| 土方 歳三 | |||
| 職名 | 副長 | ||
| 出身 | 武蔵国多摩 | ||
| 終焉場所 | 五稜郭一本木 | ||
| 終焉方法 | 戦死 | ||
土方は「回天丸」に乗り込み参加するが甲鉄艦奪取作戦(アボルダージュ)は失敗に終わります。明治二年、ついに新政府軍が蝦夷へ上陸し、各地から函館「五稜郭」を目指して進軍します。土方は函館への山沿いの玄関口「二股口」に防塁を築いてここを死守しました。しかし、旧幕府軍は物量や武器で勝る新政府軍に徐々に追い詰められ、土方も五稜郭へ撤退しました。新政府軍は函館山を奪取し、ここから五稜郭への奇襲攻撃を企てたため、土方はこれを防ぐため残った隊士50名で「弁天台場」に向かうが、その途中にある一本木関門にて戦死しました。
激動の幕末を最後まで自分の生き方で貫いた生き様でした。
※函館五稜郭
※弁天台場跡
土方歳三をもっと深く—「鬼の副長」は同時代の呼び名ではありません
いきなり水を差すようですが、確かめておきたいことがあります。
幕末の一次史料にも、当事者の日記にも、「鬼の副長」という言葉は見当たりません。むしろ初期に「鬼」と呼ばれていたのは近藤勇のほうでした。
活字での早い使用例は昭和三十二年の雑誌記事とされ、広まったのは司馬遼太郎『燃えよ剣』(1964年)から、2004年の大河ドラマを経て、という流れです。
では同時代の人は土方をどう見ていたか。江川太郎左衛門の評が残っています。
豪邁不屈、胆気非常の男
二股口の戦いでは、新政府軍が鈴を鳴らして包囲を装ったとき、「本当に包囲しようとするなら、音を隠して気づかれないようにする」と看破しています。冷酷というより、頭の回る人でした。
石田散薬は、昭和二十三年に「無効」と判定されています
実家の家業として知られる石田散薬。副業として宝永年間から昭和二十三年まで、およそ二百五十年続きました。
原料は「牛額草」—ミゾソバです。しかも自宅の裏を流れる浅川産のものだけを使い、採取は土用の丑の日に村民総出という決まりでした。乾燥させ、黒焼きにし、日本酒をかけてまた乾かして粉にする。
服用法が振るっています。「大人一包ずつ一日一回。小人半包ずつ一日二回。燗酒にて服用すべし」
打ち身や捻挫の薬とされましたが、昭和二十三年の薬事法改正にともなう調査で「無効・無害」と判定されました。有効成分を加えるよう指導されても土方家は原料の変更を拒み、製造をやめています。効いていたのは、たぶん一緒に飲む燗酒のほうでした。
「行商しながら剣術修行」も、裏が取れません
薬を売り歩きながら各地の道場で腕を磨いた—よく語られる話ですが、一次史料の裏づけがありません。
むしろ史料が示すのは逆です。石田村の人別帳控によれば、数え十一歳の時点で村に住んでおり、奉公には出ていません。そして天然理心流への正式な入門は、安政六年三月九日。数え二十五歳です。
流派の記録に残るのも「中極位目録」までで、免許の記録はありません。ただし入門の翌年、万延元年刊の『武術英名録』に名が載っています。遅い出発でしたが、すぐに評価はされていました。
『豊玉発句集』は、本当に下手なのか
俳号「豊玉」は諱の「義豊」から取ったものです。句集は実在し、原本が日野の土方歳三資料館にあります。表紙は「文久三年亥ノ春」。上洛の直前に編んだものと見られます。
全四十一句。うち一句は本人がボツにしています。春の句が多く、月と梅がそれぞれ五句。
しれば迷ひしなければ迷ふ法の道
差し向かう心は清き水鏡
おもしろき夜着の列や今朝の雪
「下手」という評の出所もはっきりしています。司馬遼太郎が下手だと評し、『燃えよ剣』で沖田総司にからかわせた場面です。同時代の人が下手だと言った記録ではありません。字のほうは相当な達筆だったと伝わります。
あの写真は、いつどこで撮られたのか
洋装で椅子に座った、あの有名な写真。撮影者は箱館の写真師・田本研造とするのが有力です。
根拠が面白いのです。土方が座っている椅子と、箱館政権首脳の集合写真で荒井郁之助が座っている椅子が、同一のものなのです。猫足で、四本の脚をつなぐ貫がX型。首脳写真が田本の撮影とされるので、土方の写真も箱館・田本と推定されます。
ちなみに近藤勇の写真は和装で、江戸での撮影と推定されています。二人の写真は、場所も時期もまったく別です。
写真を運んだ少年
この写真を日野へ届けたのが市村鉄之助です。大垣藩士の三男で、慶応三年に兄の市村辰之助とともに十四歳で入隊しました。土方の評は「頗る勝気、性亦怜悧」。
明治二年五月、土方は死の直前に遺髪と写真を託し、日野へ届けるよう命じます。鉄之助は拒みましたが、押し切られました。
出立のとき、窓に人影を見たといいます。のちにこう語り残しています。
誰かは解りませんでしたが、おそらく(土方)先生だったろう思います
官軍の包囲を突破し、およそ二か月かけて日野宿の佐藤彦五郎家へたどり着きました。その後の消息は分かっていません。
五月十一日、一本木関門
この日の位置関係を押さえておきます。本拠の五稜郭は市街の北東、弁天台場は箱館港口の南西端。新政府軍が七重浜から上陸して市街を制圧したため、弁天台場が本拠から切り離されました。
土方はその救援に、約五十名を率いて五稜郭を出ます。箱館港で蟠竜丸が朝陽丸を撃沈したのを見て「この機失するべからず」と大喝したと伝わります。
そして一本木関門で敗走兵を押し戻し、こう宣告しました。
我この柵にありて、退く者を斬らん
馬上で指揮を執るうち被弾—箇所は腹部とするのが有力ですが、諸説あります。駆けつけた大野右仲が見たときには、すでに絶命していました。享年三十五。
遺体の行方は分かっていません。五稜郭内の「一本松の土饅頭」説、七重村の閻魔堂に土葬されのち碧血碑へ納骨されたという説、大圓寺説、五稜郭公園の兵糧庫裏説。四通り伝わっています。
救援に向かった弁天台場は、四日後の五月十五日、永井尚志以下二百四十名で降伏しました。その日、相馬主計が新選組最後の隊長に選ばれています。
新選組隊士全456名情報漫画・ゲームの土方歳三と、史料の土方歳三
愛刀・和泉守兼定—いまも残るが、届いた経緯は分かりません
漫画やゲームで土方の刀といえば和泉守兼定です。実際に、日野の生家に伝わる土方歳三資料館には、刃長およそ七十センチの兼定が残っています。
ただし、この刀を誰がいつ箱館から日野へ届けたのかを示す史料は見つかっていません。土方が差していた刀として家に伝わってきた、というのが確かなところです。刀身は常に見られるわけではなく、資料館の特別公開の期間に限って公開されています。
最期の場所と墓—遺体の行方は分かっていません
明治二年五月十一日、土方は箱館の一本木関門のあたりで銃弾に倒れたとされます(倒れた場所には異説もあります)。遺体は五稜郭の中に葬られたという説などがありますが、どこに埋められたかは今も定まっていません。
そのため、墓や碑は各地に分かれています。故郷・日野の石田寺に墓碑があり、東京・板橋には近藤勇と並ぶ供養塔、函館には「土方歳三最期の地」の碑が立っています。
土方歳三と関わりの深い人たち
- 近藤勇—天然理心流の道場・試衛館で出会い、最後まで行動をともにした局長。流山で別れたのが最後でした。
- 沖田総司・井上源三郎—試衛館以来の仲間。
- 山南敬助—副長として並んだ総長。脱走の末に切腹しました。
- 伊東甲子太郎—参謀として入隊し、のちに分かれて油小路で討たれた人。
- 永倉新八・斎藤一—斎藤は会津まで土方と転戦し、会津に残りました。
- 市村鉄之助—箱館で土方の小姓を務め、写真と遺髪を日野へ届けた少年。
- 佐藤彦五郎—日野宿の名主で、土方の姉の夫。自宅に道場を開き、土方や近藤を支えました。
土方歳三のゆかりの地
- 土方歳三資料館(東京都日野市石田)—生家の跡に子孫が開いた資料館。開館日が限られるので、公式サイトの開館カレンダーで確かめてから訪ねてください。
- 石田寺(日野市石田)—土方家の菩提寺で、墓碑があります。
- 高幡不動尊(日野市高幡)—境内に土方歳三の銅像が立っています。
- 日野宿本陣(日野市日野本町)—義兄・佐藤彦五郎の屋敷。土方が剣術の稽古に通った場所です。
- 壬生・八木邸(京都市)・池田屋騒動の跡—京都時代の舞台。
- 近藤勇の墓と板橋刑場跡(東京都北区・板橋駅前)—近藤と土方の名を刻んだ供養塔があります。
- 宇都宮城・母成峠古戦場—江戸を出たあとの北関東・会津での転戦の地。
- 五稜郭・弁天台場跡・土方歳三最期の地碑(函館市若松町)—箱館戦争の舞台と、最期の地。
参考にした資料:土方歳三資料館の公式サイト(開館・和泉守兼定の特別公開の案内)、函館市の観光案内(土方歳三最期の地碑)、子母澤寛『新選組始末記』、永倉新八『新撰組顛末記』。
箱館での新選組と、土方のもとで戦った隊士たちについては、箱館の新選組—蝦夷地で入隊した隊士たちと、弁天台場の降伏でまとめています。
土方の縁者で、二度入隊を断られたのちに新選組に入った松本捨助は、会津で土方に隊を離れるよう命じられ、大正まで生きました。
新選組の隊士たちの墓所は、新選組の墓所めぐりに地域ごとにまとめています。
甲陽鎮撫隊から流山の出頭、板橋での最期までの近藤勇と隊士たちの動きは、近藤勇、最後の百日—甲陽鎮撫隊・勝沼の敗戦から流山の出頭、板橋の刑場までに日付の順でまとめています。
池田屋事件の夜に出動した隊士の顔ぶれは、池田屋事件に出動した新選組隊士—近藤隊の十人と、駆けつけた土方隊・井上隊にまとめています。
会津での新選組の戦いと、土方・斎藤の別れについては、会津の新選組—宇都宮・白河口・母成峠・如来堂、土方と斎藤が別れた夏にまとめています。
鳥羽伏見の戦いでの新選組については、鳥羽伏見の戦いと新選組—伏見奉行所、淀千両松、そして江戸へにまとめています。
新選組の屯所の移り変わりは、新選組の屯所の移り変わり—壬生・西本願寺・不動堂村・伏見奉行所、そして流山へにまとめています。
元治元年の禁門の変での新選組の動きは、禁門の変と新選組—九条河原の布陣から天王山の追撃までにまとめています。
新選組の役職と、それぞれを務めた隊士は、新選組の組織と役職—局長・副長・組長・監察・勘定方・伍長、誰が何を務めたのかにまとめています。
新選組の隊士たちが学んだ流派は、新選組隊士の剣術流派—天然理心流・神道無念流・北辰一刀流、誰が何を学んだのかにまとめています。
新選組と会津藩の関わりは、新選組と会津藩—京都守護職・松平容保の「お預かり」から、会津での最後の戦いまでにまとめています。
近藤勇・土方歳三・井上源三郎のふるさと(調布の近藤勇生家跡、日野宿本陣、井上源三郎資料館、石田寺、高幡不動)は、【現地取材】新選組のふるさとを歩くで写真とともに紹介しています。
新選組をもっと知る本
小説で新選組に入った人も、史実から入りたい人も読みやすい本です。『新撰組顛末記』は二番隊組長・永倉新八が晩年に語った回顧録、『新選組始末記』は昭和の初めに関係者の聞き書きをまとめた本で、どちらも後の小説やドラマのもとになりました。
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参考資料:Wikipedia日本語版「土方歳三」「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。
新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)



