| 土方 歳三 | |||
| 職名 | 副長 | ||
| 出身 | 武蔵国多摩 | ||
| 終焉場所 | 五稜郭一本木 | ||
| 終焉方法 | 戦死 | ||
天然理心流に入門し近藤勇と出会います。その後「清川八郎」が草案した浪士組みの結成に加わって近藤・沖田らと上洛するが、京都では清川の狙いが尊王攘夷にあることが発覚し、京都に残り近藤と共に会津藩お預かり「新選組」を結成し副長となります。結成後は「池田屋事件」などで多くの浪士や統幕派の長州藩士などを取り締まり、そして斬りました。
このことが後の戊辰戦争で最後まで新選組隊士が恨まれる所以となります。徳川慶喜が二条城にて「大政奉還」をすると、薩摩・長州の軍と幕府軍との間で「鳥羽伏見の戦い」が勃発し、戦中に「錦の御旗」が立つなどして幕府軍は賊軍となってしまいます。これにより流れが一気に代わり旧幕府軍はこの戦いに敗れ、散り散りになりながら江戸へ帰環します。
江戸への帰環後は近藤と共に「甲陽鎮撫隊」を編成し、甲府城乗っ取りを計画するも「甲州勝沼の戦い」で土佐藩の板垣退助に敗れ、江戸を脱出。北関東(宇都宮城や日光)、そして会津に転戦するも各地で敗れ、最後は函館戦争に「陸軍奉行」として参加します。開陽丸を江刺で失った(座礁により)旧幕府軍は新政府軍の「甲鉄艦」奪取すべく、宮古湾海戦を挑むことになります。
※土方歳三が乗船した回天丸
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土方は「回天丸」に乗り込み参加するが甲鉄艦奪取作戦(アボルダージュ)は失敗に終わります。明治2年、ついに新政府軍が蝦夷へ上陸し、各地から函館「五稜郭」を目指して進軍します。土方は函館への山沿いの玄関口「二股口」に防塁を築いてここを死守しました。しかし、旧幕府軍は物量や武器で勝る新政府軍に徐々に追い詰められ、土方も五稜郭へ撤退しました。新政府軍は函館山を奪取し、ここから五稜郭への奇襲攻撃を企てたため、土方はこれを防ぐため残った隊士50名で「弁天台場」に向かうが、その途中にある一本木関門にて戦死しました。
激動の幕末を最後まで自分の生き方で貫いた生き様でした。
※函館五稜郭

※弁天台場跡

土方歳三をもっと深く——「鬼の副長」は同時代の呼び名ではありません
いきなり水を差すようですが、確かめておきたいことがあります。
幕末の一次史料にも、当事者の日記にも、「鬼の副長」という言葉は見当たりません。むしろ初期に「鬼」と呼ばれていたのは近藤勇のほうでした。
活字での早い使用例は昭和三十二年の雑誌記事とされ、広まったのは司馬遼太郎『燃えよ剣』(一九六四年)から、二〇〇四年の大河ドラマを経て、という流れです。
では同時代の人は土方をどう見ていたか。江川太郎左衛門の評が残っています。
豪邁不屈、胆気非常の男
二股口の戦いでは、新政府軍が鈴を鳴らして包囲を装ったとき、「本当に包囲しようとするなら、音を隠して気づかれないようにする」と看破しています。冷酷というより、頭の回る人でした。
石田散薬は、昭和二十三年に「無効」と判定されています
実家の家業として知られる石田散薬。副業として宝永年間から昭和二十三年まで、およそ二百五十年続きました。
原料は「牛額草」——ミゾソバです。しかも自宅の裏を流れる浅川産のものだけを使い、採取は土用の丑の日に村民総出という決まりでした。乾燥させ、黒焼きにし、日本酒をかけてまた乾かして粉にする。
服用法が振るっています。「大人一包ずつ一日一回。小人半包ずつ一日二回。燗酒にて服用すべし」
打ち身や捻挫の薬とされましたが、昭和二十三年の薬事法改正にともなう調査で「無効・無害」と判定されました。有効成分を加えるよう指導されても土方家は原料の変更を拒み、製造をやめています。効いていたのは、たぶん一緒に飲む燗酒のほうでした。
「行商しながら剣術修行」も、裏が取れません
薬を売り歩きながら各地の道場で腕を磨いた——よく語られる話ですが、一次史料の裏づけがありません。
むしろ史料が示すのは逆です。石田村の人別帳控によれば、数え十一歳の時点で村に住んでおり、奉公には出ていません。そして天然理心流への正式な入門は、安政六年三月九日。数え二十五歳です。
流派の記録に残るのも「中極位目録」までで、免許の記録はありません。ただし入門の翌年、万延元年刊の『武術英名録』に名が載っています。遅い出発でしたが、すぐに評価はされていました。
『豊玉発句集』は、本当に下手なのか
俳号「豊玉」は諱の「義豊」から取ったものです。句集は実在し、原本が日野の土方歳三資料館にあります。表紙は「文久三年亥ノ春」。上洛の直前に編んだものと見られます。
全四十一句。うち一句は本人がボツにしています。春の句が多く、月と梅がそれぞれ五句。
しれば迷ひしなければ迷ふ法の道
差し向かう心は清き水鏡
おもしろき夜着の列や今朝の雪
「下手」という評の出所もはっきりしています。司馬遼太郎が下手だと評し、『燃えよ剣』で沖田総司にからかわせた場面です。同時代の人が下手だと言った記録ではありません。字のほうは相当な達筆だったと伝わります。
あの写真は、いつどこで撮られたのか
洋装で椅子に座った、あの有名な写真。撮影者は箱館の写真師・田本研造とするのが有力です。
根拠が面白いのです。土方が座っている椅子と、箱館政権首脳の集合写真で荒井郁之助が座っている椅子が、同一のものなのです。猫足で、四本の脚をつなぐ貫がX型。首脳写真が田本の撮影とされるので、土方の写真も箱館・田本と推定されます。
ちなみに近藤勇の写真は和装で、江戸での撮影と推定されています。二人の写真は、場所も時期もまったく別です。
写真を運んだ少年
この写真を日野へ届けたのが市村鉄之助です。大垣藩士の三男で、慶応三年に兄の市村辰之助とともに十四歳で入隊しました。土方の評は「頗る勝気、性亦怜悧」。
明治二年五月、土方は死の直前に遺髪と写真を託し、日野へ届けるよう命じます。鉄之助は拒みましたが、押し切られました。
出立のとき、窓に人影を見たといいます。のちにこう語り残しています。
誰かは解りませんでしたが、おそらく(土方)先生だったろう思います
官軍の包囲を突破し、およそ二か月かけて日野宿の佐藤彦五郎家へたどり着きました。その後の消息は分かっていません。
五月十一日、一本木関門
この日の位置関係を押さえておきます。本拠の五稜郭は市街の北東、弁天台場は箱館港口の南西端。新政府軍が七重浜から上陸して市街を制圧したため、弁天台場が本拠から切り離されました。
土方はその救援に、約五十名を率いて五稜郭を出ます。箱館港で蟠竜丸が朝陽丸を撃沈したのを見て「この機失するべからず」と大喝したと伝わります。
そして一本木関門で敗走兵を押し戻し、こう宣告しました。
我この柵にありて、退く者を斬らん
馬上で指揮を執るうち被弾——箇所は腹部とするのが有力ですが、諸説あります。駆けつけた大野右仲が見たときには、すでに絶命していました。享年三十五。
遺体の行方は分かっていません。五稜郭内の「一本松の土饅頭」説、七重村の閻魔堂に土葬されのち碧血碑へ納骨されたという説、大圓寺説、五稜郭公園の兵糧庫裏説。四通り伝わっています。
救援に向かった弁天台場は、四日後の五月十五日、永井尚志以下二百四十名で降伏しました。その日、相馬主計が新選組最後の隊長に選ばれています。
新選組隊士全456名情報

