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文久3年(1863)1月22日の夜、大坂でひとりの儒学者が斬られました。池内大学(いけうち だいがく)。京都で公家の子どもたちに学問を教え、尊王攘夷の志士たちとも交わった学者です。
翌朝、その首は大川にかかる難波橋にさらされ、切り取られた両耳は、京都の公家の屋敷に送りつけられました。手を下したのは、土佐勤王党に関わる岡田以蔵らとされます。理由は「安政の大獄で軽い処分ですんだのは、幕府に仲間を売ったからだ」という疑いでした。
尊王攘夷の側にいた学者が、なぜ同じ尊王攘夷派に殺されたのか。池内大学暗殺の真相を、誰が・いつ・どこで・なぜ・その後どうなったか、の順に見ていきます。
先に答え—池内大学暗殺とは
| いつ | 文久3年(1863)1月22日の夜(西暦では1863年3月11日)。首がさらされたのは翌23日の朝で、23日を事件の日とする辞典もあります |
|---|---|
| どこで | 大坂。前土佐藩主・山内容堂のもとから帰ったところを、北浜の南(いまの大阪市中央区今橋あたり)にあった住まいの前で襲われたとする記録があります。首は難波橋にさらされました |
| 誰が | 土佐勤王党に関わる岡田以蔵らとされます。襲った人数や、それぞれの役割にははっきりしない点が残ります |
| 誰を | 京都の儒学者・池内大学(名は奉時、号は陶所。数え50歳) |
| なぜ | 安政の大獄で自首し、軽い処分ですんだことから、幕府に通じた「裏切り者」と疑われたため |
| その後 | 両耳が議奏の中山忠能と正親町三条実愛の屋敷に送りつけられ、ふたりは辞職を願い出て、1月27日に認められました。暗殺は朝廷の人事を動かす「脅し」としても使われたのです |
池内大学はどんな人だったのか
池内大学は文化11年(1814)10月22日、京都に生まれました。「大学」は本名ではなく通称で、名は奉時(ともとき)、号を陶所(とうしょ)といいます。家は京都で医業を営んでいたとされますが、大学は医者ではなく儒学の道に進み、若いころから秀才として知られました。
やがて大学の学識は、皇族の耳にも届きます。知恩院門跡の尊超入道親王に仕えて公家の子弟の教育にあたり、のちには青蓮院宮(のちの中川宮・久邇宮朝彦親王)にも学問を講じたとされます。漢詩や書にもすぐれ、京都の文人たちとも広く交わりました。
親王に従って江戸へ下ったとき、大学は水戸藩主・徳川斉昭に会い、海防の大切さを説いて気に入られたといわれます。京都の学者でありながら、皇族や水戸藩とつながる人脈を持っていたのです。
時代背景—「悪謀方四天王」と安政の大獄
嘉永6年(1853)にペリーが来航すると、大学は外国から都を守る必要を説き、尊王攘夷の論を広めました。京都では、水戸藩の京都留守居役・鵜飼吉左衛門と息子の幸吉らが、朝廷と水戸藩をつなぐ役を担っており、大学もこうした人々と行き来しています。
大学は、梁川星巌(やながわ せいがん)・梅田雲浜(うめだ うんぴん)・頼三樹三郎(らい みきさぶろう)ら、京都の尊王攘夷の志士たちと交わりました。将軍の跡継ぎ問題では一橋慶喜を推す側に立ち、安政5年(1858)に朝廷から水戸藩へひそかに勅書が下された「戊午の密勅」にも関わったとされます。ただし、機密の中心にどこまで加わっていたかは、関係者の記録でも見方が分かれます。
大老・井伊直弼の側から見れば、大学は京都で朝廷を動かす危険人物でした。井伊の腹心・長野主膳は、梁川星巌・梅田雲浜・頼三樹三郎と大学の4人を「悪謀方四天王」と呼んで警戒しています。幕府の側から、真っ先に狙うべき相手と見なされていたのです。
なぜ大学は疑われたのか—自首と「中追放」
安政の大獄が始まると、梅田雲浜は捕らえられて獄中で亡くなり、頼三樹三郎は江戸で斬首されました。梁川星巌は捕らえられる直前にコレラで亡くなっています。「四天王」のうち3人は、命を落としたのです。
ところが大学だけは違いました。いったん身を隠したのち、みずから名乗り出て自首します。下された処分は「中追放」。京都などに住むことを禁じられはしたものの、命は助かりました。大学は大坂に移り、書店の河内屋(松田正助)のもとに身を寄せて暮らしたといわれます。
仲間が次々に命を落とすなかで、ひとりだけ軽い罰ですんだ—。尊王攘夷派の志士たちは、そこに疑いの目を向けました。自首したときに仲間のことを幕府に話したのではないか、というのです。同じ時代の記録には、大獄より前から大学を信用しない志士がいたことも書き残されています。
ただし、大学がほんとうに仲間を売ったという確かな証拠は見つかっていません。大学はもともと幕府の密偵ではなく、尊王攘夷や一橋派の運動に身を置いていた人です。それでも「裏切り者」という噂は消えず、大学の名は志士たちの「斬るべき相手」に入っていきました。
事件当日の模様—今橋の夜、難波橋の首
文久2年(1862)の暮れ、大学は罪を許されたといわれます。そのわずかあと、文久3年1月のことでした。

前土佐藩主の山内容堂が、京都へ上る途中で大坂に立ち寄りました。容堂は大学を招き、いまの世の中のことを語り合ったと伝えられます。学者として名の知られた大学の話を、容堂は聞きたかったのでしょう。
1月22日の夜、容堂のもとを辞した大学は、住まいへ帰ります。大坂の町の記録『諸事控』(大阪市史編纂所が紹介)によれば、大学は北浜の南、いまの今橋あたりにあった住まいの前で襲われ、殺されました。古くからの読み物では「帰り道、難波橋の上で駕籠を襲われた」と語られることが多いのですが、同じ時代の記録はそうなっていません。

翌23日の朝、大学の首は難波橋にさらされました。首には、大学が幕府に通じて多くの志士を失脚させ、自分だけ罪を逃れた、と責める斬奸状(罪を書き連ねた文書)が添えられていたといいます。ただし、これは殺した側の言い分であって、密告の事実を示すものではありません。

事件はそれで終わりませんでした。犯人たちは大学の両耳を切り取り、京都へ持ち込みます。1月24日、その耳は脅しの文書とともに、議奏(天皇のそばに仕える役)の中山忠能(なかやま ただやす)と正親町三条実愛(おおぎまちさんじょう さねなる)の屋敷に送りつけられました。
犯人は誰か—岡田以蔵らとされる
手を下したのは、岡田以蔵ら土佐勤王党に関わる者たちだとされます。岡田は「人斬り以蔵」と恐れられた土佐の郷士で、前の年には京都で本間精一郎や目明し文吉の殺害にも関わっていました。高知県立坂本龍馬記念館も、以蔵が関わった暗殺のひとつに池内大学を挙げています。
ただし、以蔵自身が加わったかどうかには異説もあり、襲ったのが何人で、誰が斬ったのかといった細かい点もはっきりしません。「4人」とする本もありますが、全員の名前を確かな史料で示すことはできていません。また、土佐勤王党を率いた武市半平太が、この暗殺にどこまで前もって関わっていたのかも、確かなことはわかっていません。
皮肉なことに、大学を招いた山内容堂は土佐藩の前藩主です。自分が話を聞いた学者が、その夜のうちに自分の藩に関わる者たちに殺されたことになります。容堂と土佐勤王党のあいだの溝を考えるうえでも、見のがせない事件です。
事件のその後—脅された朝廷と、土佐の亀裂
脅しの文書が届いたのは、耳を送りつけられたふたりだけではありませんでした。関白の鷹司輔熙、前関白の近衛忠熙、青蓮院宮のもとにも、脅しの文書が届けられたといいます。中山忠能と正親町三条実愛は議奏の辞職を願い出て、1月27日に認められました。
ひとりの学者を殺し、首をさらし、耳を公家に送りつける—。これは個人的な恨みを晴らすだけのものではなく、暴力で朝廷の人事を動かそうとする政治的な脅しでもありました。この年の京都は、こうした「天誅」が次々に起こる、張りつめた空気の中にありました。
土佐藩の中では、容堂と土佐勤王党の対立が深まっていきます。乾退助(のちの板垣退助)ら上士は、容堂の意向を受けて、土佐勤王党に対抗する動きを進めました。文久3年の春、土佐に帰った容堂は急進派に近い藩の重役を退けるなど、勤王党への締めつけを強めます。
そしてこの年の8月、京都で尊王攘夷の急進派が追い出される八月十八日の政変が起こると、土佐でも勤王党への弾圧が本格化しました。武市半平太は文久3年9月21日に投獄され、慶応元年(1865)閏5月11日に切腹。岡田以蔵も同じ日に斬首されています。
大学の墓は、大阪の大福寺(大阪市天王寺区上本町)にあり、「池内陶所先生之墓」と刻まれた墓碑が残ります。のちに東洋史学者として知られる池内宏は、大学の孫にあたります。
池内大学ゆかりの地
- 今橋あたり(大阪市中央区):同じ時代の記録で、大学が襲われたとされる住まいのあった場所。北浜の南側です。
- 難波橋(大阪市北区・中央区):大学の首がさらされた橋。江戸時代の難波橋は、いまの橋より一筋西にかかっていました。いまの橋はライオン像のある橋として知られています。
- 大福寺(大阪市天王寺区上本町):池内大学の墓所。
- 青蓮院(京都市東山区):大学が学問を講じた青蓮院宮ゆかりの門跡寺院。
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幕末・明治の暗殺事件を読む
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- 池内大学暗殺(1863)—大坂、難波橋にさらされた首(この記事)
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✎ 筆者のひとこと
池内大学は、殺した側からは「裏切り者」、幕府の側からは「悪謀方四天王」と呼ばれました。どちらの陣営からも敵と見なされた学者だったわけで、調べていて何ともやりきれない気持ちになります。
「難波橋の上で斬られた」という有名な話も、同じ時代の記録をたどると少し違って見えてきます。よく知られた話ほど、一度立ち止まって確かめてみたいと思います。


