2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)は、幕末の幕臣・小栗忠順が主人公です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。
幕末・明治の暗殺事件 特集:桜田門外の変から伊藤博文暗殺まで、19の事件を年表とともにまとめています。▶ 暗殺事件の特集を見る
文久3年(1863)4月13日、江戸・麻布の一ノ橋のたもとで、清河八郎が斬られました。清河は、のちの新選組のもとになった「浪士組」を発案した人物です。斬ったのは、幕府の命を受けた佐々木只三郎らでした。
幕府の金で浪士を集めておきながら、京都に着くとその浪士組を尊王攘夷の兵に変えようとした清河は、幕府にとって最も危険な男になっていました。新選組誕生の裏で起きたこの暗殺をたどります。
先に答え—清河八郎暗殺とは
| いつ | 文久3年(1863)4月13日 |
|---|---|
| どこで | 江戸・麻布の一ノ橋のたもと(いまの東京都港区) |
| 誰が | 幕臣の佐々木只三郎ら。幕府の意を受けた者たちでした |
| 誰を | 出羽庄内出身の浪士・清河八郎(数え34歳)。浪士組の発案者 |
| なぜ | 幕府がつくらせた浪士組を、京都で尊王攘夷の兵に変えようとし、横浜の外国人居留地の焼き討ちまで計画したため |
| その後 | 浪士組は新徴組として江戸の警備に回され、京都に残った近藤勇らが新選組になりました |
清河八郎とはどんな人だったのか
清河八郎は天保元年(1830)、出羽国庄内藩領の清川村(いまの山形県庄内町)の豪農・酒造家に生まれました。江戸で学問と剣術を修め、北辰一刀流の免許を得て、神田に文武両道の塾を開きます(【現地取材】清河神社(清川))。
やがて尊王攘夷の運動に身を投じ、「虎尾の会」を結んで志士たちと交わりました。文久元年(1861)には、つきまとってきた町人を斬った事件で幕府に追われる身にもなっています。
浪士組—幕府を利用した大胆な計画
文久2年(1862)、清河は幕府に一つの案を出します。江戸にあふれる浪士を集めて組織し、上洛する将軍・徳川家茂を京都で警護させる、というものでした。浪士の不満を外に向けたい幕府はこれを受け入れ、文久3年2月、230人あまりの「浪士組」が江戸を出発します。この中に、近藤勇、土方歳三、沖田総司、芹沢鴨らがいました。
ところが京都に着いた夜、清河は浪士たちを集め、「この組の本当の目的は、天皇のもとで攘夷を行うことだ」と宣言しました。そして朝廷に建白書を出し、浪士組を朝廷直属の兵にしようとします。幕府の金で集めた兵を、幕府の手から奪い取ろうとしたのです。
これに反発した近藤勇や芹沢鴨らは京都に残り、のちの新選組となります。一方、幕府は浪士組を江戸へ呼び戻しました(新選組の原点、伝通院)。
なぜ清河は斬られたのか
江戸に戻った清河は、なおも攘夷の実行をあきらめず、横浜の外国人居留地を焼き討ちにする計画を進めていたとされます。もし実行されれば、外国との戦争になりかねません。幕府にとって、清河は自分たちがつくらせた組織を使って国を危険にさらす、もっとも危険な人物になっていました。
幕府は表立って清河を捕らえるのではなく、ひそかに討つことを選びます。命を受けたのが、浪士組の取締役でもあった旗本の佐々木只三郎らでした。
麻布一ノ橋で何が起きたのか

4月13日、清河は知人の上山藩士・金子与三郎のもとを訪ね、酒を飲んだ帰り道でした。麻布の一ノ橋にさしかかったところで、佐々木只三郎らが近づき、挨拶をしてきたといいます。清河が礼を返そうと笠を取ったその瞬間、背後から斬りつけられ、ほとんど刀を抜く間もなく倒れたと伝えられます。
清河の首は、仲間の石坂周造が持ち帰ったとされ、のちに小石川の伝通院に葬られました。清河を斬った佐々木只三郎は、のちに京都見廻組を率い、坂本龍馬暗殺の指揮をとったとされる人物でもあります(坂本龍馬はなぜ暗殺されたのか)。
事件のあと—浪士組から新選組と新徴組へ
清河を失った浪士組は、名を「新徴組」と改め、庄内藩の預かりとなって江戸の市中警備にあたりました。皮肉にも、清河の故郷の藩が、清河の残した組を引き受けたことになります。一方、京都に残った近藤勇らは会津藩の預かりとなり、新選組として名を上げていきました。
浪士組をつくった清河が斬られたことで、その組からは「幕府を守る」二つの組織が生まれたのです。清河はのちに明治政府から位を贈られ、故郷の清川には清河神社がまつられています。
清河八郎ゆかりの地
- 清河八郎暗殺の地(東京都港区、麻布一ノ橋付近)
- 伝通院(東京都文京区小石川):清河の墓があります。浪士組が結成された場所でもあります(新選組の原点、伝通院)。
- 清河神社・清河八郎記念館(山形県庄内町清川):生まれた村にあります(【現地取材】清河神社(清川))。
▶ この事件を起こした側の人物
- 佐々木只三郎とは何をした人物か—見廻組の与頭。清河八郎暗殺を指揮した
幕末・明治の暗殺事件を読む
- 桜田門外の変(1860)—大老・井伊直弼
- 坂下門外の変(1862)—老中・安藤信正
- 吉田東洋暗殺(1862)—土佐藩の参政
- 本間精一郎暗殺(1862)—木屋町の天誅
- 目明し文吉の殺害(1862)—三条河原
- 清河八郎暗殺(1863)—麻布一ノ橋(この記事)
- 姉小路公知暗殺・朔平門外の変(1863)
- 芹沢鴨暗殺(1863)—壬生・八木邸
- 平岡円四郎暗殺(1864)—一橋慶喜の側近
- 佐久間象山暗殺(1864)—三条木屋町
- 原市之進暗殺(1867)—将軍慶喜の側近
- 赤松小三郎暗殺(1867)—東洞院通
- 坂本龍馬暗殺・近江屋事件(1867)
- 油小路事件(1867)—伊東甲子太郎
- 横井小楠暗殺(1869)—寺町丸太町
- 大村益次郎暗殺(1869)—兵部大輔の死
- 大久保利通暗殺・紀尾井坂の変(1878)
- 森有礼暗殺(1889)—憲法発布の朝
- 伊藤博文暗殺(1909)—ハルビン駅
✎ 筆者のひとこと
浪士組をつくっておきながら、それを尊王攘夷の兵に変えようとした清河は、まさに策士でした。その清河に幕府が刺客を放ったことは、幕府もまた暗殺を使っていたことを示しています。
ただ、清河には少し自分の策に溺れるところがあったのかもしれません。文武両道の人ですが、賢すぎると自分の評価を高く見すぎてしまい、こういう結末を招くこともあるのだと思います。


