| 平山五郎 | |||
| 職名 | 副長助勤 | ||
| 出身 | 不明(旗本の家来) | ||
| 終焉場所 | 京都 八木邸 | ||
| 終焉方法 | 暗殺 | ||
平山五郎をもっと深く—芹沢鴨とともに斬られた副長助勤
新選組の前身・壬生浪士組で、局長芹沢鴨のそばにいつもいたのが平山五郎です。そして最期も、芹沢と同じ夜、同じ家で迎えました。
旗本の家来から、神道無念流へ
文政十二年(1829)の生まれとされます。安政四年(1857)ごろには旗本・遠山兵部少輔の家来でした。剣術ははじめ鏡新明智流の桃井春蔵に学び、のちに神道無念流の堀川福太郎の門に入っています。
浪士組から壬生浪士組へ
文久三年(1863)二月、清河八郎の浪士組に加わり、芹沢鴨の組に入って上京しました。清河が江戸へ引き返すと、芹沢・近藤らとともに京都に残り、壬生浪士組を結成します。平山は幹部の副長助勤となりました。
芹沢の率いる水戸派の一人として、芹沢と行動をともにしました。芹沢一派の乱暴として伝わる出来事の多くに、平山も同行していたといわれます。
隻眼の剣士
花火の事故で片目を失っていたと伝わります。見えない側からの攻撃にはかえって強く、見える側からの攻撃に弱かった、という話も残っています。
八木邸の夜
文久三年九月十六日(十八日説もあります)、島原の角屋での宴会のあと、平山は芹沢とともに屯所の八木邸に戻りました。深夜、なじみの女性と奥の部屋で眠っていたところへ刺客が踏み込み、起き上がる間もなく斬られたといいます。享年三十五。刺客は土方歳三・沖田総司ら近藤派だったとされ、表向きは賊の仕業とされました。
平山五郎の歩みを年表で
| 年 | できごと |
|---|---|
| 文政十二年(1829) | 生まれたとされる |
| 若いころ | 鏡新明智流の桃井春蔵に学び、のちに神道無念流の堀川福太郎の門に入る |
| 安政四年(1857)ごろ | 旗本・遠山兵部少輔の家来だった |
| 文久三年(1863)二月 | 清河八郎の浪士組に加わり、芹沢鴨の組に入って京都へ上る |
| 文久三年三月 | 京都に残り、壬生浪士組の副長助勤になる |
| 文久三年 | 京都守護職・松平容保の前で、佐伯又三郎と剣術の試合を見せる |
| 文久三年九月十六日(十八日説もある) | 八木邸で芹沢とともに斬られる。三十五歳。壬生寺に葬られる |
平山五郎を読み解く
二つの名門道場で学んだ剣
平山ははじめ、江戸の三大道場の一つとされる桃井春蔵の士学館で鏡新明智流を学び、のちに神道無念流に移りました。神道無念流は芹沢鴨や永倉新八と同じ流派です。平山が芹沢の組に入り、その側近になったのも、同じ流派の縁があったからだと考えられます。流派と隊士の関わりは新選組隊士の剣術流派にまとめています。
容保の前で腕を見せた剣士
会津藩士の記録には、松平容保が壬生浪士組の腕前を見た席で、平山が佐伯又三郎と試合をしたことが残っています。浪士組を預かる会津藩にとって、どれほど使える者たちかを見定める場でした。そこに選ばれたのですから、平山は隊でも指折りの使い手と見られていたのでしょう。片目を失っていたという話とあわせると、見えない側からの攻撃にかえって強かったという逸話も、腕の立つ剣士だったからこそ語られたものといえます。
同じ夜、同じ家で
芹沢と平山が斬られたのは、屯所の八木邸でした。いっしょに戻った平間重助は逃げ延び、角屋に残っていた野口健司も難を逃れています。刺客がはじめから芹沢と平山の二人を狙っていたとすれば、平山は芹沢に次ぐ水戸派の中心と見られていたことになります。表向きは賊の仕業とされ、葬儀は近藤勇らの手で行われました。
壬生寺の墓
平山の墓は、芹沢とともに壬生寺にあります。光縁寺に眠る隊士が多いなかで、初期の水戸派の二人は壬生寺に葬られました。墓所の違いは新選組の墓所めぐり、暗殺の夜の流れは芹沢鴨のページと、芹沢鴨と水戸派の最期をご覧ください。
平山五郎をさらに掘り下げる
松平容保の前での剣術上覧
京都に残った浪士たちが会津藩の預かりとなってまもない文久三年四月、藩主の松平容保は、浪士たちの剣の腕前を自ら見る場を設けました。このとき組まれた試合として、次のような顔合わせが伝わっています。
| 組み合わせ | それぞれの出どころ |
|---|---|
| 土方歳三 対 藤堂平助 | 試衛館どうし |
| 永倉新八 対 斎藤一 | 試衛館どうし |
| 平山五郎 対 佐伯又三郎 | 水戸派 対 どちらにも属さない幹部 |
| 山南敬助 対 沖田総司 | 試衛館どうし |
試衛館の人々が顔を並べるなかで、水戸派から選ばれたのが平山でした。芹沢鴨自身ではなく平山が立ったことは、平山が水戸派の中で剣の腕を代表する人と見られていたことを示しています。そしてこの試合で相手をした佐伯は八月に嶋原で斬られ、平山も九月に斬られました。四か月のうちに、上覧の場に立った二人がそろって命を落としたことになります。佐伯又三郎のページもあわせてご覧ください。
江戸の名門道場で学んだ剣
平山がはじめに学んだ鏡新明智流の桃井春蔵の道場・士学館は、北辰一刀流の千葉周作の玄武館、神道無念流の斎藤弥九郎の練兵館と並んで、江戸の三大道場に数えられた名門です。平山はそののち神道無念流に移り、芹沢鴨と同じ流派の人になりました。
多摩の出稽古から育った天然理心流の近藤たちに対し、平山は江戸の名門道場で腕を磨いた人でした。旗本の家来として江戸で暮らし、名門の剣を学んだ平山にとって、試衛館の人々はどのように見えていたのでしょうか。水戸派と近藤派の対立の底には、こうした育ちや剣の出どころの違いもあったのかもしれません。
一つの墓石に刻まれた二人
壬生寺の壬生塚にある芹沢と平山の墓は、一つの墓石に二人の名を並べて刻んだものです。同じ夜に同じ家で斬られた二人は、死んだあとも一緒に葬られました。
この墓石に刻まれた日付は九月十八日で、暗殺の日を十八日とする説の根拠の一つになってきました。一方、当時の雨の記録や風聞書などから、十六日だったとする見方が近年では有力になっています。墓石の日付と記録の日付が食い違っていること自体が、この暗殺がいかに隠されたまま扱われたかを物語っているのかもしれません。
平山五郎と関わりの深い人たち
- 芹沢鴨—壬生浪士組の筆頭局長。同じ夜に斬られました。
- 新見錦—同じ水戸派の幹部。芹沢暗殺の少し前に切腹しています。
- 平間重助・野口健司—同じ水戸派。平間は暗殺の夜に逃げ、野口はその年の暮れに切腹しました。
ゆかりの地
- 壬生・八木邸(京都市中京区壬生)—斬られた屯所。刀傷が残る鴨居も伝わります。
- 壬生寺(京都市中京区):芹沢鴨と平山五郎の墓があります。
参考にした資料:永倉新八『新撰組顛末記』、子母澤寛『新選組始末記』(八木為三郎の談話)。暗殺の日付には九月十六日説と十八日説があります。
文久三年に芹沢鴨の一派と、長州の間者とされた隊士たちがどう消えていったかは、芹沢鴨と水戸派の最期—文久三年、壬生浪士組から消えた人々に年表でまとめています。
新選組の隊士たちが学んだ流派は、新選組隊士の剣術流派—天然理心流・神道無念流・北辰一刀流、誰が何を学んだのかにまとめています。
新選組をもっと知る本
芹沢鴨と同じ夜に殺された平山の一件は、隊の内側の力関係が動いた瞬間でした。永倉新八『新撰組顛末記』と子母澤寛『新選組始末記』は、その夜の話の出どころになっている本です。
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新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
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新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)

