楠小十郎【新選組隊士 平隊士 幕末】

壬生の屯所の門前に立つ新選組隊士の後ろ姿
楠小十郎
職名 平隊士
出身 京都
終焉場所 京都 前川邸門前
終焉方法 殺害
「美男五人衆」の一人に数えられる若い隊士です。 長州の間者として入り込んでいたとされます。 文久三年九月、前川邸の門前で原田左之助に斬られました。
目次

楠小十郎をもっと深く—「美男五人衆」の一人、間者として斬られる

新選組の初期に、長州の間者(スパイ)として斬られた若い隊士です。「美男五人衆」の一人にも数えられます。

女のような優しい声

京都の出身とされます。のちの聞き書きでは、若々しく目がぱっちりとした色白の顔で、女のように優しい声をしていたと語られています。

長州の間者だった?

楠は、久留米の尊王攘夷派・真木和泉の命で新選組に入り込んだ間者だったとされます。真木の日記『文久癸亥日記』に出てくる人物を楠のことだと考える研究者もいますが、確かなことは分かっていません。

文久三年九月、前川邸の門前で

文久三年九月二十六日の朝、屯所の前川邸の門前で、原田左之助に背後から斬りつけられました。楠は水菜の畑まで逃げたところで倒れ、亡くなったといいます。この場面は、八木家の次男・為三郎が目撃したと伝わります。芹沢鴨の暗殺から十日ほどあとのことでした。

楠小十郎の歩みを年表で

年できごと
弘化四年(1847)ごろ京都に生まれたとされる
文久三年(1863)壬生浪士組に入る。久留米の真木和泉の命を受けた間者だったとされる
文久三年八月十八日八月十八日の政変。長州藩と尊王攘夷派の公家が京都から追われる
文久三年九月十六日芹沢鴨が八木邸で暗殺される(十八日説もある)
文久三年九月二十六日朝、前川邸の門前で原田左之助に斬られる。十七歳ほど

楠小十郎を読み解く

政変のあとの「間者狩り」

文久三年八月十八日の政変で、長州藩と、真木和泉ら尊王攘夷派の志士たちは京都から追い出されました。京都に足場を失った彼らにとって、会津藩の配下にある壬生浪士組の動きを探ることは大事な仕事だったはずです。楠が斬られたのは、その政変から一か月ほど、芹沢鴨の暗殺から十日ほどあとでした。同じ日には御倉伊勢武と荒木田左馬之助も斬られています。近藤勇らが芹沢派を除いた直後に、隊の中の間者と見た者を一気に始末した一日だったといえます。

目撃者がいた死

楠の最期は、屯所となっていた八木家の次男・八木為三郎が見ていたと伝わります。濃い霧の朝、前川邸の門前で背後から斬られた楠は、水菜の畑まで逃げて倒れました。新選組の粛清の多くは、場所や様子がはっきりしません。楠の場合は、近所の少年の目を通して、場面が細かく語り継がれている珍しい例です。壬生の屯所の様子は【現地取材】壬生・八木邸で紹介しています。

美少年と間者

楠は「美男五人衆」の一人に数えられ、色白で目がぱっちりとした顔、女のような優しい声をしていたと語られます。十七歳ほどの若者が、本当に真木和泉の命を受けた間者だったのかは分かりません。ただ、見た目が穏やかで疑われにくい若者だったからこそ、間者の役目を負わされたのだと見ることもできます。美男五人衆については馬越三郎のページで紹介しています。

はっきりしないこと

真木和泉の日記『文久癸亥日記』には「楠十」という人物が夜に訪ねてきたとの記述があり、これを楠小十郎とみる研究者もいます。ただし同じ人物だという決め手はありません。楠が長州の間者だったというのも、斬った側の新選組の言い分として伝わっているものです。

楠小十郎をさらに掘り下げる

楠を送りこんだとされる真木和泉と、天王山

楠を間者として送りこんだとされる真木和泉は、筑後久留米の水天宮の神官の家に生まれた人で、尊王攘夷派の志士たちから理論の指導者として仰がれていました。八月十八日の政変で京都を追われると、尊攘派の公家たちとともに長州へ下ります。

翌元治元年七月、真木は長州勢とともに再び京都へ攻めのぼりました。禁門の変です。しかし敗れて天王山へ退き、同志とともに自刃しました。このとき天王山まで追撃したのが、会津藩兵とともに出動した新選組でした。楠が真木の命で入りこんだ間者だったとすれば、楠を斬った新選組は、その十か月後に、楠を送りこんだ当の本人をも追いつめたことになります。天王山の追撃は禁門の変と新選組で扱っています。

なぜ京都の若者だったのか

楠は京都の出とされます。京都の町に通じ、言葉にも怪しまれるところのない地元の若者は、京都で動く者にとって使いやすい存在でした。遠国から来た浪士ばかりの壬生浪士組の中で、京都生まれの者は町の案内役としても重宝されたはずです。

ただ、その「使いやすさ」は、疑われやすさとも裏表でした。京都の町の人々とのつながりを持つ者は、外の者と連絡を取りやすいからです。政変のあとの緊張した時期に、京都出身の若い隊士が真っ先に疑いの目を向けられたのは、無理もないことだったのかもしれません。

十七歳の死と、残された証言

楠が斬られたとき、十七歳ほどだったとされます。新選組の粛清で命を落とした者の中でも、とりわけ若い一人です。慶応三年に会津藩邸で自刃した中村五郎が十九歳でしたから、それよりもさらに若かったことになります。

その最期を伝えているのは、当時まだ子どもだった八木為三郎の思い出です。後年の聞き書きなので細部には注意が要りますが、屯所の門前で、しかも朝の明るいうちに隊士が斬られ、それを近所の子どもが見ていたという話は、壬生村での新選組の日々がどれほど町の暮らしと隣り合わせだったかを物語っています。前川邸は今も個人の住まいで、公開される機会は限られていますが、門の前に立つと、この話の舞台の近さが実感できます。

「美男」と「間者」

楠は「美男五人衆」の一人として語られます。色白で声の優しい若者という姿が伝わっているのは、斬られた場面とともに、町の人々の記憶に強く残ったからでしょう。一方で、間者だったという話は、斬った側の新選組の説明として残ったものです。楠という人物は、町の人の記憶と、隊の側の言い分という二つの語り口の中にだけ姿をとどめています。

楠小十郎と関わりの深い人たち

  • 御倉伊勢武—同じ日に、同じく長州の間者として斬られたとされる隊士。
  • 原田左之助—楠を斬ったとされる隊士。
  • 近藤勇—斬ることを命じたとされる局長。
  • 芹沢鴨—直前に暗殺された局長。同じ時期、隊の中で粛清が続きました。
  • 山野八十八—同じく「美男五人衆」に数えられる隊士。

楠小十郎のゆかりの地

参考にした資料:八木為三郎の談話(子母澤寛の聞き書き)、真木和泉『文久癸亥日記』に関する諸研究。

文久三年に芹沢鴨の一派と、長州の間者とされた隊士たちがどう消えていったかは、芹沢鴨と水戸派の最期—文久三年、壬生浪士組から消えた人々に年表でまとめています。

門前から水菜畑へ

楠が斬られた場所は、屯所だった前川邸の門前でした。背後から斬りつけられたあと、近くの水菜畑まで逃れて絶命したと伝わります。霧の深い朝のこととされ、時刻は朝の四つ時、いまの十時ごろです。手を下した原田左之助は私闘でそうしたのではなく、近藤勇の命を受けていたとされます。

前川邸は旧前川邸として今も残っており、楠が斬られたとされる門もそのまま見ることができます。なお「隊中美男五人衆」という呼び名は、八木邸の八木為三郎が後年に語った話を子母澤寛が『新選組物語』にまとめたもので、隊の公式な記録ではありません。ほかの四人は馬越三郎・山野八十八・馬詰柳太郎・佐々木愛次郎とされます。

新選組をもっと知る本

長州の間者とされて斬られた楠については、そう疑われた根拠も含めてはっきりしません。永倉新八『新撰組顛末記』と子母澤寛『新選組始末記』は、隊がどれほど疑いに敏感だったかを伝えてくれます。

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