世良修蔵暗殺とは—奥羽鎮撫総督府の下参謀はなぜ福島で斬られたのか。「奥羽皆敵」の密書と金沢屋の夜

深夜の金沢屋に踏み込む仙台藩士たち(イメージイラスト)

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慶応4年(1868)閏4月20日の未明、福島城下の旅籠「金沢屋」に、刀を手にした二十数人がなだれ込みました。狙われたのは、新政府が東北に送り込んだ奥羽鎮撫総督府の下参謀(しもさんぼう)、長州藩の世良修蔵(せら しゅうぞう)です。

世良は二階から飛び降りたところで捕らえられ、その日のうちに阿武隈川の河原で首をはねられました。手を下したのは、仙台藩と福島藩の藩士たち。引き金になったのは、世良が書いた一通の密書でした。そこには「奥羽はみな敵と見て」という一文があったのです。

この夜を境に、東北の諸藩は新政府と戦う道へ進みます。世良修蔵暗殺の真相を、誰が・いつ・どこで・なぜ・その後どうなったか、の順にくわしく見ていきます。

目次

先に答え—世良修蔵暗殺とは

いつ 慶応4年(1868)閏4月19日の深夜から20日の未明にかけて襲撃。20日(西暦では1868年6月10日)に処刑されました
どこで 福島城下・北町(いまの福島市)の旅籠・金沢屋で襲われ、隣の客自軒(かくじけん)で取り調べを受けたのち、長楽寺裏の阿武隈川の河原で斬られました
誰が 仙台藩士の姉歯武之進(あねは たけのしん)・瀬上主膳(せのうえ しゅぜん)ら。襲撃には仙台藩士6人、福島藩士3人、福島の目明しとその手下が加わり、あわせて25人ほどだったとする記録があります
誰を 奥羽鎮撫総督府の下参謀、長州藩の世良修蔵(数え34歳)。同宿していた長州藩士・勝見善太郎も一緒に斬られました
なぜ 会津藩を許そうとする東北諸藩の嘆願をはねつけ、討伐を強く迫ったため。決定打は、世良が薩摩の下参謀・大山格之助に送ろうとした密書に「奥羽皆敵」と書かれていたことでした
その後 同じ日に会津藩が白河城を奪い、東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結んで新政府軍と戦う道へ。世良の首は白石に葬られ、明治になって従四位が贈られました

世良修蔵はどんな人だったのか

世良修蔵は天保6年(1835)、周防国大島郡椋野村(いまの山口県周防大島町)の庄屋・中司(なかつかさ)家に生まれました。武士の家ではありません。

学問で身を立てようとした人でした。萩の藩校・明倫館に学び、海防僧として知られた月性の塾でも学びます。さらに江戸に出て、儒学者・安井息軒の三計塾に入り、塾の運営にも携わりました(塾長代理を務めたともいわれます)。その後、長州藩の重臣・浦靱負(うら ゆきえ)が開いた塾で兵学などを教え、浦家の家来となります。

文久3年(1863)ごろ、高杉晋作が始めた奇兵隊に入り、書記を務めました。慶応元年(1865)には第二奇兵隊の軍監(監督役)となり、このころ浦家の家臣・世良家の名を継いで「世良修蔵」と名乗ります。

実戦でも力を見せました。幕府が長州を攻めた第二次長州征討(四境戦争)では、ふるさとの周防大島で、第二奇兵隊の軍監として松山藩などの幕府方を退ける戦いに加わっています。慶応4年1月の鳥羽・伏見の戦いでも、別働隊を率いて八幡(やわた)の旧幕府軍の陣地を破りました。

庄屋の子から、学問と戦の腕で長州の軍の中枢へ。世良は、身分ではなく実力でのし上がった、幕末の長州らしい人物でした。

時代背景—東北に送り込まれた「鎮撫総督府」

鳥羽・伏見の戦いに勝った新政府は、旧幕府方の中心と見なした会津藩と庄内藩を討つため、東北に「奥羽鎮撫総督府」を送り込みます。

総督 九条道孝(公家)
副総督 沢為量(公家)
参謀 醍醐忠敬(公家)
下参謀 世良修蔵(長州)、大山格之助(薩摩)

総督・副総督・参謀は公家で、実際に軍を動かすのは下参謀のふたりでした。世良は、薩摩の黒田清隆や長州の品川弥二郎の代わりとして、この役についたといわれます。

一行は数百人の規模でした。慶応4年3月23日、仙台に着き、仙台藩の藩校・養賢堂を本陣にしました。62万石の大藩とはいえ、仙台藩は総督府の兵を自分の領内に迎え、その指図で会津を攻めなければならない立場に置かれたのです。

ところが東北の諸藩の多くは、会津と戦うことに乗り気ではありませんでした。松平容保の会津藩は京都守護職として朝廷のために働いてきた藩であり、それがなぜ「朝敵」として討たれなければならないのか、という思いが強かったのです。

なぜ世良は恨まれたのか—嘆願を握りつぶした下参謀

仙台藩と米沢藩は、会津藩を戦わずに降伏させようと動きました。両藩の家老は会津藩の家老・梶原平馬と話し合い、閏4月12日には、仙台藩主・伊達慶邦と米沢藩主・上杉斉憲が、会津藩を寛大に扱ってほしいという嘆願書を九条総督に差し出します。これに先立つ閏4月11日には、白石に東北14藩の重臣が集まって会津の救済を話し合い、その嘆願にも名を連ねていました。

しかし閏4月17日、総督府はこの嘆願を退け、早く会津に攻め込むよう命じます。本当に謝罪するつもりなら、兵を引いて城を開け、自ら出てきて詫びるのが筋だ、というのが世良ら参謀たちの考えでした。

ここで押さえておきたいのは、会津を厳しく処分するという新政府の方針が、世良ひとりの考えではなかったことです。世良が下参謀になる前から、江戸の東征大総督府は会津に厳罰を求める方針を持っていました(ただし、容保の具体的な処分については、その後も検討が続いていました)。一方の会津藩も、仙台・米沢が示した降伏の条件を最後には受け入れず、閏4月15日ごろには、徳川家の処分が決まらないうちは謝罪できない、という立場を伝えています。話がまとまらなかった責任は、世良だけにあるわけではありません。

それでも、東北の人々の怒りは世良に集まりました。仙台藩士を見下すような言動がたびたび伝えられ、会津の様子を伝えに来た仙台藩士の玉虫左太夫をののしった、という話も残っています。仙台の榴ヶ岡で花見をしたとき、世良は「陸奥に桜かりして思ふかな 花ちらぬ間に軍せばやと」(桜が散らないうちに戦をしたいものだ)と詠んだともいわれます。

ただし、こうした世良の「傲慢ぶり」を伝える話の多くは、明治の末に仙台の新聞記者・藤原相之助がまとめた『仙台戊辰史』など、仙台側の記録にもとづいています。当事者の証言を多く含む貴重な記録ではありますが、暗殺した側の立場から書かれたものでもあり、世良の言葉づかいの細かなところまで、そのまま事実と受け取るのは慎重であるべきでしょう。

また、世良の強い態度の背景には、総督府が少ない兵で送り込まれ、東北の諸藩に会津を攻めさせなければ任務を果たせなかった、という苦しい事情もありました。一方の仙台・米沢にも、会津への同情だけでなく、戦になれば領民に重い負担がかかるという現実的な理由がありました。

「奥羽皆敵」の密書—何が書かれていたのか

旅籠で大山格之助あての手紙を書く世良修蔵(イメージイラスト)
旅籠で大山格之助あての手紙を書く世良修蔵(イメージイラスト)

閏4月19日、福島城下の金沢屋に泊まっていた世良は、羽州の新庄(いまの山形県)にいた同じ下参謀の大山格之助にあてて手紙を書きました。この手紙を届けるよう頼まれたのが、福島藩士の鈴木六太郎です。

手紙は大山には届きませんでした。鈴木を通じて仙台藩士の瀬上主膳・姉歯武之進の手に渡ったのです。開いてみると、そこには「奥羽皆敵ト見テ逆撃之大策ニ至度候ニ付」という一文がありました。東北の諸藩をすべて敵とみなし、逆に打ち破る大きな策を立てたい、という意味です。

世良にも事情はありました。総督府は、仙台藩などを先頭に立てて会津を攻めるつもりでしたが、その仙台が会津をかばう側に回ってしまった。総督府の手持ちの兵だけで会津と庄内を相手にするのは無理です。そこで世良は、江戸で西郷隆盛と相談し、京都・大坂から兵を白河に集め、船で酒田方面にも援軍を送って会津と庄内を挟み撃ちにする—そんな構想を大山に伝えようとしていたといわれます。新政府が正式に決めた作戦ではなく、世良が提案しようとしていた段階の案でした。

しかし、手紙を読んだ仙台藩士にとっては、そんな事情はどうでもよいことでした。自分たちは会津を救おうと骨を折っているのに、総督府はその自分たちを「敵」と見ている—。姉歯らは怒りで我を忘れたといいます。

世良の密書を読んで怒る仙台藩士たち(イメージイラスト)
世良の密書を読んで怒る仙台藩士たち(イメージイラスト)

実は、世良を討つ計画はこれより前から進んでいました。会津との境に陣を張っていた仙台藩の大隊長・佐藤宮内が、会津藩士から世良を討つ計画を聞き、仙台藩の参謀・大越文五郎を通じて、藩の最高責任者である奉行・但木土佐(ただき とさ)に話を上げます。但木は「そなたたちで計らえ」と答え、閏4月14日には計画が容認されていたとする記録があります。ただし、20日の襲撃そのものが上層部の具体的な命令によるものだったのか、密書を手にした現地の藩士たちの判断だったのかは、分けて考える必要があります。姉歯らは数日前から世良のあとをつけていましたが、影響の大きさを考えて踏み切れずにいたところでした。そこへ密書と、世良が江戸へ向かいそうだという知らせが重なったのです。

事件当日の模様—金沢屋の夜

深夜の金沢屋に踏み込む仙台藩士たち(イメージイラスト)
深夜の金沢屋に踏み込む仙台藩士たち(イメージイラスト)

『二本松藩史』に収められた金沢屋の主人・斎藤浅之助の談話には、事件の前の晩のようすが残っています。

閏4月19日の夕方、世良から手紙を預かった鈴木六太郎は、帰りぎわに主人の斎藤へ「何でもお口に合う物をたくさん出して差し上げなさい」と強く言い残しました。世良が風呂に入ると、斎藤はいつものように背中を流しながら、翌日からの出かける予定を尋ねます。世良の答えは「行かれなくなったよ」というものでした。その夜の膳には、世良の好物だった蓮の実の甘煮と鯉の洗いが並べられたといいます。

そして深夜。世良と、同じ長州藩士の勝見善太郎が眠る部屋に、男たちが押し入りました。時刻は閏4月20日の午前2時ごろとする記録が多い一方、金沢屋の主人は明治になってからの証言で「19日の夜10時ごろだったと思う」と語っており、はっきりしません。主人は家族と逃げていたため、一部始終を見ていたわけではありませんでした。仙台藩士の姉歯武之進・田辺覧吉・赤坂幸太夫・松川豊之進・末永縫殿之允・大槻定之進の6人、福島藩士の遠藤条之助・杉沢覚右衛門・鈴木六太郎の3人、それに福島町の目明し・浅草屋宇一郎とその手下を合わせて、25人ほどだったとする記録があります(人名の表記には史料によって違いがあります)。

不意を突かれた世良は、二階から飛び降りて逃げようとしましたが、そこで深い傷を負い、取り押さえられたと伝えられます。世良は隣の旅館・客自軒(かくじけん)に引き立てられ、取り調べを受けました。仙台藩の重臣たちが集まっていた白石まで連れて行くつもりでしたが、出血がひどく、福島で処刑することになったといいます。客自軒の建物はのちに「紅葉館」となり、いまは福島市民家園に移されて残っています。

20日、世良と勝見は長楽寺の裏手にあたる阿武隈川の河原に引き出され、首をはねられました。長楽寺には、総督府の軍事局が置かれていました。遺体は川に投げ込まれたといいます。数え34歳でした。

福島城跡(紅葉山公園)の「福島城と奥州街道」案内板。金沢屋は奥州街道沿いの福島城下にあった(筆者撮影)
福島城跡(紅葉山公園)の「福島城と奥州街道」案内板。金沢屋は奥州街道沿いの福島城下にあった(筆者撮影)

犯人は誰か—現場の藩士と、藩の上層部

手を下したのは、姉歯武之進ら仙台藩士と、福島藩士たちです。福島藩士の鈴木六太郎は、世良から手紙を預かった当人であり、その手紙を仙台藩士に渡したうえで、襲撃にも加わっていました。

ただ、これは若い藩士たちの暴走だけではありませんでした。前に見たように、仙台藩の奉行・但木土佐が事前に計画を容認していたとする記録があり、会津藩士の働きかけもありました。現場の藩士だけの暴走とは言い切れない事件だったといえます。

この密書については、本物かどうかをめぐる論争もあります。のちに仙台藩が新政府に降伏するとき、仙台藩は「世良の密書は会津藩が本物らしく作った偽物で、それにだまされて世良を殺してしまった」と弁明しました。長州側の記録をもとにした『防長回天史』も、密書は偽物だという立場をとっています。一方、仙台側の藤原相之助は『仙台戊辰史』などで、密書は本物だと反論しました。福島市の長楽寺には、この密書とされる書簡が伝わっています。

密書の原本が本物かどうかと、それをきっかけに暗殺が実行されたという流れは、分けて考える必要があります。少なくとも、世良を討つ計画が密書の前から進んでいたことは、仙台側の記録自体が伝えています。

世良の死が変えたもの—白石と白河、同じ日のできごと

世良が斬られたという知らせは、白石に集まっていた東北諸藩の重臣たちのもとにも届きました。米沢藩士・宮島誠一郎の日記によると、その場の人々はみな万歳を叫び、「天誅だ、愉快だ」という声がやまなかったといいます。もっとも、これはその座にいた人々の反応であり、東北のすべての藩士が暗殺を喜んだわけではありません。世良と勝見の首は白石城へ送られ、会津藩士にはふたりの髻(もとどり)が持ち帰らせられました。

白石城の本丸と三階櫓。世良暗殺の知らせは、白石に集まった東北諸藩の重臣たちのもとへ届いた(筆者撮影)
白石城の本丸と三階櫓。世良暗殺の知らせは、白石に集まった東北諸藩の重臣たちのもとへ届いた(筆者撮影)

そして同じ閏4月20日、会津藩は白河小峰城を攻めて奪い取ります(白河口の戦い)。仙台藩の奉行・坂英力(時秀)が、新政府軍に先に入られる前に白河を押さえるべきだと会津に伝えていたためでした。世良が斬られたと知って会津が動いたわけではなく、ふたつの出来事は別々に進んでいたものが、たまたま同じ日に重なったのです。

白河小峰城の三重櫓。世良が斬られたのと同じ日、会津藩がこの城を奪った(筆者撮影)
白河小峰城の三重櫓。世良が斬られたのと同じ日、会津藩がこの城を奪った(筆者撮影。【現地取材】白河小峰城)

世良の暗殺と白河城の奪取。同じ日に起きたこのふたつで、東北諸藩はもう引き返せなくなりました。5月3日には仙台・米沢を中心に25藩による奥羽列藩同盟が結ばれ、越後の諸藩も加わって奥羽越列藩同盟となります。東北は、新政府と正面から戦う道に入っていったのです。

暴力は世良だけでは終わりませんでした。同じ日、事情を知らずに金沢屋へ戻ってきた長州藩士・松野儀助が捕らえられて斬られ、世良の馬の世話をしていた繁蔵も殺されます。翌日以降も、参謀・醍醐忠敬に付き従っていた長州藩士の野村十郎や中村小次郎が、仙台藩士に討たれたと伝えられます。

事件のその後—世良はどう葬られ、どう語られたか

世良の首は、白石の月心院という寺に葬られました。仙台藩に仕えた真田信繁(幸村)の子孫にゆかりのある寺です。明治3年(1870)に白石の陣場山へ移され、明治8年(1875)には宮城県が墓碑を建てています。翌年、明治天皇が東北を回った際には、木戸孝允らが灯籠を供えました。

この墓碑には、ひとつの謎があります。「奥州信夫郡福島駅□□所殺」と刻まれた文字のうち、二文字が削り取られているのです。もとは「為賊(賊のために)」と彫られていましたが、明治22年(1889)の大赦で、戊辰戦争で新政府に敵対した人々が「賊」でなくなったため、白石町の役場が削ったとされます。墓石の傷あとが、勝者と敗者の関係が移り変わっていったことを今に伝えています。

明治31年(1898)、世良には従四位が贈られました。妻・千恵とのあいだに娘がいましたが幼くして亡くなり、世良の家は絶えています。

一方で、世良は長く「東北を戦争に追い込んだ傲慢な男」として語られてきました。司馬遼太郎の短編「斬殺」をはじめ、小説やドラマでも、たいてい憎まれ役です。NHK大河ドラマ『八重の桜』でも、強面の悪役として描かれました。しかし、そのイメージの多くは、暗殺した側の記録から生まれたものです。会津藩主の死罪は世良が決めた方針ではなく、会津藩もまた降伏の条件をのまなかった—その点を押さえると、世良ひとりに戦争の責任を負わせるのは酷だともいえます。

世良修蔵ゆかりの地

  • 金沢屋跡(福島市北町):世良が襲われた旅籠のあったところ。奥州街道沿いの福島城下の町なかで、馬の市でにぎわう場所だったといいます。福島城と城下町については【現地取材】福島城で紹介しています。
  • 福島稲荷神社(福島市宮町):境内に国が整えた墓(官修墳墓)があり、世良とともに勝見善太郎・松野儀助・繁蔵の名が刻まれています。
  • 長楽寺(福島市舟場町):総督府の軍事局が置かれた寺。世良が斬られた河原はこの裏手。世良の密書とされる書簡が伝わっています。
  • 福島市民家園(福島市上名倉):世良が取り調べを受けた客自軒(旧紅葉館)の建物が移築されています。
  • 陣場山(宮城県白石市):世良の首を葬った墓(白石市指定史跡)。明治8年に宮城県が墓碑を建てました。「為賊」の二文字が削られた墓碑です。
  • 白石城(宮城県白石市):世良の首が送られ、東北諸藩の重臣が会議を開いた城(【現地取材】白石城)。
  • 周防大島町椋野(山口県):世良のふるさと。招魂碑が建てられています。

幕末・明治の暗殺事件を読む

▶ 暗殺事件の特集(年表と一覧)

✎ 筆者のひとこと

世良修蔵というと、ドラマでも憎まれ役ばかりです。けれど調べてみると、少ない兵で東北に送り込まれ、言うことを聞かない大藩を相手に任務を背負わされた、損な役回りの人でもありました。

福島城跡や白石城、白河小峰城を歩いたとき、この三つの町が一日のうちにつながっていたとは意識していませんでした。次に福島を訪ねるときは、民家園の客自軒と、長楽寺裏の河原にも足を運んでみたいと思います。

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