
慶応四年五月十五日の上野戦争で銃撃を受け、五月十七日に本所猿江の旗本屋敷で死亡。享年二十九。
彰義隊への参加が遅かったため名簿に名前がなく、墓の場所も分かっていません。幹部のなかで、墓所が不明なのはこの人だけです。
「馬賊になった」という話
上野で生き延び、新潟から下関へ、船で釜山へ渡り、大陸で馬賊の頭目になった——という伝説があります。
この話の記録上の起点は、明治四十年ごろの愛媛新聞です。松山で老軍人が「私は原田左之助だ」と名乗り、故郷の弟家族と再会を喜び、「満州に帰る」と言い残して去ったという報道でした。真偽は分かりません。
墓がないから、生きていたかもしれないと思える。この人の生存説が長く語られてきたのは、そのせいもあるのだと思います。

