藤堂平助【新選組隊士 八番隊隊長 幕末】

藤堂平助
職名 八番隊隊長
出身 江戸
終焉場所 京都油小路事件
終焉方法 戦死

津藩藤堂家のご落胤とも言われています。
千葉周作の千葉道場に通うが試衛館にも通い近藤らと懇意になります。
新選組結成時には8番隊隊長に任命されるが伊藤甲子太郎の脱退に伴い藤堂も脱退し「御陵衛士」となりました。
その後油小路事件で新選組と戦い惨殺されます。

目次

「魁先生」と呼ばれた若き剣士

藤堂平助は、北辰一刀流を修めた新選組八番隊組長で、戦いではつねに先陣を切ったことから「魁(さきがけ)先生」と呼ばれました。若く血気盛んで、池田屋事件でも真っ先に斬り込み、負傷しながらも奮戦したと伝えられます。

御陵衛士への離脱と油小路の悲劇

やがて藤堂は、思想を同じくする伊東甲子太郎らとともに新選組を離れ、尊皇の立場をとる御陵衛士(高台寺党)に加わりました。しかし1867年(慶応3年)、伊東が新選組に暗殺され、その遺体を引き取りに現れたところを襲撃された油小路事件で、藤堂も命を落とします。かつての仲間同士が刃を交えた、幕末の悲劇を象徴する一件でした。

藤堂平助をもっと深く——身長百五十三センチの「魁先生」

先頭に立って斬り込むから「魁先生」。市中巡察でも自ら先頭の当番を引き受けた人です。

ところが身長は約百五十三センチ。実年齢より幼く見える小兵の美男子でした。永倉新八の評は「なかなか剣術はよく使いまして、また文字もございます」。

伊東甲子太郎との関係は、新選組より前です

ここがこの人を理解する鍵です。

千葉周作の玄武館に出入りして十代半ばで北辰一刀流の目録を得たあと、深川中川町の伊東甲子太郎の道場に通いました。そのあとで近藤勇の試衛館に入門し、代稽古を任されています。

伊東との師弟関係が、新選組に入るより前にありました。のちに御陵衛士へ移るのは、この線をたどっただけとも言えます。

隊では副長助勤・八番隊組長。斎藤一とともに最年少の幹部でした。

池田屋——鉢金を外した瞬間

元治元年六月五日、池田屋最初に斬り込んだ四人——近藤勇沖田総司永倉新八・藤堂平助——の一人です。

持ち場は一階の庭。逃げ降りてくる浪士を相手に戦い、刀は鍔元に修復できないひび割れが入るほど傷みました。

そして汗を拭こうと鉢金を外したところを、潜んでいた浪士に斬られます。額を割られ、血が目に入って戦線を離脱。一時は生死をさまよう危篤でした。

薩摩藩家臣の記録に「池田屋に真一番に斬込候処、深手を負ひ、半死半生」とあります。褒賞は十両+別段金十両で、近藤・土方に次ぐ額でした。

御陵衛士では「伊東の左右の手」

慶応三年三月、伊東らと御陵衛士を結成して離脱します。

活動は具体的です。美濃へ出張して侠客・水野弥太郎を懐柔し、配下の農兵数百を組織して奇兵隊のような大軍隊を作る計画を立てました。さらに伊東・斎藤・鈴木三樹三郎らと連名で、長州への寛大な処分を求める建白書を朝廷と幕府に提出しています。これが近藤を激怒させ、油小路の引き金のひとつになりました。

「藤堂を逃がせ」——永倉の証言

慶応三年十一月十八日夜、伊東が暗殺され、遺体が油小路七条の辻に囮として置かれます。罠と知りつつ、藤堂は同志七名とともに現場へ向かいました。

四十名以上の新選組と死闘になります。

ここで有名なのが、近藤の指示です。永倉新八の証言によれば、近藤から「まだ若い有為の材であるからできるだけ助けておきたい」との言葉があり、永倉と原田左之助藤堂が逃げられるよう道をあけたといいます。

ところが事情を知らない隊士・三浦常三郎に斬られました。

背後から斬りつけられ「背後から斬られるのは武士の恥」として応戦したという説、同志を見捨てられず自ら立ち向かったという説もあります。いずれも永倉の回想が土台で、しかも明治期のものです。自己弁護的な要素は差し引いて読むべきでしょう。

検死の記録では、額から鼻にかけての傷は長さ約二十一センチ、深さ六センチ。ほぼ即死でした。慶応三年十一月十九日未明、享年二十三。

孝明天皇を守る位置に眠っています

墓は泉涌寺の塔頭・戒光寺。伊東・毛内・服部らとともに葬られました。

この寺の中には、孝明天皇の眠る後月輪東山陵があります。御陵衛士——孝明天皇の御陵を守る士——という彼らの名乗りが、死後に文字どおり実現した形です。

辞世が残っています。「益荒雄の七世をかけて誓ひてし ことばたがはじ大君のため」

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