八木邸跡
近藤勇・芹沢鴨・土方歳三らが会津藩お預かりの新選組を結成した時に屯所としたのが八木邸です。当初は近藤派と芹沢派に割れていた新選組だが、土方らの策略により「芹沢鴨」は暗殺され派閥争いは解消されました。
この芹沢暗殺が実行されたのが八木邸です。以降、新選組が西本願寺へ屯所を移すまでの約3年をここで過ごしました。なお、日増しに増える隊士のため八木邸だけでは手狭になり、通りを隔てた反対側の旧前川邸なども間借りしていました。
近藤・土方率いる新選組は最盛期には隊士が300人近くにのぼり、西本願寺への屯所移設を余儀なくされました。しかし、西本願寺へ移った後も近藤や土方は八木邸を洋式訓練場にあてるなど、深いつながりを持ち続けたようです。
なお、郷士八木家は但馬国の「八木安高」により起こった家系で「源頼朝」より「三つ木瓜」の家紋を拝領したと伝わっています。
文久三年二月二十三日に壬生村へ入った浪士組
京都市が公開している講演記録によりますと、江戸で募られた浪士組は文久三年二月二十三日に京都へ入り、壬生村に宿を取りました。募集の定員は五十人でしたが実際には二百三十四人が集まり、そのため三百人組とも呼ばれたと記されています。清河八郎の思惑を知った幕府が一同を江戸へ帰したのち、京都に残った者たちが京都守護職お預かりの壬生浪士組を名乗りました。新選組という隊名を得た時期には諸説あり、京都府観光連盟は文久三年三月十六日に八木家の右門柱へ松平肥後守御領新選組宿という表札が掲げられたとし、京都市は八月十八日の政変での働きを認められて武家伝奏から隊名をもらったとしています。
文化元年の長屋門と文化六年の主屋
八木家は壬生村きっての旧家で、壬生郷士の長老をつとめた家柄です。当家に残る普請願から、長屋門は文化元年、主屋は文化六年の造営と分かっています。主屋は西端の土間を奥まで通し、東南隅に式台を備えた本玄関を置いて、その奥に仏間と奥座敷を一列に並べる格式ある構成です。幕末期の遺構として、また新選組ゆかりの建築として貴重であることから、昭和五十八年六月一日に京都市指定有形文化財となりました。京都府観光連盟は、奥座敷の鴨居に残る刀傷が内部抗争で芹澤鴨らが暗殺された際についたものだと説明しています。
平成十二年に十五代当主が建てた石標
京都市の石碑の記録によりますと、壬生梛ノ宮町の現地には新選組屯所遺蹟と刻んだ石標が建ち、その西面には平成十二年季秋、十五代当主八木喜久間建之、仲山龍潤書と彫られています。八木家は今も同じ地で御菓子司京都鶴屋を営んでおり、隊士たちが寝起きした座敷を拝観することができます。
壬生寺と壬生狂言
壬生寺 八木邸のすぐ近くにある壬生寺は、新選組が兵法や砲術の稽古の場として使った寺です。境内の「壬生塚」には、近藤勇の胸像や、新選組の隊士たちの墓・慰霊塔が並んでいます。
壬生狂言 壬生寺は、鎌倉時代から伝わる「壬生狂言」でも知られます。仏の教えを、せりふのない身振りだけの劇で伝えるもので、国の重要無形民俗文化財に指定されています。春と秋、節分の時期に公開され、鉦と太鼓の「カンデンデン」という音から、京都の人々に「壬生さんのカンデンデン」と親しまれてきました。新選組の隊士たちも、この音を聞きながら暮らしていたのです。
八木邸の現地を歩いた記録
壬生の八木邸は、当サイトの運営者が実際に訪ねて撮影しています。
芹沢鴨が斬られた部屋が残っていること、鴨居に刀の跡があることは、写真で見ていただくのが早いと思います。写真はすべて現地で撮影したものです。
この家から始まった隊の、その後
八木邸は新選組が屯所としていた家です。当サイトでは新選組隊士を百二十五本の記事で扱っていて、隊士一人ずつの経歴をたどれます。
ここで生まれた隊は、池田屋、禁門の変、鳥羽伏見を経て、最後は箱館まで行きます。八木邸という一軒の家から、北海道までの道のりが始まったことになります。隊士の一覧は新選組隊士全四百五十六名情報から辿れます。
場所・アクセス・地図
〒604-8821 京都府京都市中京区壬生梛ノ宮町24

