小栗上野介はなぜ殺されたのか—斬られた理由と最後の地・烏川の水沼河原、取り調べなき処刑の六十四日

東善寺の山門前、寺号標と石灯籠

2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)の主人公です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

幕末の幕臣・小栗忠順(小栗上野介)は、慶応四年閏四月六日の朝、上野国の烏川の河原で斬られました。

取り調べは、一切ありませんでした。

しかもその五日前、小栗は持っていた大砲と小銃をすべて、包囲していた三つの藩に自分から引き渡しています。使者は「疑いはない」と了解して帰りました。それでも斬られました。罪状の根拠となる文書は、いまも出てきていません。この記事では、その最後の六十四日で何が起きたのかを、日付を追って見ていきます。

小栗上野介はなぜ殺された?最後と最後の地—先に答え

最後の日慶応四年閏四月六日(1868年5月27日)。享年四十二
最後の地上野国群馬郡の烏川の河原、水沼河原(いまの群馬県高崎市倉渕町水沼)。「偉人小栗上野介 罪なくして此所に斬らる」の碑が立ちます。墓は近くの東善寺
ともに斬られた人家臣の荒川祐蔵・大井磯十郎・渡辺太三郎。養子の又一忠道も高崎で斬られました(同日説と翌日説あり)
なぜ殺された東山道総督府は「自宅に砲台を据え城郭を構えている」と謀反を疑いました。しかし小栗は五日前に大砲と小銃を自ら引き渡しており、取り調べも判決もなく、「斬れ」と命じた文書も見つかっていません
斬ったのは処刑を指揮したのは軍監の原保太郎と豊永貫一郎(小栗上野介を斬ったのは誰か)
最後の言葉(伝)「母と妻と息子の許婚は逃がした。婦女子には寛典を」と言ったと伝わります(出所は未確定)

もし生きていたら何をしていたのかは、小栗上野介が生きていたらで考えています。

目次

最初に、史料の話をさせてください

小栗は日記をつけていました。『小栗日記』といいます。権田村での日々も、この日記でかなり細かく分かります。

ですがその日記は、閏四月二日の記載で終わっています。

つまり—家族が逃げた日も、逮捕された日も、処刑された日も、本人の記録は残っていません。以降は他の史料と伝承に頼るしかない。逮捕日が四日説と五日説に分かれるのも、最期の言葉の出所がはっきりしないのも、根はここにあります。この記事でも、確かなことと伝承を分けて書きます。

権田村へ

権田村で、村人たちと向きあう小栗忠順
権田村で、村人たちと向きあう小栗忠順(本記事のためのイメージ図です。当時の記録画ではありません)

罷免、そして帰農願

慶応四年一月十五日、小栗は江戸城に呼び出されます。老中・酒井忠惇と若年寄・稲葉重正から「御役御免、勤仕並寄合」—罷免を申し渡されました。鳥羽・伏見のあと、徹底抗戦を主張した小栗と、恭順を選んだ幕府の間で、行き場がなくなった結果です。十三日後の一月二十八日、上野国群馬郡権田村への土着願書を出します。翌二十九日に許可されました。

ここは大事なところです。これは「江戸から逃げた」のではなく、認められた帰農です。

権田村は、小栗家の知行地でした

小栗家は禄高二千五百石の旗本。そのうち権田村の村高は三百七十五石余です。知行地の一部にあたります。縁もゆかりもない山村に逃げ込んだのではなく、自分の領地へ引っ込んだわけです。

彰義隊の隊長就任を断っています

二月末、渋沢成一郎から彰義隊の隊長就任を打診されたものの、「無名の師」—大義名分のない戦いだからとして断った、と伝えられます。(この逸話は広く紹介されていますが、今回調べた範囲では一次の出典にたどり着けませんでした。東善寺の解説にも出てきません。そういうものとして読んでください。)

彰義隊がどう生まれ、上野でどう敗れたのかは、彰義隊とは—上野戦争・黒門口の激戦で詳しく書いています。

十七人で、江戸を出ました

二月二十八日の朝八時、神田駿河台の屋敷を出発。

同行は十七人。家族は妻の道子(三十歳)、母のくに(六十三歳)、養子の又一忠道(二十一歳)、養女の鉞子(十五歳)。家臣には塚本真彦(三十七歳)、荒川祐蔵(三十六歳)、渡辺太三郎(二十歳)らがいました。経路は日記に残っています。

  • 二月二十八日—大宮の普門院に参詣し、夕方に桶川宿泊
  • 二月二十九日—吹上で昼食、深谷宿泊
  • 二月三十日—新町で昼食、高崎宿泊
  • 三月一日—室田で昼食、夕方四時に権田村の東善寺着

小栗が江戸を見たのは、これが最後です。

小栗上野介の寺と記された東善寺の寺標

権田村(現在の高崎市倉渕町)の東善寺。寺標に「小栗上野介の寺」とある。小栗が身を寄せ、いまも墓のある寺である

三月八日、出頭しませんでした

ここが後に効いてきます。三月八日、東山道総督府が高崎に入りました。高崎藩主と小幡藩主は常磐町まで出迎えています。小栗は、石上寺の本営に出頭しませんでした。勤王の意を表明していません。帰農して隠居したつもりの人と、新政府に恭順を示すべき旧幕府要人と—立場の見え方が、ここでずれました。

三月四日、二千人に囲まれました

権田村に着いて三日目、日記に不穏な記述が出ます。三月二日、隣村の博徒が廻文を回しました。賛同しない者は焼き払う、と。翌三日、小栗は家臣の大井磯十郎を三ノ倉の全透院へ送って談判させています。そして三月四日。押し寄せた世直し勢は、およそ二千人でした。(千人前後とする資料もあります。)

小栗は女性たちを裏山へ逃がし、又一と歩兵ら二十人で下手を固めます。家臣が数人を討ち取り、生け捕りも出しました。翌五日には六か村から詫び書を取り、捕らえた者を引き渡しています。

ここを誤解してはいけません

押し寄せたのは権田村の人ではありません。博徒に扇動された近隣他村の農民です。

権田村ではこのとき十一戸が焼かれています。村は被害者の側でした。

そして戦ったのは農兵ではなく、フランス式の調練を受けた家臣二十人です。二千五百石の旗本の家臣団として、特別多い数ではありません。ですがこの一件が、「小栗は大量の武器を持っている」という噂に変わりました。のちの嫌疑は、ここから育っています。

観音山に、家を建てるつもりでした

日記に残る権田村の日々は、戦の準備をしている人のものではありません。

  • 三月六日—観音山の建設予定地を視察、神社に参詣
  • 三月十一日—土木を黒鍬に発注し、手付金五両を渡す
  • 三月十三日—水路開発の手付金三両を渡す
  • 四月二十五日—「来る二十八日に居宅の建前になる」

二日をおかず観音山に登って工事を見て、馬場で乗馬を楽しんでいます。塚本真彦・荒川祐蔵・佐藤藤七とアメリカ帰りの四人で、若者のための塾を開く構想もありました。上棟の予定日は、閏四月二十八日。その二十二日前に、小栗は斬られました。観音山小栗邸跡はいま高崎市の指定史跡です。礎石が残り、整備した用水路は今も田畑を潤しています。

観音山 小栗上野介屋敷跡の標柱

安中市教育委員会が立てた「観音山 小栗上野介屋敷跡」の標柱。ここに家を建てるつもりだった

小栗上野介の屋敷跡はこの下の平地ですと記された案内板

「小栗上野介の屋敷跡は、この下の平地です。」と書かれた木の札。杉木立のなかに、その平地だけが残っている

閏四月一日—大砲を、自分から渡しました

四月二十二日、東山道総督府が小栗への追討令を出したとされます。閏四月一日、高崎・安中・吉井の三藩の使者が権田村へ来ました。回文の文面はこうです。

砲台を築き不容易企有之

砲台を築いて容易ならざる企てがある、と。要害の地に砦を構え、大小の砲を持ち、浪人を召し抱えて官軍に抗する構えだ—というのが総督府側の見立てでした。小栗は答えます。観音山は自分の持ち山であり、建てているのは雨露を凌ぐ程度の家であると。

使者たちは「疑いはない」と了解しました。

それでも恭順の証拠がほしい、と言われます。そこで小栗はこう申し出ました。

所持している大砲を皆様にお預けします

大砲も小銃も、すべて三藩に引き渡しています。

翌閏四月二日、又一を四日に高崎城下へ同道させ、そこから総督のいる行田へ向かわせることが決まりました。小栗の側は、嫌疑が晴れたと理解していたわけです。

そして日記は、ここで終わります。

閏四月五日、逮捕

高崎市の公式な記述では閏四月五日に捕縛、翌日に処刑です。(閏四月四日とする資料もあります。四日は道子たちが亀沢へ移動した日で、小栗はそれに同行して別れを告げているため、どちらの日に東善寺にいたかで説が割れます。)踏み込んだのは軍監の原保太郎と豊永貫一郎、率いるのは高崎・安中・吉井三藩の兵。

原保太郎は、このとき二十二歳です。丹波・園部藩士の三男でした。(長州出身とする記述も見かけますが、園部藩出身とする記録と矛盾します。)豊永貫一郎は土佐の出で、十六歳とも十八歳ともいわれます。本堂に端然と座って迎えた小栗と、家臣の渡辺太三郎・荒川祐蔵が捕らえられ、小栗は駕籠で三ノ倉の屯所へ引き立てられました。

寺でも屯所でも、取り調べは行われていません。

水沼河原での処刑を描いたイメージイラスト

イメージ(イラスト)|閏四月六日の水沼河原。小栗忠順と家臣三名が、取り調べのないまま斬られました。

閏四月六日、午前十一時

烏川の水沼河原で処刑される小栗忠順と家臣たち
烏川の水沼河原で処刑される小栗忠順と家臣たち(本記事のためのイメージ図です。当時の記録画ではありません)

場所は烏川の水沼河原。いまの高崎市倉渕町水沼です。斬られた順は荒川祐蔵、大井磯十郎、渡辺太三郎、そして小栗忠順。享年四十二。大勢の村人が見ていました。家臣が改めて無罪を大声で訴えると、小栗は「お静かに」と制し、こう言ったと伝えられます。

もうこうなった以上は、未練を残すのはやめよう

原が言い残すことはないかと聞くと、にっこり笑って—

私自身には何もないが、母と妻と息子の許婚を逃がした。どうかこれら婦女子にはぜひ寛典を願いたい

この言葉を誰がいつ書き留めたのかは、特定できていません。原保太郎の後年の回想なのか、見ていた村人の伝承なのか。多くの本が引きますが、出所ははっきりしません。ここは「伝えられている」として読むのが正確です。斬った人物についても、原保太郎は後年「自分が斬った」と語っています。一方で安中藩の徒目付・浅田五郎作だとする説も地元にあります。

翌日、息子も

閏四月七日、養子の又一忠道が高崎城内で斬られました。なお、忠道の処刑を小栗と同じ六日とする説もあり、日付には二つの説があります。享年二十一。家臣三名も同時です。こちらも取り調べはありません。遺体は下斉田村に葬られ、いまも高崎市下斎田町に墓があります。村の人が「小栗様」と呼んで供養を続けてきました。

▶ 「主人公・小栗忠順の生涯」の記事

なぜ、殺されたのか

ここからは諸説の整理です。

説1|武器を蓄え、農兵を訓練していた

大砲二門・小銃二十挺を持ち、農兵を訓練していた—というものです。この数字の出所は限られています。一次史料での確認はできませんでした。そして何より、閏四月一日に小栗はその武器をすべて三藩に引き渡しています。使者は疑いなしと了解して帰りました。その四日後に逮捕され、五日後に斬られています。

「農兵の訓練」の正体も、三月四日に打ちこわし勢を撃退した家臣二十人の話が噂として膨らんだものと見るのが自然です。

説2|徳川埋蔵金を隠した

大政奉還のとき勘定奉行だったこと、上州へ引っ込んだこと、江戸城の金蔵が空だったこと—それらが結びついて、「小栗が幕府の金を持って逃げた」という噂が立ちました。「利根川を遡った船から誰かが赤城山中へ何かを運び込むのを見た」という証言まで出ています。

ですが、小栗は一月十五日に会計の職を解かれています。その後に幕府の金を動かす権限はありません。そもそも横須賀に巨費を投じた人物です。金を隠す行動と噛み合いません。赤城山は平成に入っても繰り返し掘られましたが、何も出ていません。

そして重要なのは、総督府が挙げた嫌疑に埋蔵金は入っていないということです。文面は「砲台を築き」でした。埋蔵金は、処刑の理由ではなく、処刑されたことから逆算して生まれた物語です。

説3|能力を恐れられた

小栗が越後方面の勢力と気脈を通じて薩長軍の後方を襲うのではないか、と疑われたという見方があります。実際、大村益次郎は後年「幕府でもし小栗豊後守の献策を用いて実地にやったならば、我々はほとんど生命がなかった」と語っています。西郷隆盛の意向が働いたのではないかとする論者もいますが、その論者自身が「確かな裏付けは取れない」と書いています。

なお「フランスとの結びつきを断つためだった」という説もよく語られますが、信頼できる出典は見つかっていません。

説4|現場の独断

豊永貫一郎が「先に斬った方が勝ちだと思っていた」と釈明したと伝えられます。二十二歳と十六歳(あるいは十八歳)の軍監が、その場で決めた可能性です。参考になるのは、同じ東山道軍がこの少し前、信州下諏訪で赤報隊の相楽総三ら八人を「ニセ官軍」として斬っていることでしょう。

他の幕臣は、どうなったか

比べてみると異例さがはっきりします。

人物立場処分
小栗忠順武器を引き渡し無抵抗取り調べなし、二日以内に斬首
榎本武揚箱館まで戦い続けた約二年半の入獄 → 特赦 → 開拓使、のち駐露公使
大鳥圭介同上収監 → 赦免 → 新政府に登用
勝海舟恭順を主導処罰なし。新政府に出仕
山岡鉄太郎(鉄舟)慶喜の使者として駿府の西郷隆盛に会い、江戸城明け渡しの道を開いた処罰なし。明治天皇の侍従などを務める
赤松則良オランダ留学から戊辰の年に帰国。箱館には加わらず処罰なし。静岡藩の沼津兵学校で教えたのち新政府の海軍へ、のち海軍中将
西周オランダ留学帰りの洋学者。慶喜の側近として仕えた処罰なし。沼津兵学校の頭取を経て新政府の兵部省・陸軍省へ
川路聖謨勘定奉行・外国奉行を務めた小栗の先輩格。病で隠居していた新政府の処分は受けず。慶応四年三月、江戸城明け渡しが決まるなか自ら命を絶つ

箱館まで戦った榎本や大鳥が助命されて登用され、恭順して武器を差し出した小栗が取り調べもなく斬られました。ただし公平に言えば、小栗の処刑は戊辰戦争の初期、榎本らの処分は戦争が終わったあとです。時期の差はあります。それを踏まえてもなお、釣り合いは取れていません。

東善寺の小栗上野介忠順と小栗又一忠道の墓

東善寺の墓所。忠順と、ともに斬られた養子の又一忠道の名が並んでいます。

村人が、首を取り返しました

この記事でいちばん書きたかったのは、ここです。

この経緯は、いまも館林の側に記録されています。首が葬られた法輪寺の門前には、館林市教育委員会が令和七年度に設けた「小栗上野介ゆかりの法輪寺」の説明板が立っています。小栗の肖像と法輪寺の写真を添え、慶応四年正月の罷免から権田村への隠遁、閏四月の処刑、そして父子の首がこの寺に葬られたことまでが記されています。処刑した側の町が、百五十年を経てその事実を掲げているわけです。

館林市教育委員会の説明板「小栗上野介ゆかりの法輪寺」
館林の法輪寺に立つ説明板「小栗上野介ゆかりの法輪寺」。首が葬られた側の町が、令和七年度に設けたものです

首は館林へ送られました

高崎藩士・島田弥七郎の日記『座右記』に記録があります。

閏四月十二日 上野介倅又一 右首級并武器等三藩之御人数為警固 総督御本陣館林迄罷越 引渡相済罷帰候

高崎・安中・吉井三藩の護送隊が、四泊五日かけて館林を往復したことが分かります。『太政官日誌』第二十五号にも記述があります。

小栗父子の首級并武器類ハ総督府へ護送仕候

これを見つけたのは昭和十二年、館林図書館長の福田啓介でした。首は館林城内で東山道総督・岩倉具定の首実検を受け、秋元家の位牌寺だった泰安寺に預けられ、法輪寺の本堂西の墓地に埋められました。

一周忌の夜

明治二年、一周忌にあたる四月六日の夜。

権田村の人たちが、館林の法輪寺へ行きました。中心にいたのは中島三左衛門。道子夫人を会津まで護衛した村役人です。塚越房吉も同行しました。細内の渡辺忠七が寺への足がかりをつけています。名目は「殿様の一周忌が近いので墓を建てたい」。二度目の試掘で、首は出てきました。そして権田村へ持ち帰り、東善寺に埋めた胴と一緒にしました。

この話は、長いあいだ語られませんでした

当然です。新政府の管理下にあるものを盗んだのですから。渡辺忠七は館林藩に捕らえられ、法輪寺の住職・奥田明山は百日の謹慎に処されています。村では子から孫へ、ひそかに伝えられました。公に語られるようになったのは、戦後二十年近く経った1950年代の後半です。村人はこれを「お首級迎え」と呼んでいました。

裁判もなく殺された領主の首を、危険を冒して掘り返しに行き、そのことを八十年以上黙っていた—権田村の人が小栗をどう見ていたかは、この一事で足ります。

▽ もうひとつ、首にまつわる伝承があります

埼玉県さいたま市大宮区の普門院には、権田で斬られた首を家臣がひそかに持ち出し、住職に託して埋めたという首塚の伝承が残ります。境内には、文字を刻まない自然石の供養塚が立っています。

▼ どう考えるか

首が館林へ送られ、法輪寺に埋められたことは『座右記』『太政官日誌』という同時代の記録で裏づけられます。普門院の話は、その経路とは別に伝えられてきたものです。普門院は小栗家の江戸での菩提寺の一つで、忠順自身も権田村へ向かう道中に立ち寄って永代供養料を納めたと伝わる寺であり、一族の始祖・小栗忠政以下の墓所でもあります。首そのものの行方については記録の側に分がありますが、縁の深い寺で供養が続けられてきたこと自体は、別に確かな話です。

普門院にある小栗上野介忠順の首塚と伝わる自然石

普門院(さいたま市大宮区)の供養塚。刻銘のない自然石で、新政府の目をはばかったためと言われます。左は小栗家の宝篋印塔です。

妻は、二十二日かけて会津へ逃げました

小栗が斬られた閏四月六日の夕方、家族は権田村を出ました。身重の道子が三十歳、小栗の母のくにが六十三歳、又一の許婚だった鉞子が十五歳。護衛したのは中島三左衛門にひきいられた村人でした。善光寺参りの一行を装った山越えで、会津若松に着いたのは二十二日後のことです。

六月十日、南原の避難所で女の子が生まれます。国子、小栗忠順のただひとりの実の子でした。会津が落ちたあと母子を引き受けたのが、小栗の父の中間だった三野村利左衛門です。三野村家の援助はその死後も続きました。明治十八年に道子が亡くなると、十六歳の国子は大隈重信の妻・綾子の縁で大隈家の養女となり、翌年に婿を迎えて小栗家が再興されます。

その先の経緯は長くなりますので、小栗忠順の遺児はどう生きたかに分けて書きました。日付つきでたどれる逃避行の経路、三野村家が明治二十年まで出しつづけた「情金」、そして動いたのが大隈本人ではなく妻の綾子だったことなど、ここで省いた部分はそちらで扱っています。

群馬県指定重要文化財と刻まれた小栗上野介忠順墓の標柱

墓のわきに立つ標柱。「小栗上野介忠順墓」とあり、群馬県の指定を受けていることが記されています。

「罪なくして斬らる」と刻まれるまで

評価が変わるには時間がかかりました。

  • 昭和三年—蜷川新『維新前後の政争と小栗上野の死』が刊行されます。蜷川は法学者で、小栗の義理の甥にあたる人です
  • 昭和七年—水沼に慰霊碑が建ちます。建てたのは地元の有志、碑文を書いたのは蜷川新でした
  • 昭和十二年—館林図書館長・福田啓介が『太政官日誌』の記述を発見。首の行方が史料で確定します
  • 昭和二十八年—東善寺の墓が群馬県指定史跡に
  • 1950年代後半—「お首級迎え」の伝承が、ようやく公に語られます
  • 昭和五十一年—顕彰会の機関誌『たつなみ』創刊。誌名は小栗家の家紋「丸に立浪」から
  • 昭和五十七年—終焉の地と観音山小栗邸跡が高崎市指定史跡に

そして水沼の碑には、こう刻まれています。

偉人小栗上野介 罪なくして此所に斬らる

いまでは高崎市も群馬県も、公式の解説で「何の取り調べもなく」「無実の罪を着せられて」と書いています。

斬られてから六十四年かかって、地元がまず碑を建てました。

訪ねるなら

  • 東善寺(高崎市倉渕町権田169)—最後の六十四日を過ごした寺。父子と家臣の供養墓があり、裏山を二、三分登った所に本墓。館林から取り返した首は、ここに眠っています。遺品館にはアメリカから持ち帰ったネジや望遠鏡があります
  • 小栗上野介忠順終焉の地(高崎市倉渕町水沼)—昭和七年の慰霊碑。高崎市指定史跡
  • 観音山小栗邸跡(倉渕町権田3584)—建てるはずだった家の礎石と、いまも使われている用水路。高崎市指定史跡
  • 小栗又一源忠道の墓(高崎市下斎田町335)
  • 姉妹観音(高崎市倉渕町岩氷19-1付近)

命日の五月下旬には、顕彰会による「小栗まつり」が東善寺で開かれています。

小栗忠順のゆかりの地をめぐる

小栗のゆかりの地は、東京・横須賀・埼玉・群馬に集まっています。姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」で、都内から回るモデルコースを紹介しています。

倉渕(高崎市)の東善寺や最期の地は駅から離れているので、高崎駅前でレンタカーを借りると回りやすくなります。各社の料金はじゃらんレンタカーで比べられます(PR)。

泊まりがけで回るなら、宿は高崎駅の周辺か、倉渕から車で40〜50分ほどの伊香保温泉が便利です。横須賀は横須賀中央駅のまわりに宿が集まっています。空き室はじゃらんnet(高崎駅周辺・伊香保温泉・横須賀中央)で探せます(PR)。

小栗忠順をもっと知る本

記事の内容をもっと知りたい方に、小栗忠順を扱った本を紹介します。

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