山南敬助【新選組隊士 副長 幕末】

山南 敬助
職名 副長
出身 奥州仙台
終焉場所 京都
終焉方法 切腹

江戸で近藤と立会い敗れ弟子になります。その後、新選組結成に参加し土方と同等の副長となります。元治元年頃より体調を崩し池田屋事件には参加していません。いつしか隊の意義に不審を抱き、突如脱退し、追ってきた沖田に捕縛され屯所にて切腹します。

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文武両道の総長

山南敬助は、北辰一刀流や小野派一刀流を学んだ剣客でありながら学識にも富み、温厚で人望の厚い人物だったと伝えられます。新選組では総長という要職に就き、近藤・土方に次ぐ立場で隊をまとめました。その穏やかな人柄は、荒くれ者の多い隊内で調整役を果たしたともいわれます。

脱走と切腹

しかし、局の方針や近藤・土方との考えの違いから、山南はしだいに隊内で孤立していきます。やがて隊を脱走しますが連れ戻され、隊規に従って切腹しました。介錯を務めたのは、親しかった沖田総司であったと伝えられます。愛人・明里との別れの逸話とともに、新選組のなかでもとりわけ哀切な物語として語り継がれています。

山南敬助をもっと深く——本人の署名が残っている、たった一枚

この人の剣術の流派は、北辰一刀流とされてきました。ですが本人の筆跡が残る唯一の史料は、別のことを書いています。

「大久保九郎兵衛門人 一刀流 山南敬輔」

柳剛流の剣客・中山幾之進の『攪撃修行録』に、山南敬助の真筆が残っています。嘉永六年、二十一歳のときのものです。

飯田町堀留大久保九郎兵衛門人 一刀流 山南敬輔

大久保九郎兵衛が教えていたのは、小野派一刀流です。

では北辰一刀流説はどこから来たのか。永倉新八が明治三十七年——山南の死からおよそ四十年後に、「殉節両雄之碑」の拓本の余白に書きつけたものです。「陸奥国仙台脱藩文武研究剣術北辰一刀流千葉周作門人免許」とあります。

ややこしいのは、大久保九郎兵衛が安政三年に、千葉周作がその前年に亡くなっていることです。山南が両方の門下に在籍できた期間は、二年ほどしかありません。

本人の署名が残るのは「大久保九郎兵衛門人・一刀流」のほうです。ここは押さえておきたいところです。

近藤勇に負けて、門人になりました

陸奥仙台の出身とされます(諸説あります)。生年は文久三年の『浪士姓名簿』にある「二十八」から逆算して、天保七年が有力です。

試衛館へは他流試合を挑んで近藤勇に敗れ、その人柄に感服して門人になったと伝わります。

壬生浪士組の成立時、土方歳三とともに副長芹沢鴨と新見錦の粛清後の再編では、新設された総長に就きました。局長・副長に次ぐ地位です。

居場所が消えていきます

元治元年十一月、伊東甲子太郎参謀という新設ポストで破格の待遇で入隊します。ここから山南は幹部としての立場を失っていきました。

もうひとつ、体のこともあります。文久三年十月の大坂・岩城升屋事件で土方とともに浪士を撃退し、松平容保から金八両を賜っていますが、このとき左腕を負傷しています。のちの不調の一因とされます。

元治二年二月二十三日、前川邸

「江戸へ行く」と置き手紙を残して姿を消しました。追手に選ばれたのは沖田総司です。東海道の大津で発見され、連れ戻されます。

そして元治二年二月二十三日の夕刻、壬生の前川邸で切腹しました。享年三十。その部屋は「山南敬助切腹の間」として、いまも保存されています。

なぜ死ななければならなかったのか

理由は三つの説があります。

  • 屯所移転反対説——西本願寺の侍臣・西村兼文の記録。勤王志向の山南が移転に反対したが、近藤・土方が取り合わなかった
  • 伊東甲子太郎入隊説——永倉新八の証言。「伊東はしなくも山南の理想にかない」思想が相投合し、近藤ににらまれた
  • 剣をとれない体になっていた説——脱走に名を借りた、隊士への戒めのための切腹だったという見方

確たる文献がなく、真相は分かっていません。

介錯が沖田だったという話、明里の話

「介錯は山南の希望により沖田が務めた」と伝わります。弟のようにかわいがっていた沖田なら山南も抵抗しないだろう、という土方の思惑だったとも。ですが、これを裏づける一次史料の名は示されていません。

そしてもうひとつ有名な場面——島原の天神・明里が格子窓越しに今生の別れを告げに来た、という話です。

永倉本人の手記には、明里についての記述が一切ありません。いまは子母澤寛の創作である可能性が高いとされています。別れの舞台とされる前川邸の出窓も、現存しません。

墓は壬生の近く、光縁寺にあります。石川三郎ら、隊規で死んだ隊士たちと同じ寺です。

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