| 平間重助 | |||
| 職名 | 副長助勤 | ||
| 出身 | 常陸(水戸) | ||
| 終焉場所 | 不明 | ||
| 終焉方法 | 不明 | ||
平間重助をもっと深く—芹沢暗殺の夜を、逃げ延びた男
芹沢鴨が斬られた夜、八木邸にいた水戸派のなかで、ただ一人生き延びたのが平間重助です。その後の人生には、いくつもの説があります。
芹沢の剣の門人
文政七年(1824)の生まれとされます。水戸の脱藩とされ、いまの茨城県行方市の出身という説がありますが、確かな史料はありません。下村嗣次(芹沢鴨の前の名とする説があります)から神道無念流を学び、目録を得たといいます。
壬生浪士組の勘定役
文久三年(1863)二月、芹沢とともに浪士組に加わって上京し、京都に残った十三人の一人として壬生浪士組を結成しました。副長助勤と勘定役を兼ねています。
暗殺の夜に
文久三年九月十六日(十八日説もあります)の深夜、八木邸に刺客が踏み込み、芹沢鴨と平山五郎が斬られました。騒ぎに気づいた平間が大声を上げながら屋内を走り回る姿を、八木家の人たちが見ています。平間はそのまま姿を消しました。
その後の説
逃げたあとの足取りには複数の説があります。のちに岩手で養蚕の教師となり、「諏訪部重助」と名を変えて明治二十三年(1890)ごろまで生きていた、という説も伝わりますが、確かめられていません。没年も分かっていません。
平間重助の歩みを年表で
| 年 | できごと |
|---|---|
| 文政七年(1824) | 生まれる。水戸の脱藩とされ、出身は常陸国行方郡とする説がある |
| 若いころ | 下村嗣次に神道無念流を学び、目録を得る |
| 文久三年(1863)二月 | 芹沢鴨・新見錦・平山五郎・野口健司とともに浪士組に加わり、京都へ上る |
| 文久三年 | 壬生浪士組で副長助勤と勘定役を務める |
| 文久三年九月十六日(十八日説もある) | 芹沢鴨が八木邸で暗殺される。平間は逃げ延びる |
| その後 | 岩手で養蚕の教師となり、諏訪部重助と名を改めたとする説がある |
| 明治二十三年(1890)ごろ | このころまで生きていたとする説がある |
平間重助を読み解く
芹沢の側近で、勘定役
平間は、芹沢鴨の一派のなかでも芹沢にもっとも近い一人でした。芹沢から剣を学んだ門人で、上洛のときも芹沢と行動をともにしています。壬生浪士組では副長助勤とともに勘定役を務めました。算用に通じていたからとされ、剣の腕だけの人ではありませんでした。隊のお金の出し入れを水戸派が握っていたことも、試衛館派との対立の一因だったと見ることができます。
暗殺の夜、なぜ助かったのか
芹沢暗殺の夜、平間は島原の角屋での宴会のあと八木家に戻り、輪違屋の糸里とともに寝ていました。未明に襲撃が始まると、大声を上げながら屋内を駆け回っていた姿が見られています。芹沢と平山五郎は斬られましたが、平間は逃げ延びました。死んだふりをしたという話もあります。襲った側がはじめから平間を狙っていなかったのか、たまたま逃げられたのかは分かっていません。暗殺の夜のことは芹沢鴨、平山五郎、芹沢鴨と水戸派の最期でも扱っています。
水戸派でただ一人生き残る
水戸派の中心だった五人のうち、新見錦は切腹、芹沢と平山は暗殺、野口健司も年末に切腹しました。明治まで生きたとされるのは平間だけです。ただ、岩手で養蚕の教師になったという話を裏づける記録は多くありません。
はっきりしないこと
平間の出身地、暗殺の夜にどう逃げたのか、その後どこでいつ亡くなったのかは、いずれも確かめられていません。
平間重助をさらに掘り下げる
あの夜、八木邸にいた人々
芹沢鴨が斬られた夜の八木邸には、水戸派の三人と、それぞれの馴染みの女性がいたと伝えられます。芹沢のそばにはお梅、平山五郎には桔梗屋の吉栄、平間には輪違屋の糸里がいたといいます。刺客が踏み込むと、芹沢とお梅、平山は斬られ、吉栄と糸里は逃げ出しました。平間もまた、この混乱のなかで姿を消しています。
この夜の様子は、当時少年だった八木家の息子・八木為三郎の思い出として、昭和に入って子母澤寛が書き留めたものがもとになっています。糸里の名は、のちに浅田次郎の小説『輪違屋糸里』でも広く知られるようになりました。ただ、聞き書きには年月を経た記憶の揺れもあり、誰がどこにいたのかの細かな点までは確かめられません。
なぜ平間は追われなかったのか
新選組は、のちに脱走した隊士を但馬まで追いかけて連れ戻すほど、隊を抜けた者に厳しい集団になっていきます。ところが、芹沢暗殺の夜に逃げた平間が追われた形跡はありません。
その理由として考えられるのが、暗殺の「表向きの説明」です。芹沢の死は、長州の者の仕業のように扱われ、葬儀も隊をあげて盛大に営まれたと伝わります。もし平間を追って捕らえれば、内側の者による暗殺だったことが明るみに出かねません。逃げた平間をそのままにしておくことが、近藤らにとってもいちばん都合がよかったのかもしれません。もちろんこれは推測で、平間がどうやって逃げ延びたのかを示す記録はありません。
壬生浪士組の最初の「勘定役」
平間は、壬生浪士組で勘定役を兼ねていました。結成まもない浪士組は資金に乏しく、芹沢らは大坂の商家から金を借りたり、京都の商家に金を出させたりしていました。その金の出し入れを預かっていたのが平間だったことになります。
のちの新選組では、勘定方の河合耆三郎が金の問題で切腹に追いこまれています。隊のお金を預かる役は、どの時代にも危うい立場でした。芹沢の側近として、その金策の実情をいちばんよく知っていたのが平間だったとすれば、彼が暗殺の夜に逃げ延びたことの意味は小さくありません。のちの勘定方については河合耆三郎のページもご覧ください。
水戸派の五人のうち、ただ一人
京都に残った水戸派の五人—芹沢鴨・新見錦・平山五郎・野口健司・平間重助—のうち、文久三年の年の暮れを越えて生きたのは平間だけでした。新見は九月に切腹させられ、芹沢と平山は同じ夜に斬られ、野口は十二月に切腹しています。平間の「その後」がはっきりしないのは残念ですが、生き延びた一人がいたということ自体が、水戸派の最期を語るうえで欠かせない事実です。
平間重助と関わりの深い人たち
ゆかりの地
- 壬生・八木邸(京都市中京区壬生)—暗殺の夜に逃げ出した屯所。
- 行方市(茨城県):芹沢鴨の出身地とされ、平間の出身地とする説もあります。
参考にした資料:永倉新八『新撰組顛末記』、子母澤寛『新選組始末記』、Wikipedia「平間重助」。
文久三年に芹沢鴨の一派と、長州の間者とされた隊士たちがどう消えていったかは、芹沢鴨と水戸派の最期—文久三年、壬生浪士組から消えた人々に年表でまとめています。
新選組をもっと知る本
あの夜ひとり逃げ延びた平間の行方は長く分からず、後年になって郷里での暮らしが伝わりました。永倉新八『新撰組顛末記』と子母澤寛『新選組始末記』は、こうした後日談を拾い上げてきた本です。
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新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:服部武雄(諸士取調役兼監察)
次の隊士 ▶:平山五郎(副長助勤)
新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)

