| 沖田総司 | |||
| 職名 | 一番隊隊長 | ||
| 出身 | 江戸 | ||
| 終焉場所 | 江戸市ヶ谷 | ||
| 終焉方法 | 病没 | ||
10歳前後より天然理心流試衛館の門人となります。
19歳で免許皆伝となり剣客としての頭角を現します。
近藤勇は次期天然理心流5代目宗家に沖田を考えていたと言われています。
その後近藤、土方の結成した新選組に参加し一番隊長となります。
池田屋事件に結核で倒れその後は治療に専念します。
鳥羽伏見の戦いにも参加できず、その後江戸に帰って市ヶ谷で病死しました。
天才剣士とうたわれた一番隊組長
沖田総司は、天然理心流の剣の才に恵まれ、若くして塾頭を務めた新選組屈指の剣客です。近藤勇からは流派の後継者候補と目されたほどで、明るい性格と稽古での容赦のない鋭さをあわせ持っていたと伝えられます。新選組では一番隊組長・撃剣師範として隊の武力の中心を担い、「三段突き」と呼ばれる神速の突き技の逸話でも知られます。
病に倒れ、若き最期
しかし沖田は肺の病(労咳=結核)に冒され、池田屋事件のころから体調を崩していきます。やがて第一線を退いて療養に専念し、鳥羽・伏見の戦いにも加われぬまま江戸へ戻りました。そして戊辰戦争のさなか、江戸で療養の末に二十代半ばの若さで世を去ります。病がなければ幕末最強の剣士の一人として名を残したはず――そう惜しまれる、悲運の天才剣士です。
沖田総司をもっと深く——池田屋で血を吐いたのか、という問題
この人には、二重の像があります。史料に残る沖田総司と、昭和以降につくられた沖田総司です。まずそこを分けます。
「喀血して倒れた」は、どこから来たのか
池田屋で斬り合いの最中に血を吐いて昏倒した——あまりに有名な場面です。ですが、この描写の初出は子母澤寛『新選組始末記』(昭和三年)です。
一次史料にあたる近藤勇の書簡にも、島田魁の日記にも、喀血の記述はありません。永倉新八の『新撰組顛末記』にも、「昏倒した」とあるだけで喀血は出てきません。
では倒れたこと自体は嘘かというと、そうではありません。平成十年に発見された永倉直筆の『浪士文久報国記事』に、はっきり書かれています。
沖田総司病気にて会所へ引き取る
「戦闘中に倒れて離脱した」は史実。「血を吐いた」は創作。ここが切り分けです。近年は暑気あたりだったのではないかという説も出ています。
労咳の発症は、いつだったのか
元治元年の池田屋で発症していたとすると、慶応四年五月の死まで四年あります。結核の経過としては長すぎるという指摘があります。
もうひとつの説が、小島鹿之助『両雄士伝』の「丁卯二月罹疾」——慶応三年二月の発症です。死までおよそ一年で、医学的にはこちらのほうが自然です。
実際、池田屋の翌月には禁門の変に出動し、元治二年二月には山南敬助の介錯も務めています。周囲に肺病を感じさせる状態ではありませんでした。
同時代の人が見た沖田総司
ここが、いちばん意外なところかもしれません。
同時代の証言に残る沖田の容貌は、「色黒」「肩の張り上がった」「猫背」「長身」「笑うと愛嬌がある」というものです。美男子という評は出てきません。
よく見かける肖像画は昭和四年に描かれたもので、生前の写生ではありません。美男子像が定着するのは一九三〇年代の映画からで、「薄幸の天才美剣士」という像は一九七〇年代以降に固まりました。司馬遼太郎が描いたさわやかな青年像は、作家の創造です。
白河藩士の子、しかし江戸生まれ
父は陸奥白河藩士・沖田勝次郎、足軽小頭。ただし総司が生まれたのは江戸の白河藩屋敷で、白河の出身ではありません。生年は天保十三年説と天保十五年説があります。
父は弘化二年に死去。姉のミツが婿を迎えて沖田家を継いだため、総司は家を継げない立場で試衛館へ出されました。九歳のころ、内弟子としてです。そして若くして塾頭になります。
面白いのは義兄・沖田林太郎の立場です。弟は京都の新選組、義兄は江戸の新徴組。同じ浪士組から分かれた二つの組織に、義理の兄弟が分かれて属していました。
姉のミツは明治四十年、満洲で亡くなっています。享年七十五。弟の死から三十九年生きました。
墓碑に刻まれた免許
沖田家の墓碑には「北辰一刀流免許皆傳 天然理心流免許皆傳」と刻まれています。ですが北辰一刀流の免状は実物が確認されていません。後世に箔をつけるために刻まれたのではないか、という見方が有力です。
どこで死んだのかも、割れています
没日は慶応四年五月三十日。死没地には二説あります。
- 千駄ヶ谷・植木屋平五郎宅——子母澤寛による。平成七年に近藤勇五郎が明治二十二年に記した史料が見つかり、こちらが有力に
- 今戸八幡——永倉新八の『同志連名記』に「江戸浅草今戸八幡 松本順先生宿にて病死」
享年も墓碑の二十四、沖田家文書の二十五、『両雄士伝』からの逆算の二十七と、三説あります。これほど有名でありながら、生年も没地も享年も定まっていないのです。

