2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)は、幕末の幕臣・小栗忠順が主人公です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。
幕末・明治の暗殺事件 特集:桜田門外の変から伊藤博文暗殺まで、30の事件を年表とともにまとめています。▶ 暗殺事件の特集を見る
文久2年(1862)7月、京都の木屋町で、ひとりの男が斬られました。島田左近(しまだ さこん)。公家の九条家に仕える家臣で、数年のあいだ「京の陰の支配者」とまで呼ばれた人物です。
斬ったのは、薩摩藩の田中新兵衛ら。首は鴨川の河原にさらされ、そのそばには罪を書き連ねた斬奸状が掲げられました。京都の人々は、ここから始まる血なまぐさい日々を「天誅(てんちゅう)」と呼ぶことになります。
島田左近は、なぜ狙われたのか。安政の大獄の裏で何をしていたのか。京都の「天誅」第一号となった島田左近暗殺の真相を、誰が・いつ・どこで・なぜ・その後どうなったか、の順に見ていきます。
先に答え—島田左近暗殺とは
| いつ | 文久2年(1862)7月20日(21日と記す同時代の記録もあります) |
|---|---|
| どこで | 京都・木屋町二条下ル(いまの京都市中京区)。なじみの女性の家にいたところを襲われ、首はのちに鴨川の河原(四条の北、先斗町沿い)にさらされました |
| 誰が | 薩摩藩士の田中新兵衛・鵜木孫兵衛(うのき まごべえ)・志々目献吉(ししめ けんきち)らとされます。尊王攘夷の急進派です |
| 誰を | 九条家の家臣・島田左近(名は龍章=たつあきら)。関白・九条尚忠の側近として朝廷の中で大きな力を持っていました |
| なぜ | 大老・井伊直弼の腹心・長野主膳と組み、九条関白を幕府寄りに変えさせ、安政の大獄では志士の摘発に手を貸したと見なされたため。和宮降嫁の工作にも関わっていました |
| その後 | 京都では「天誅」と称する暗殺が次々に起こり、島田の仲間だった宇郷玄蕃や目明しの文吉も殺されました。島田の死は、京都の主導権が尊王攘夷の急進派へ移る合図になりました |
島田左近はどんな人だったのか
島田左近の生まれは、よくわかっていません。石見国(いまの島根県西部)の農民の出で、京都に出て商家に奉公したのち公家の侍になったという説や、美濃国の神主(あるいは山伏)の子で、九条家に代々仕えた島田家の婿養子に入ったという説などがあります。京都・西大谷にある墓碑には「歿年三十六」と刻まれていると伝えられますが、享年は35歳とも38歳ともいわれ、生まれた年ははっきりしません。
身分は、九条家の「青侍(あおざむらい)」。公家に仕える侍のことで、身分としては決して高くありません。ただ、主の九条尚忠は、朝廷の政治を取り仕切る関白でした。島田はその関白のそば近くに仕え、やがて朝廷の動きを左右するほどの力を持つようになります。「左近」は通称で、名は龍章といいました。亡くなる年の文久2年1月には、左兵衛権大尉(さひょうえごんのだいじょう)という官職も得ています。
なお、島田左近は「島田正辰」の名で紹介されることがありますが、国際日本文化研究センターの人物データベースは、九条家に仕えたのち西本願寺の家司となった嶋田正辰を、暗殺された左近(龍章)とは別人としています。この記事では「龍章」で統一します。
島田の名が歴史に大きく出てくるのは、安政5年(1858)、井伊直弼が大老になってからです。
時代背景—条約と将軍の跡継ぎをめぐる争い

安政5年の京都は、ふたつの大問題で揺れていました。
ひとつは、アメリカと結ぶ日米修好通商条約です。幕府は朝廷の許し(勅許)を得て調印しようとしましたが、孝明天皇は外国との条約に強く反対していました。もうひとつは、病弱な13代将軍・徳川家定の跡継ぎ問題です。一橋慶喜を推す一橋派と、紀州藩主・徳川慶福(のちの家茂)を推す南紀派が争っていました。
大老となった井伊直弼は南紀派の中心です。井伊の腹心・長野主膳は京都に入り、朝廷の工作にあたりました。そのとき、朝廷の内側で長野と手を組んだのが島田左近です。
島田は、はじめ条約に反対していた主君・九条尚忠を、幕府に協力する立場へと変えさせることに力を尽くしました。将軍の跡継ぎ問題でも、慶福を推す側に回ります。慶福は14代将軍・家茂となり、幕府は勅許のないまま条約に調印しました。
なぜ島田は恨まれたのか—安政の大獄と「今太閤」
条約の調印に反発した人々を、井伊直弼は厳しく取り締まります。これが安政の大獄です。京都では、尊王攘夷を唱える公家の家臣や志士たちが次々に捕らえられ、吉田松陰や橋本左内らが命を落としました。
この摘発で、島田は京都の側の手引き役を務めたとされます。手足となって動いたのが、町奉行所の目明しで「猿の文吉」と呼ばれた文吉でした。志士たちにとって、島田と文吉は仲間を売った仇そのものです。
万延元年(1860)に井伊が桜田門外の変で討たれたあとも、島田の力はむしろ強まりました。孝明天皇の妹・和宮を将軍・家茂に嫁がせる「和宮降嫁」でも、朝廷の内側で幕府のために動いています。
島田の羽振りのよさは、さまざまな話として伝わっています。幕府方から受け取った礼金は1万両を超えたとも、文吉に取り立てをさせて町人相手に高利の金貸しをしていたともいわれます。人々は島田を「今太閤」と呼び、戦国の斎藤道三や三好長慶にたとえる者もいました。こうした話の多くは後の読み物などで語られてきたもので、誇張もあるでしょうが、島田が尊王攘夷派から憎しみを一身に集めていたことはまちがいありません。
潮目が変わった文久2年
文久2年(1862)になると、京都の空気は一変します。
この年の4月、薩摩の島津久光が兵を率いて京都に入り、朝廷の意向を背に江戸の幕府に改革を迫りました。長州藩も尊王攘夷を掲げて朝廷に近づき、土佐からは武市半平太(瑞山)の率いる土佐勤王党の志士たちが上ってきます。幕府の力が弱まるのにあわせて、井伊の時代に幕府に協力した人々は、次々に立場を失っていきました。
島田の主君・九条尚忠も、この年の6月に関白を辞めさせられます。後ろ盾を失った島田は、身の危険を感じて京都を離れ、中国地方や彦根、丹波などを転々としたといわれます。
6月20日には、九条家の領地があった伏見で志士たちに見つかりましたが、このときはなんとか逃げのびました。しかし志士たちは、その後もあきらめずに島田の行方を追い続けます。
事件当日の模様—木屋町の夜

伏見で逃げてからおよそ一か月後の7月20日。島田は、京都・木屋町二条下ルにある、なじみの女性・山本屋ゆうの家にひそかに来ていました。
九条家から出された届書の写し(『文久記聞』所収)によると、島田が裏の縁側で涼んでいたところへ、刀を差した男たちが3人ほど踏み込んできたといいます。その後、首のない遺体が近くの高瀬川で見つかり、首は鴨川で見つかりました。
逃げようとした島田が、木屋町二条の突き当たりにあった善導寺の塀を乗り越えようとしたところで斬りつけられ、塀から落ちたところを討たれた—という話もよく知られています。ただ、これは後の読み物や史跡案内に見える話で、届書には逃げた道筋や斬られた場所までは書かれていません。島田がどこで息絶えたのかは、はっきりしないのです。
島田の首は、7月23日には四条の北、先斗町沿いの鴨川の河原にさらされていたと記録されています。そばには、島田が長野主膳と結託したことなどを責める斬奸状(ざんかんじょう)が掲げられました。斬奸状は、斬った側が自分たちの行いを正当化するために書いたものです。それでも、都の真ん中、人通りの多い河原に、かつて「今太閤」と呼ばれた男の首が置かれた衝撃は、たいへんなものだったでしょう。

犯人は誰か—薩摩の田中新兵衛
手を下したのは、薩摩藩士の田中新兵衛・鵜木孫兵衛・志々目献吉らとされます(襲った人数や、それぞれの役割には史料によって違いがあります)。中心となった田中新兵衛は、鹿児島の町人の生まれで、のちに武士の身分を得た人物でした。剣の腕が立ち、のちに「人斬り新兵衛」と恐れられ、幕末の四大人斬りのひとりに数えられます。
この暗殺に、土佐勤王党の武市半平太は直接は関わっていなかったとされます。ただ、武市は事件のあと、これを肯定する考えを示しており、田中新兵衛とは義兄弟の契りを結ぶほど親しくなっていきました。島田左近の暗殺をきっかけに、薩摩と土佐の急進派が手を組み、京都で「天誅」を重ねていく流れができていきます。
なお、島田の暗殺について、薩摩藩が藩として命じたという記録はありません。田中らは、藩の公式な方針ではなく、急進派の志士として動いたと考えられます。
事件のその後—「天誅」の嵐
島田左近の死をきっかけに、京都では「天誅」と称する暗殺が相次ぎました。狙われたのは、井伊の時代に幕府に協力した人々や、志士たちから「裏切り者」と見なされた人々です。
| 7月20日 | 島田左近(九条家家臣)—木屋町で斬られ、鴨川の河原にさらされる |
|---|---|
| 閏8月20日 | 本間精一郎(越後の浪士)—木屋町で斬られる。武市半平太がはじめて指揮した天誅とされる |
| 閏8月22日 | 宇郷玄蕃(重国。九条家諸大夫・島田の同僚)—九条家の屋敷内で殺され、首は松原の河原にさらされる |
| 閏8月29日 | 目明し文吉—島田の手足だった目明し。三条河原でさらしものにされて殺される |
島田とともに安政の大獄で動いた宇郷玄蕃、そして島田の手先だった文吉。島田の周りにいた人々は、わずか一か月あまりのうちに次々と命を落としました。彦根では、島田と組んでいた長野主膳も、この年の8月、藩によって斬罪に処されています。井伊直弼の時代に京都で幕府の工作を担った顔ぶれは、こうして姿を消しました。
島田左近の死は、ひとつの時代の終わりと、別の時代の始まりを告げるものでした。井伊と島田の「安政の京都」から、武市半平太ら尊王攘夷の急進派が力をふるう「文久の京都」へ。皮肉なことに、島田は自分の死によって、時代の転換点を演じることになったのです。
しかし、天誅を行った側もまた、長くは続きませんでした。田中新兵衛は翌年、公家の姉小路公知が暗殺された事件の疑いで捕らえられ、取り調べの最中に自ら命を絶ちます。武市半平太も土佐で投獄され、切腹を命じられました。
島田左近ゆかりの地
- 木屋町二条付近(京都市中京区):島田が襲われた場所。高瀬川沿いの木屋町には、本間精一郎、佐久間象山、大村益次郎の遭難の碑もあり、幕末の暗殺の現場が集まっています(【現地取材】佐久間象山・大村益次郎 遭難の地)。
- 鴨川の河原(四条の北、先斗町沿い):島田の首がさらされた場所。
- 高瀬川(木屋町通沿い):首のない遺体が見つかったと届書に記された川。
- 大谷本廟・西大谷墓地(京都市東山区):島田左近の墓。「嶋田龍章之墓」と刻まれた墓碑があります。
▶ この事件を起こした側の人物
幕末・明治の暗殺事件を読む
- 桜田門外の変(1860)—大老・井伊直弼
- ヒュースケン暗殺(1861)—アメリカ公使館の通訳、麻布・中ノ橋
- 坂下門外の変(1862)—老中・安藤信正
- 吉田東洋暗殺(1862)—土佐藩の参政
- 島田左近暗殺(1862)—木屋町、京都「天誅」の第一号(この記事)
- 本間精一郎暗殺(1862)—木屋町の天誅
- 宇郷玄蕃暗殺(1862)—九条家の諸大夫、松原河原の首
- 目明し文吉の殺害(1862)—三条河原
- 石部宿の与力殺害(1862)—東海道の宿場で4人、江州石部事件
- 塙忠宝暗殺(1862)—九段坂、伊藤博文が斬った国学者
- 池内大学暗殺(1863)—大坂、難波橋にさらされた首
- 賀川肇暗殺(1863)—首は慶喜の宿所へ、腕は岩倉邸へ
- 清河八郎暗殺(1863)—麻布一ノ橋
- 姉小路公知暗殺・朔平門外の変(1863)
- 芹沢鴨暗殺(1863)—壬生・八木邸
- 平岡円四郎暗殺(1864)—一橋慶喜の側近
- 佐久間象山暗殺(1864)—三条木屋町
- 袖解橋の変(1864)—井上聞多の暗殺未遂、山口
- 原市之進暗殺(1867)—将軍慶喜の側近
- 赤松小三郎暗殺(1867)—東洞院通
- 坂本龍馬暗殺・近江屋事件(1867)
- 油小路事件(1867)—伊東甲子太郎
- 世良修蔵暗殺(1868)—福島・金沢屋、奥羽越列藩同盟の引き金
- 横井小楠暗殺(1869)—寺町丸太町
- 大村益次郎暗殺(1869)—兵部大輔の死
- 広沢真臣暗殺(1871)—参議が自宅で殺された未解決事件
- 喰違の変(1874)—右大臣・岩倉具視の暗殺未遂
- 大久保利通暗殺・紀尾井坂の変(1878)
- 森有礼暗殺(1889)—憲法発布の朝
- 伊藤博文暗殺(1909)—ハルビン駅
✎ 筆者のひとこと
「今太閤」とまで呼ばれた男が、わずか数年で河原にさらされる。島田左近の一生は、幕末の京都で権力の風向きがどれほど急に変わったかを物語っています。
調べていて驚いたのは、名前さえ別人と取り違えられて伝わってきたことです。憎まれ役として語られてきた人物ほど、確かなことは案外少ないのかもしれません。


