| 殿内義雄 | |||
| 職名 | 平隊士 | ||
| 出身 | 上総国武射郡森村(千葉県山武市) | ||
| 終焉場所 | 京都 四条大橋 | ||
| 終焉方法 | 暗殺 | ||
殿内義雄をもっと深く—壬生浪士組を「まとめる側」だった男
壬生浪士組のはじめには、近藤勇の試衛館派、芹沢鴨の水戸派のほかに、もう一つのまとまりがありました。殿内義雄と家里次郎の派です。そしていちばん先に消えたのが、この派でした。
上総の名主の家から
天保元年(1830)、上総国武射郡森村(いまの千葉県山武市)の名主・土屋忠右衛門の子として生まれました。
浪士組の目付役
文久三年(1863)、清河八郎の発案による浪士組に加わり、目付役を与えられました(のちに降格されたといわれます)。三月、浪士組が江戸へ引き返すことになると、浪士取扱の鵜殿鳩翁から、家里次郎とともに京都に残る浪士の取りまとめを任されます。二人は募集して束ねる側の人間だったため、壬生浪士組の隊士名簿には名前が載っていません。
四条大橋での死
文久三年三月二十五日、殿内は四条大橋で斬られました。享年三十四。近藤勇と沖田総司に襲われ、沖田に斬られたという説がありますが、確かなことは分かっていません。
殿内が死ぬと、その派の同志も次々に隊を離れ、残された家里次郎も翌四月、大坂で切腹させられました。こうして壬生浪士組は、近藤派と芹沢派の二つになります。
殿内義雄の歩みを年表で
| 年 | できごと |
|---|---|
| 天保元年(1830) | 上総国武射郡森村(いまの千葉県山武市)の名主・土屋忠右衛門の子として生まれる |
| 文久三年(1863)二月 | 清河八郎の発案による浪士組に加わり、京都へ上る。目付役 |
| 文久三年三月 | 浪士組が江戸へ戻ることになり、鵜殿鳩翁から家里次郎とともに京都に残る浪士の取りまとめを任される |
| 文久三年三月二十五日 | 四条大橋で斬られる。三十四歳 |
| 文久三年四月 | 同じく取りまとめ役の家里次郎が、大坂で切腹させられる |
殿内義雄を読み解く
三つ目の派閥
京都に残った壬生浪士組は、近藤勇の試衛館派と芹沢鴨の水戸派の二つでできていたと思われがちです。しかし、はじめは殿内と家里次郎を中心にしたまとまりもありました。しかも殿内と家里は、浪士取扱の鵜殿鳩翁から、残る浪士たちの取りまとめを正式に任された立場です。近藤や芹沢から見れば、上に立つ邪魔な存在だったことになります。
なぜ殺されたのか
殿内が殺された理由には、主に三つの見方があります。
| 説 | 中身 |
|---|---|
| 人柄の問題説 | 殿内のふるまいに問題があり、浪士たちに嫌われていた |
| 近藤の野心説 | 隊を自分たちでまとめたい近藤勇らにとって、上に立つ殿内が邪魔だった |
| 芹沢派の粛清説 | 芹沢鴨の一派が殿内を除いた |
旅に出ようとした殿内が、近藤らにしこたま酒を飲まされたあと、四条大橋で闇討ちに遭ったという話が伝わっています。この話のとおりなら、近藤らの関わりが強く疑われます。ただし、確かな記録はありません。
壬生浪士組の最初の粛清
殿内の死は、壬生浪士組の中で起きた最初の粛清といえます。一か月後には家里も切腹させられ、殿内の派は消えました。その半年後の九月には芹沢鴨が暗殺され、試衛館派が隊を握ります。新選組の歴史は、内側で派閥を一つずつ除いていく歴史でもありました。そのいちばん最初に消えたのが殿内です。内部の粛清の全体は新選組の切腹・粛清一覧に、同じ浪士組から壬生に残った根岸友山のページもあわせてご覧ください。
殿内義雄と「残留」の一か月をさらに掘り下げる
京都に残ると決まってから、殺されるまで
殿内が斬られるまでの流れを、日付で追うと次のようになります。
| 文久三年 | できごと |
|---|---|
| 二月八日 | 浪士組、江戸を発つ |
| 二月二十三日 | 京都に着き、壬生村に分宿する |
| 三月はじめ | 清河八郎の建白を受け、浪士組は江戸へ引き返すことに。京都に残ろうとする者が出る |
| 三月十二日ごろ | 京都に残った浪士が、会津藩の預かりとなる |
| 三月十三日 | 浪士組の本隊が京都を発ち、江戸へ向かう |
| 三月二十五日 | 殿内、四条大橋で斬られる |
| 四月 | 家里次郎、大坂で切腹させられる |
本隊が京都を去ってから、わずか十二日。会津藩の預かりという後ろ盾が決まり、京都に残った者たちの中で「誰がこの集まりを率いるのか」が問われはじめた、ちょうどその時期に殿内は消されています。
「上から来たまとめ役」だった
殿内と家里は、浪士取扱の鵜殿鳩翁から、京都に残る浪士の取りまとめを任された人たちでした。鵜殿は幕府の役人です。言いかえれば、二人は幕府の側から任された「まとめ役」だったことになります。
一方の近藤勇と芹沢鴨は、それぞれに仲間を連れて京都に残ることを自分たちで決めた人たちでした。自分たちの仲間を中心に隊を作りたい近藤・芹沢にとって、上から任された殿内たちは、いわば頭越しに置かれた存在です。この構図を考えると、殿内がまっ先に狙われた理由が見えてきます。殺害の実行者ははっきりしませんが、殿内の死によって得をしたのが誰だったかは、そのあとの隊の姿がよく示しています。
名主の家に生まれた者どうし
殿内は上総の名主の家の出でした。近藤勇や土方歳三も、多摩の農家に生まれています。武士の家ではなく、村の有力者の家から剣を学んで世に出ようとした点で、殿内と近藤らはよく似た境遇にありました。関東の村々には、こうした名主や豪農の子が剣術を学び、志を持って京都に上るという流れがあったのです。同じ浪士組から壬生に残った根岸友山も、武蔵の豪農の出でした。
似た生まれの者どうしが、京都に着いて一か月あまりで斬る側と斬られる側に分かれた—そこに、壬生浪士組のはじまりの厳しさがあります。
もし殿内が生きていたら
歴史に「もし」は禁物ですが、殿内と家里が京都に残る浪士を率いていれば、この集まりは幕府の役人の指図を受ける、もっと「官」に近い組織になっていたかもしれません。近藤と芹沢が主導権を握ったからこそ、壬生浪士組は仲間どうしの結びつきで動く集団として育っていきました。その出発点に、殿内の死がありました。
殿内義雄と関わりの深い人たち
ゆかりの地
- 四条大橋(京都市):殿内が斬られた場所。
- 山武市(千葉県):生まれ故郷の森村があった土地。
文久三年の壬生浪士組で何が起きたかは芹沢鴨と水戸派の最期に、隊内の粛清の全体は新選組の切腹・粛清一覧にまとめています。
参考にした資料:新選組研究の諸資料。殺害の実行者には諸説があります。
募集をまとめた二人が、ひと月余りで消えた
殿内が斬られた文久三年三月二十五日は、西暦では1863年5月12日にあたります。浪士組が京都に着いてから、まだ二か月足らずの時期です。
注目したいのは、京都に残った浪士たちをまとめる側にいた人物が、このあと続けて消えていることです。殿内とともに残留組の中心にいた家里次郎も、翌四月に大坂で切腹させられています。募集と取りまとめの役にあった二人が、ひと月余りのうちにいなくなったわけです。あとに残ったのは芹沢鴨と近藤勇の一党でした。壬生浪士組が「近藤たちの隊」になっていく最初の段階が、この二人の死だったことになります。
新選組をもっと知る本
京都に残った浪士たちの主導権争いのなかで斬られた殿内の一件は、新選組の始まりの生々しさを伝えています。永倉新八『新撰組顛末記』と子母澤寛『新選組始末記』は、その始まりを追うための二冊です。
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新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:田村銀之助(両長召抱人)
次の隊士 ▶:富川十郎(平隊士)
新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)

