| 御倉伊勢武 | |||
| 職名 | 国事探索方 | ||
| 出身 | 不明(京都在住の浪士) | ||
| 終焉場所 | 京都 壬生 | ||
| 終焉方法 | 暗殺 | ||
御倉伊勢武をもっと深く—長州の間者とされ、斬られた探索方
新選組の初めのころ、長州の間者(スパイ)だとして斬られた隊士が何人かいます。御倉伊勢武はその中心にいたとされる人物です。
四人そろっての入隊
京都に住む浪士で、文久三年(1863)、荒木田左馬之助・越後三郎・松井竜三郎とともに入隊しました。長州藩の桂小五郎の指示を受けた間者だったとされ、隊では国事探索方をつとめたといわれます。
芹沢暗殺との関わり
永倉新八は、御倉を芹沢鴨暗殺の実行犯の一人と書き残しています。一方で、芹沢は長州の者に殺されたという嫌疑をかけるため、御倉たちに罪を負わせたのではないかという見方もあります。
九月二十六日
文久三年九月二十六日、御倉は荒木田左馬之助とともに屯所で斬られたと伝わります。同じ朝、同じく間者とされた楠小十郎も前川邸の門前で斬られました。越後三郎と松井竜三郎は逃げ延びたといいます。享年は二十七、八とされ、生まれた年は分かっていません。
御倉伊勢武の歩みを年表で
| 年 | できごと |
|---|---|
| 生年不詳 | 京都に住む浪士 |
| 文久三年(1863) | 荒木田左馬之助・越後三郎・松井竜三郎とともに壬生浪士組に入る。国事探索方を務める |
| 文久三年八月十八日 | 八月十八日の政変で、長州藩が京都から追われる |
| 文久三年九月十六日 | 芹沢鴨が八木邸で暗殺される(十八日説もある) |
| 文久三年九月二十六日 | 荒木田左馬之助とともに屯所で斬られる。二十七、八歳。同じ朝、楠小十郎も斬られる。越後三郎と松井竜三郎は逃げ延びる |
御倉伊勢武を読み解く
四人一組の潜入
御倉は、荒木田・越後・松井とあわせて四人でそろって入隊しました。長州藩の桂小五郎の意を受けていたとされます。一人ではなく何人かで入り込めば、たがいに連絡を取り合い、一人が疑われても残りが探りを続けられます。四人のうち二人が斬られ、二人が逃げたという結末は、潜入が見破られたあとの新選組の動きの速さを物語っています。
探索方という持ち場
御倉が務めた国事探索方は、京都の町で尊王攘夷派の動きを探る役です。間者だったとすれば、探る側の役目を利用して、逆に新選組の動きを長州に流していたことになります。政変で京都を追われた長州にとって、これほど都合のよい持ち場はありませんでした。ただし、御倉が実際にどんな知らせを送っていたのかを示す記録は残っていません。
芹沢暗殺の「犯人」にされた?
永倉新八は、御倉を芹沢鴨暗殺の実行犯の一人と書き残しています。一方で、芹沢を殺したのは近藤勇・土方歳三ら試衛館の一派だったというのが、今では広く受け入れられている見方です。芹沢が長州の者に殺されたと見せかけるため、間者とされた御倉たちに罪を負わせたのではないか、という説はここから出てきます。芹沢の死から十日で御倉たちが斬られた早さも、この説を考える手がかりになります。芹沢派の最期については芹沢鴨と水戸派の最期にまとめています。
はっきりしないこと
御倉と荒木田は、屯所で髪を結わせているところを不意に斬られたという話が伝わりますが、細かな場面は伝え方によって違います。本当に長州の間者だったのかも、斬った側の言い分として残っているだけです。荒木田左馬之助のページもあわせてご覧ください。
御倉伊勢武をさらに掘り下げる
文久三年九月、壬生で消えた人々
御倉が斬られた文久三年九月は、壬生浪士組にとって最も血なまぐさいひと月でした。
| 日付 | できごと |
|---|---|
| 九月十三日ごろ | 芹沢派の幹部・新見錦が祇園で切腹させられる |
| 九月十六日(十八日説も) | 芹沢鴨と平山五郎が八木邸で斬られる。平間重助は逃げる |
| 九月二十六日 | 御倉伊勢武・荒木田左馬之助が斬られる。楠小十郎も斬られる |
わずか二週間ほどのあいだに、芹沢鴨の一派と、長州の間者とされた者たちが、ともに隊から消えています。八月十八日の政変のあと、壬生浪士組は「新選組」の名を与えられ、会津藩のもとで京都の治安を担う集団として形を整えつつありました。その過程で、近藤勇らは隊の内側にいる「不安な要素」を一気に取り除いたことになります。水戸派の側の流れは芹沢鴨と水戸派の最期にまとめています。
永倉新八の二つの記録
永倉新八は、新選組について二つの記録を残しています。一つは明治のはじめに自ら書いた手記『浪士文久報国記事』、もう一つは大正のはじめに新聞に語った回顧談をまとめた『新撰組顛末記』です。芹沢暗殺の実行者として御倉の名を挙げているのは、前者の手記とされます。そこには土方歳三・沖田総司・藤堂平助と並んで御倉の名があるのです。
近藤派の中心人物に混じって、長州の間者とされた御倉の名がある。この組み合わせは、研究者のあいだでも首をかしげられてきました。永倉の書き誤りや記憶違いとする見方もあれば、御倉が近藤派に協力するふりをして暗殺に加わったのではないかとする見方もあります。いずれにしても、暗殺からわずか十日後に御倉が斬られていることは、偶然とは思えない重なりです。
京都に潜んでいた桂小五郎
御倉らを送りこんだとされる桂小五郎は、八月十八日の政変で長州藩が京都を追われたあとも、ひそかに京都にとどまって情報を集めていました。表立って動けなくなった長州にとって、京都の治安を預かる側の内情を知ることは、何より大事なことだったはずです。
桂はその後も京都に潜み、翌元治元年六月の池田屋事件では、会合の場に早く着きすぎていったん外に出ていたために難を逃れたと伝えられます。さらに七月の禁門の変のあとは但馬の出石に身を隠しました。御倉らの潜入が本当に桂の指図だったとすれば、桂と新選組の探り合いは、壬生浪士組のはじめのころから始まっていたことになります。
御倉伊勢武と関わりの深い人たち
ゆかりの地
- 壬生・八木邸・前川邸(京都市中京区壬生)—壬生浪士組の屯所。
隊内の切腹・粛清の一覧は新選組の切腹・粛清一覧にまとめています。
参考にした資料:永倉新八『浪士文久報国記事』『新撰組顛末記』、新選組研究の諸資料。間者だったかどうか、芹沢暗殺との関わりには諸説があります。
文久三年に芹沢鴨の一派と、長州の間者とされた隊士たちがどう消えていったかは、芹沢鴨と水戸派の最期—文久三年、壬生浪士組から消えた人々に年表でまとめています。
文久三年九月二十六日という一日
御倉が処断されたとされる日は、隊の記録のなかでもとくに血の濃い一日です。前日の九月二十五日、荒木田左馬之助が永倉新八らを襲ったと伝わります。その翌朝、荒木田は屯所で髪を結っているところを斬られました。同じ二十六日の朝には、霧の深いなかで楠小十郎が前川邸の門前で原田左之助に背後から斬られ、近くの水菜畑まで逃れて絶命したと伝わります。
御倉の処断も、この同じ日のこととして記録されています。つまり一日のうちに、隊の内側で三人が命を落としたことになります。壬生の屯所の周りで何が起きていたのかを考えると、隊士たちが互いをどれほど疑っていたかが見えてきます。なお御倉については生まれた年が分かっていないため、享年についても確かなことは言えません。
新選組をもっと知る本
御倉伊勢武の処断は、楠小十郎と同じ日のこととして伝わります。日付ひとつでも資料によって揺れる世界で、永倉新八『新撰組顛末記』と子母澤寛『新選組始末記』は基準になる二冊です。
※この欄の商品リンクはアフィリエイトリンク(PR)です。価格は掲載時点のものです。
新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:三浦啓之助(客員)
次の隊士 ▶:毛内有之助(諸士取調役兼監察)
新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)

