2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)は、幕末の幕臣・小栗忠順が主人公です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。
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文久2年(1862)閏8月22日の夜、京都の鴨川のほとりにある九条家の屋敷に、5人ほどの男たちが押し入りました。狙われたのは、関白・九条家に仕える宇郷玄蕃頭重国(うごう げんばのかみ しげくに)。男たちは病気で寝ていた妻に布団をかぶせて押さえつけ、そのすぐそばで玄蕃を斬り、首を持ち去りました。
翌朝、その首は鴨川の松原河原で槍の先に突き刺してさらされ、「島田と同腹」と書かれた札が添えられていました。ひと月ほど前に殺された島田左近の仲間だ、というのです。
なぜ公家の家来が狙われたのか。手を下したのは誰だったのか。宇郷玄蕃暗殺の真相を、誰が・いつ・どこで・なぜ・その後どうなったか、の順に見ていきます。
先に答え—宇郷玄蕃暗殺とは
| いつ | 文久2年(1862)閏8月22日の夜五つ(午後8時ごろ)。西暦では1862年10月15日 |
|---|---|
| どこで | 京都・九条家の下屋敷(通称「砂川屋敷」、鴨川の東、いまの出町柳駅の近く)にあった宇郷の住まい。首は翌朝、鴨川の松原河原にさらされました |
| 誰が | 実行犯の全容は不明です。肥後(熊本)を脱藩した堤松左衛門(つつみ まつざえもん)の名を記した記録があり、肥後の志士ら5〜6人の犯行とする説が有力です。薩摩の田中新兵衛の関与を指摘する説もあります |
| 誰を | 関白・九条尚忠の家来(諸大夫)、宇郷玄蕃頭重国(数え40歳) |
| なぜ | 島田左近とともに安政の大獄の志士探索や、和宮降嫁の工作に関わったと見られたため |
| その後 | 官位を持つ者を都の近くでさらしたことに、尊王攘夷派の公家からも批判が出ました。堤松左衛門はこの年の暮れに横井小楠を襲い、翌年に自刃しています |
宇郷玄蕃はどんな人だったのか
宇郷重国は文政6年(1823)12月16日、京都に生まれました。西暦にすると1824年1月16日になります。父の宇郷重幸も九条家に仕える家来で、重国は天保2年(1831)に「諸大夫(しょだいぶ)」に取り立てられました。
諸大夫とは、摂関家のような上級の公家に仕え、家の事務や対外的な役目を受けもつ家来のことです。重国は石見守・大舎人頭・伊豆守などを経て玄蕃頭となり、ふだんは「宇郷玄蕃」と呼ばれていました。九条家の諸大夫の中でも、筆頭格だったといいます。
人名事典には、玄蕃が尊王の公家・三条実万(さんじょう さねつむ)に目をかけられ、もとは「有志」の人として知られていたとも書かれています。同じ時代の記録には「平生至極おだやかなる人柄」とあり、和歌にも親しんだ人物でした。成り上がり者と見られて評判の悪かった島田左近とは、だいぶ印象の違う人物です。
ただし、おだやかな人柄だったことと、九条尚忠のもとで幕府と手を組む路線を支えたことは、両立します。玄蕃は、尊王攘夷派から見れば「敵の側の中心にいる人」でもあったのです。
時代背景—九条関白と「天誅」のはじまり
宇郷玄蕃の主人・九条尚忠(くじょう ひさただ)は、安政年間に関白をつとめた人物です。大老・井伊直弼の腹心・長野主膳は、九条家の家来の島田左近を通じて尚忠に働きかけ、九条家を幕府寄りに引き寄せました。

こうして九条家は、安政5年(1858)からの安政の大獄で、京都の尊王攘夷の志士たちを探る側にまわります。さらに、孝明天皇の妹・和宮を将軍・徳川家茂に嫁がせる「和宮降嫁」も、九条家が朝廷の中で後押ししました。宇郷玄蕃も、主人の意向を受けて島田左近らとともにこうした動きに関わったとされます。
ところが、文久2年(1862)になると風向きが変わります。薩摩の島津久光が兵を率いて上京し、尊王攘夷派が京都で勢いを取り戻すと、九条尚忠はこの年の6月23日に関白を辞めました(閏8月の下旬には、落飾(出家)と謹慎も命じられます)。そして7月20日、島田左近が木屋町で斬られ、首は鴨川の河原にさらされます。京都で続く「天誅」のはじまりでした。
閏8月20日には、越後の志士・本間精一郎が斬られ、翌21日にその首が四条河原にさらされました。本間は尊王攘夷派の内部の対立から殺されたとされ、幕府寄りと見られて狙われた島田とは事情が違います。宇郷玄蕃が襲われたのは、そのわずか2日後のことでした。
なぜ宇郷玄蕃は狙われたのか
尊王攘夷派の志士たちから見れば、宇郷玄蕃は「島田左近の仲間」でした。安政の大獄で志士の動きを探って幕府に知らせ、和宮降嫁を進めて朝廷を幕府に従わせた—。島田が斬られたあと、その矛先は九条家の筆頭家来だった宇郷にも向けられたのです。
首に添えられた斬奸状(罪を書き連ねた文書)には、おおよそ次のような趣旨が書かれていたと伝えられます(現代語の要旨)。
この者は島田と同腹(同じ考えの仲間)で、主家を不義に陥らせた。その罪は島田よりも重い。よって天誅を加える。
「島田よりも罪が重い」というのは、宇郷が九条家の正式な諸大夫として、主人を動かせる立場にあったからでしょう。ただし、これは殺した側の言い分で、「天誅」という言葉も、殺害を正当化するために殺した側が使った言葉です。宇郷が大獄でどこまで具体的に密告に関わったのかを、はっきり示す史料は多くありません。
事件当日の模様—砂川屋敷の夜
宇郷玄蕃が住んでいたのは、九条家の下屋敷でした。鴨川の東側、鴨川に流れこむ小さな砂川のそばにあったことから「砂川屋敷」と呼ばれ、いまの京阪・出町柳駅のあたり(京都市左京区)にあたります。宇郷は嘉永5年(1852)にはすでにここに住んでおり、屋敷の留守居のような役目も兼ねていたようです。
その夜、屋敷にいたのは、玄蕃と妻の加寿(かず)、12歳から2歳までの4人の子ども、それに下男・下女・門番・家来の、あわせて11人ほどだったと記録されています。妻の加寿は持病で床についており、玄蕃は幼い娘をあやしていました。
京都所司代の与力・佐野正敬の手記などによれば、夜五つ(午後8時ごろ)、5〜6人の男たちが門の前に現れ、「御本殿(九条家の本邸)からの御用だ」と告げました。門番が潜り戸を開けると、男たちはそのあとについて屋敷の中に入りこんだといいます。
事件の翌日、妻の加寿が役所に出した届け書が残っています。それによると、男たちはみな手ぬぐいで鉢巻をし、伊賀袴をはいて刀を差し、勝手口から土足のまま上がってきました。玄蕃が「何事か」と声をかけると、ふたりがいきなり斬りかかり、別のふたりは寝ていた加寿の頭から布団をかぶせて「声を立てるな」と押さえつけたといいます。
布団をかぶせられていた加寿は、夫が斬られるところを見てはいません。しばらくして押さえていた手が離れ、加寿が飛び起きたときには、玄蕃の首はすでに持ち去られ、寝所には体だけが残されていました。体には数か所の傷があり、壁に掛けてあった槍が1本なくなっていたといいます。

翌23日の朝6時ごろ、鴨川の松原橋の十間(約18メートル)ほど北、東側の河原で、通りがかった人が首を見つけました。首は屋敷から持ち去られた槍の先に突き刺され、槍には斬奸状を書いた板札がくくりつけられていました。屋敷から鴨川沿いに3キロほど南へ下った場所です。
犯人は誰か—肥後の堤松左衛門と、田中新兵衛
犯人として名前が残っているのが、肥後(熊本)藩を脱藩した堤松左衛門です。土佐勤王党の五十嵐幾之助の手記に「宇郷玄蕃、京都松原に槍に貫き梟首。殺害下手人堤松右衛門」と書かれており、「松右衛門」は松左衛門の書き誤りと考えられています。
堤は肥後の宮部鼎蔵に学び、河上彦斎とも親しかった若者で、当時は数え24歳ほど。長州や土佐の志士たちと行動をともにしていました。土佐勤王党を率いた武市半平太の京都での日記には、この月、堤がたびたび武市のもとを訪れていたことが書かれています。
もうひとり、関わりを指摘されるのが、島田左近を斬った薩摩の田中新兵衛です。武市の日記によれば、田中は事件の当日に武市と長く「機密」の話をしており、翌朝には「松原通に宇郷玄蕃の梟首がある」という知らせとともに、ふたたび武市を訪れています。人名事典の中には、堤松左衛門と田中新兵衛を実行犯とするものもあります。
歴史学者の町田明広氏は、肥後の志士ら5〜6人の犯行とみるのが有力だとしたうえで、武市は何日も前から相談を受け、指揮はとらないものの「相談役」の立場にあったと説明しています。また、このころの斬奸状の多くは久留米の志士・松浦八郎が書いたという証言もありますが、宇郷の斬奸状を松浦が書いたとまでは確かめられていません。
なお、「人斬り以蔵」と呼ばれた岡田以蔵が加わったとする本もありますが、確かな根拠は見あたらず、関与を疑う見方が強いようです。ほかの共犯者の名前は、はっきりしていません。
事件のその後—裏目に出た「天誅」
島田左近が殺されたとき、京都の町はむしろ喜んだという話も伝わっています。ところが宇郷玄蕃の場合は、受けとめ方が違いました。玄蕃は朝廷から正式な官位を受けた人物で、人柄もおだやかだと知られていたからです。
尊王攘夷派の公家のひとりで、かつて日米修好通商条約に反対した庭田重胤(にわた しげたね)でさえ、願書の中で「官位を持つ者をみだりに殺し、都のすぐ近くで首をさらすのは、朝廷に対してはなはだ恐れ多い」として、京都所司代や薩摩・長州・土佐の諸藩に、天誅騒ぎを早くしずめるよう求めたと伝えられます。
それでも「天誅」は止まりませんでした。7日後の閏8月29日には目明しの文吉が三条河原でさらされ、9月23日には近江の石部宿で京都町奉行所の与力たちが襲われます。年が明けると、大坂で儒学者の池内大学が殺されました。
手を下した者たちの運命も、長くは続きません。堤松左衛門はこの年の12月19日、江戸で熊本藩の思想家・横井小楠を襲いました。小楠は無事でしたが、同席していた熊本藩士の吉田平之助がのちに亡くなり、都築四郎も傷を負っています。堤は翌文久3年(1863)3月22日、京都・南禅寺の裏山で自刃しました。残された血書には、小楠を討ちもらしたことを自分で責める言葉が書かれていたといいます。数え25歳でした。田中新兵衛も文久3年5月、姉小路公知の暗殺の疑いで捕らえられ、取り調べの場で自刃しています。
宇郷玄蕃ゆかりの地
- 九条家砂川屋敷跡(京都市左京区、出町柳駅の近く):宇郷玄蕃が住み、襲われた屋敷のあった場所。いまの吉田上阿達町あたりとされます。
- 松原橋の東詰北側(京都市東山区):宇郷玄蕃の首がさらされた鴨川の河原。
- 木屋町(京都市中京区):関連史跡。ひと月前に島田左近が斬られた場所です。
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幕末・明治の暗殺事件を読む
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- 本間精一郎暗殺(1862)—木屋町の天誅
- 宇郷玄蕃暗殺(1862)—九条家の諸大夫、松原河原の首(この記事)
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- 池内大学暗殺(1863)—大坂、難波橋にさらされた首
- 賀川肇暗殺(1863)—首は慶喜の宿所へ、腕は岩倉邸へ
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- 伊藤博文暗殺(1909)—ハルビン駅
✎ 筆者のひとこと
調べていていちばん胸に残ったのは、妻の加寿が事件の翌日に書いた届け書でした。布団をかぶせられ、そのすぐそばで夫が斬られていた—。2歳の娘もその場にいたはずです。
「天誅」という言葉は勇ましく聞こえますが、その一つひとつに残された家族がいました。宇郷玄蕃の事件は、そのことを思い出させてくれます。


