本間精一郎暗殺とは—越後の志士はなぜ同じ尊王攘夷派に斬られたのか。岡田以蔵・田中新兵衛と「天誅」のはじまり

木屋町の路地、本間精一郎暗殺(イメージイラスト)

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文久2年(1862)閏8月20日の夜、京都・木屋町の路地で、越後出身の志士・本間精一郎が斬られました。斬ったのは、「人斬り」と呼ばれた土佐の岡田以蔵や薩摩の田中新兵衛らだったといわれます。本間の首は四条河原(三条河原とも伝わります)にさらされました。

本間は藩に属さない浪士として、尊王攘夷の運動の最前線にいた人物です。その本間が、なぜ同じ尊王攘夷派の手で殺されたのか。京都で「天誅」が吹き荒れる始まりとなった事件の一つをたどります。

目次

先に答え—本間精一郎暗殺とは

いつ 文久2年(1862)閏8月20日の夜(21日とする資料もあります)
どこで 京都・木屋町四条上る(いまの京都市中京区)。先斗町で遊んだ帰り道でした。遭難の碑が立っています
誰が 土佐の岡田以蔵、薩摩の田中新兵衛らとされます。土佐と薩摩の尊王攘夷の急進派によるものと考えられています
誰を 越後寺泊出身の浪士・本間精一郎(数え29歳)
なぜ 激しい言動が公家を脅かし、同志の反感や「裏切り者」という疑いを買ったため
その後 首は四条河原(三条河原とも)にさらされました。大正13年(1924)、国から位を贈られています

本間精一郎はどんな人だったのか

本間精一郎は天保5年(1834)、越後国寺泊(いまの新潟県長岡市)の豪商の家に生まれました。家は酢や醤油をつくる商家だったといわれます。

嘉永6年(1853)に江戸へ出て、幕府の勘定奉行・川路聖謨に仕え、昌平黌(幕府の学問所)では儒学者の安積艮斎に学びました。安積艮斎は、大河ドラマ『逆賊の幕臣』の主人公・小栗忠順の少年時代の師でもあります(安積艮斎とは何をした人物か)。

安政5年(1858)、川路に従って京都へ上った本間は、尊王攘夷の志士たちと交わるようになります。安政の大獄で一時投獄されたのち、藩に属さない浪士として、青蓮院宮家に出入りし、長州・四国・九州を遊説して回りました。好んで長い刀を差し、派手な身なりをしていたとも伝えられます。

なぜ本間は「味方」に斬られたのか

藩に属さない本間は、どこにも縛られずに動ける身でした。その分、言葉や行動は激しく、公家の屋敷にも出入りして強い調子で意見を述べたといわれます。

文久2年4月、薩摩藩の島津久光が尊王攘夷の急進派を抑えた寺田屋騒動で、急進派の動きはいったん挫かれます。そのころから本間は酒色におぼれるようになったともいわれ、同じ尊王攘夷派の中から、「口先ばかりで信用できない」「幕府に通じているのではないか」といった疑いや反感が向けられるようになりました。

このころ京都では、土佐勤王党や薩摩の急進派が、政敵や「裏切り者」と見なした相手を「天誅」と称して殺す事件が始まっていました。本間は、そうした天誅の早い時期の犠牲者の一人です。

木屋町の路地で何が起きたのか

木屋町の路地、本間精一郎暗殺(イメージイラスト)
木屋町の路地、本間精一郎暗殺(イメージイラスト)

閏8月20日の夜、本間は先斗町で遊んだ帰り道でした。木屋町四条上るの路地にさしかかったところで、待ち伏せていた刺客たちに襲われます。本間は南の細い路地(瓢箪路地)を抜けて木屋町通へ逃げようとしましたが、はさみ撃ちにされて斬られました。

実行犯は、土佐の岡田以蔵と薩摩の田中新兵衛らだったといわれます。岡田以蔵は武市半平太の土佐勤王党の剣士、田中新兵衛はのちに姉小路公知暗殺の疑いをかけられて自刃する人物です(姉小路公知暗殺(朔平門外の変))。本間の首は鴨川の河原(四条河原とも三条河原とも伝わります)にさらされ、遺体は高瀬川に投げこまれたとも伝えられます。現場の近くの建物の柱には、このときのものと伝わる刀傷がいまも残っています。

事件が示したもの—「天誅」の時代の始まり

本間の暗殺のあと、京都では天誅と称する殺害が相次ぎました。幕府側の役人や、公武合体に協力した者たちが次々に狙われ、さらされた首には罪を並べた張り紙が添えられました。土佐藩では、同じ年の4月に参政・吉田東洋が勤王党に斬られています(吉田東洋暗殺)。

やがて天誅を行った側も追いつめられていきます。岡田以蔵は土佐に送り返されて慶応元年(1865)に処刑され、田中新兵衛は文久3年に自刃しました。思想のために人を斬ることが正しいとされた時代は、斬った者にも重い代償を求めたのです。

本間精一郎ゆかりの地

  • 本間精一郎遭難之地(京都市中京区木屋町通四条上る):石碑が立ち、近くの柱には刀傷が残っています。近くには佐久間象山・大村益次郎の遭難の碑もあります(【現地取材】佐久間象山・大村益次郎 遭難の地)。
  • 寺泊(新潟県長岡市):本間の生まれた港町。

▶ この事件を起こした側の人物

✎ 筆者のひとこと

本間を斬ったのは幕府ではなく、同じ尊王攘夷を唱える仲間でした。敵よりも、考えの合わなくなった仲間が先に狙われる—そこに「天誅」の怖さがあると思います。

この時代は、勝手に噂が流れ、気に入らなければそれだけで斬ってしまう時代でした。私などは、すぐにあの世行きだったでしょう。

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