赤松小三郎暗殺とは—議会政治を唱えた上田藩の兵学者は、なぜ教え子の薩摩藩士に斬られたのか

京都・東洞院通、赤松小三郎を狙う薩摩藩士

2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)は、幕末の幕臣・小栗忠順が主人公です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

幕末・明治の暗殺事件 特集:桜田門外の変から伊藤博文暗殺まで、19の事件を年表とともにまとめています。▶ 暗殺事件の特集を見る

慶応3年(1867)9月3日、京都の東洞院通で、信濃上田藩の兵学者・赤松小三郎が斬られました。斬ったのは薩摩藩の中村半次郎(のちの桐野利秋)と田代五郎左衛門です。坂本龍馬が近江屋で襲われる、およそ2か月半前のことでした。

赤松は京都で塾を開き、薩摩藩士たちにイギリス式の兵学を教えていた人物です。さらに、選挙で選んだ議員による「議会」をつくる案を、幕府や薩摩藩に建白していました。教え子にあたる藩の者に、なぜ斬られなければならなかったのか。事件の流れと背景をたどります。

目次

赤松小三郎暗殺とは—先に答え

いつ 慶応3年(1867)9月3日。上田藩から帰国を命じられ、京都を発つ直前でした
どこで 京都・東洞院通の魚棚あたり(現在の京都市下京区)
誰が 薩摩藩士・中村半次郎(桐野利秋)と田代五郎左衛門
誰を 上田藩士・赤松小三郎(数え37歳)。洋式兵学者で、議会政治の建白で知られる
なぜ 幕府側に通じる者と疑われたため、とされます。薩摩藩の軍事の内情を知る赤松が京都を離れることを警戒した、という見方もあります
記録 中村半次郎自身の日記(『京在日記』)に、赤松を討ったことが書き残されています
墓所 京都・金戒光明寺。遺髪は郷里の上田・月窓寺に葬られました

赤松小三郎とはどんな人物か

赤松小三郎は天保2年(1831)、信濃国上田藩士・芦田家に生まれ、のちに赤松家の養子となりました。若いころ江戸に出て、数学者の内田五観や勝海舟に学び、安政2年(1855)からは勝に従って長崎海軍伝習所で西洋の兵学・航海術を学びます。

やがて横浜でイギリスの士官から英語を学び、イギリス陸軍の歩兵教範を翻訳した『英国歩兵練法』を出しました。オランダ式からイギリス式へ移りつつあった当時、最新の兵学を日本語で読める本として、各藩で重く用いられたといわれます。

慶応2年(1866)ごろから京都で兵学の塾を開き、薩摩藩の求めで藩士たちにイギリス式の調練を教えました。のちの日本海軍・陸軍の将官になる薩摩の若者たちも学んだと伝えられます。

龍馬より早かった「議会政治」の建白

赤松の名を今日いちばん高めているのは、慶応3年5月に出した建白書です。前の福井藩主・松平春嶽や、薩摩藩の島津久光、幕府に向けて、これからの国のしくみについての案を差し出しました。

その中で赤松は、国政を話し合う議会を上下二つの局に分け、下の局の議員は各地から入札(選挙)で選ぶこと、身分にかかわらず人材を用いることなどを説きました。坂本龍馬の「船中八策」や「新政府綱領八策」よりも早く、しかも具体的な議会政治の構想として、近年あらためて注目されています(上田藩)。

赤松の考えは、幕府と薩摩が武力でぶつかるのではなく、話し合いで新しい政治をつくることでした。ところがこのころ、薩摩藩の中では西郷隆盛・大久保利通らを中心に、武力で幕府を倒す方向へ傾きつつありました。

東洞院通で何が起きたのか

京都・東洞院通、赤松小三郎を狙う薩摩藩士
イメージイラスト

慶応3年の夏、赤松は上田藩から国元へ帰るよう命じられます。帰国を前にした9月3日、赤松は京都の東洞院通を歩いていたところを、中村半次郎と田代五郎左衛門に襲われました。赤松はその場で命を落とします。

半次郎の日記には、赤松を「討ち果たした」ことが記されており、実行犯が誰かについて、幕末の暗殺としては珍しく本人の記録が残っています。事件の後には、赤松を幕府の「奸物」とする斬奸状が出されたとも伝えられます。

なぜ赤松は斬られたのか

理由として、よく挙げられるのは次の二つです。

  • 幕府側への内通を疑われた:赤松は幕府にも建白し、会津藩など幕府寄りの藩とも付き合いがありました。武力倒幕へ動き始めた薩摩藩の一部から見れば、幕府と通じる危うい人物に映ったと考えられます。
  • 薩摩藩の内情を知りすぎていた:兵学の師として薩摩藩の軍備や調練の内側を見てきた赤松が、京都を離れて国元に帰ることを恐れた、という見方です。

どちらの見方でも、背景にあるのは慶応3年の秋、倒幕へ向かう緊張が一気に高まったことです。翌10月には大政奉還、11月には龍馬が近江屋で殺され、12月には王政復古の大号令へと進みます。話し合いで新しい政治をつくろうとした赤松は、その流れの中で消されたのでした(坂本龍馬はなぜ暗殺されたのか)。

暗殺のあと—埋もれた「議会政治の先駆者」

赤松の遺体は、京都・黒谷の金戒光明寺に葬られました。会津藩の京都本陣が置かれていた寺です。遺髪は郷里の上田に送られ、月窓寺に納められました。

斬った中村半次郎は、明治になって桐野利秋と名を改め、陸軍少将にまで出世します。一方の赤松は、長いあいだ一般にはほとんど知られない存在でした。議会政治の構想を早くから示していた人物として、地元の上田などで顕彰が進み、近年になって再評価が広がっています。

暗殺場所と赤松小三郎ゆかりの地

遭難の地(京都市下京区・東洞院通)

斬られたのは東洞院通の魚棚あたりとされます。四条通から南へ下った一帯で、現在は町なかの通りになっています。地下鉄四条駅・阪急烏丸駅から歩いてすぐの範囲です。

金戒光明寺(京都市左京区黒谷町)

赤松の墓がある寺です。会津藩殉難者墓地のある寺としても知られ、新選組ゆかりの地でもあります(新選組と会津藩—京都守護職・松平容保)。市バス「岡崎道」から歩いて10分ほどです。

月窓寺(長野県上田市)

郷里の上田にある、遺髪を納めた寺です。上田城跡とあわせて訪ねられます(上田藩)。

▶ この事件を起こした側の人物

✎ 筆者のひとこと

赤松小三郎の建白書を読むと、「選挙で議員を選ぶ」という発想が慶応3年にすでにあったことに驚かされます。もし赤松が生きて上田に帰っていたら、明治の議会づくりはもう少し早く、違う形になっていたかもしれません。

ただ、赤松は薩長の出身ではありません。本当に実現させようとすれば、自分の手柄にするのではなく、薩長の誰かをうまく動かして形にしてもらうしかなかったのかもしれません。

あわせて読みたい

参考資料

  • コトバンク「赤松小三郎」(日本人名大辞典ほか)
  • コトバンク「桐野利秋」
  • 上田市・赤松小三郎研究会の公開資料
  • プレジデントオンライン「赤松小三郎」関連記事
  • URLをコピーしました!
目次