新選組の年表—文久三年の壬生浪士組から明治二年の箱館まで

京都から北の海へ続く道を進む新選組隊士たちの俯瞰図(新選組の年表のイメージイラスト)

文久三年(1863)に京都の壬生で生まれ、明治二年(1869)に箱館で終わった新選組。その七年足らずの歩みを、一つの年表にまとめました。「詳しく読む」の欄から、それぞれの出来事を扱った記事に進めます。隊士一人ひとりについては新選組隊士全456名情報からどうぞ。

目次

文久三年(1863)—壬生浪士組の誕生

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二月清河八郎の浪士組が京都に入る。近藤勇・芹沢鴨らが加わっている新選組とは何者だったのか
三月浪士組の多くが江戸へ戻るなか、芹沢派・近藤派らが京都に残り、会津藩お預かりの「壬生浪士組」となる。三月二十五日、殿内義雄が四条大橋で斬られる芹沢鴨と水戸派の最期
四月家里次郎が大坂で切腹させられる切腹・粛清一覧
八月十日、佐伯又三郎が嶋原で斬られる。十八日の政変で御所の警備に出動し、このころ「新選組」の名を与えられたとされる佐伯又三郎
九月十三日ごろ新見錦が切腹。十六日(十八日説も)、芹沢鴨・平山五郎が八木邸で斬られる。二十六日、長州の間者とされた御倉伊勢武らが斬られる壬生・八木邸(現地取材)
十二月二十七日、水戸派で最後に残った野口健司が切腹野口健司

元治元年(1864)—池田屋と禁門の変

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六月五日池田屋事件。三手に分かれた三十四人が出動し、新選組の名が広まる池田屋騒動の跡(現地取材)・出動した隊士
七月十九日、禁門の変。二十一日、天王山で真木和泉らを追い詰める禁門の変と新選組
十一月組長・伍長を置く小隊の編成が整う組織と役職

慶応元年(1865)〜慶応二年(1866)—西本願寺の時代

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元治二年二月総長・山南敬助が脱走の末に切腹光縁寺に眠る新選組隊士たち
元治二年三月屯所を壬生から西本願寺へ移す(慶応と改元されるのは同年四月七日のため、慶応元年三月と書く資料もあります)屯所の移り変わり
慶応二年二月勘定方・河合耆三郎が切腹切腹・粛清一覧
慶応二年九月十二日、三条制札事件。三条大橋の高札を引き抜こうとした土佐藩士を討つ三条制札事件

慶応三年(1867)—分裂と幕臣への取り立て

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三月伊東甲子太郎らが新選組を離れ、御陵衛士(高台寺党)を結成油小路事件
六月十日、新選組が幕臣に取り立てられる。十四日、これに反対した茨木司ら四人が会津藩邸で自刃。十五日、不動堂村の屯所へ移る茨木司・屯所の移り変わり
十一月十八日、油小路事件。伊東甲子太郎と御陵衛士の藤堂平助・服部武雄・毛内有之助が斬られる龍馬暗殺と新選組・油小路事件
十二月王政復古ののち伏見奉行所に入る。十八日、近藤勇が伏見街道で撃たれ重傷鳥羽伏見の戦いと新選組

慶応四年・明治元年(1868)—戊辰戦争

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一月三日〜六日、鳥羽伏見の戦い。五日、淀千両松で井上源三郎が戦死。幕府の軍艦で江戸へ鳥羽伏見の戦いと新選組
三月甲陽鎮撫隊として甲州へ。六日、勝沼で敗れる。永倉新八・原田左之助が隊を離れる近藤勇、最後の百日
四月三日、流山で近藤勇が出頭。二十五日、板橋で斬首近藤勇、最後の百日・板橋(現地取材)
四月〜八月宇都宮で土方が負傷し会津で療養。斎藤一が隊を率いて白河口・母成峠で戦う会津の新選組
八月〜九月土方は仙台へ、斎藤は会津に残る。九月四日、如来堂の戦い。九月二十二日、会津藩が降伏会津の新選組
十月土方らが仙台から榎本艦隊で蝦夷地へ渡る箱館の新選組

明治二年(1869)—箱館、そして終わり

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三月宮古湾海戦で野村利三郎が戦死野村利三郎
四月二股口の戦いで土方が新政府軍を食い止める箱館の新選組
五月十一日、土方歳三が一本木関門のあたりで戦死。十五日、弁天台場の新選組が降伏し、相馬主計が恭順の書状に署名する。十八日、五稜郭が降伏箱館の新選組・相馬主計

年表を読み解く—七年間の新選組を貫くもの

名前の移り変わり

わずか七年足らずのあいだに、新選組は何度も名前を変えています。名前の変わり目は、そのまま隊の立場の変わり目でもありました。

時期名乗り立場
文久三年二月浪士組将軍上洛の警護のために幕府が集めた浪士の一員
文久三年三月〜壬生浪士組京都に残り、会津藩の預かりとなる
文久三年八月の政変のあと新選組政変での働きを受けて名を与えられ、京都の治安を担う
慶応三年六月新選組(幕臣)隊ごと幕府の家臣に取り立てられる
慶応四年三月甲陽鎮撫隊甲府城を押さえるために甲州へ向かう
慶応四年〜明治二年新選組会津、ついで箱館政権の一部隊として戦う

浪士の集まりから、藩の預かり、幕府の家臣、そして敗れた側の一部隊へ。名前の移り変わりをたどるだけでも、新選組が時代の流れにどう乗り、どう押し流されていったかが見えてきます。

三つの転機

年表を通して見ると、新選組の歩みには大きな転機が三つあります。

一つ目は元治元年六月の池田屋事件です。名もない浪士の集まりだった新選組は、この一夜で天下に名を知られるようになりました。その年の秋には江戸で大がかりな隊士募集が行われ、隊は一気に大きくなります。

二つ目は元治二年三月、屯所を壬生から西本願寺へ移したことです。慶応への改元は同年四月七日なので、慶応元年三月と書かれることもあります。隊士が増え、組織が整えられる一方で、隊の規律はいっそう厳しくなり、切腹や粛清が相次ぎました。「同志の集まり」が「上下のある組織」に変わっていった時期です。

三つ目は慶応三年です。三月に伊東甲子太郎らが御陵衛士として分かれ、六月には隊ごと幕臣に取り立てられ、十月には大政奉還、十一月には油小路事件が起こります。新選組が幕府の家臣として頂点に立ったその年に、幕府そのものが終わりを迎えました。翌年からの戊辰戦争は、この三つ目の転機の続きだったといえます。

隊を率いた人の移り変わり

時期隊を率いた人
文久三年三月〜九月芹沢鴨(筆頭局長)・近藤勇・新見錦の三局長
文久三年九月〜慶応四年四月近藤勇(局長)、土方歳三(副長)
慶応四年四月〜八月ごろ土方歳三。宇都宮での負傷後、会津では斎藤一が隊を率いる
慶応四年秋〜明治二年五月箱館では土方が陸軍奉行並となり、隊は森常吉ら頭取が率いる
明治二年五月土方の戦死後、相馬主計が隊長として降伏

近藤が局長を務めたのは四年半ほどで、残りの一年あまりは、近藤のいない新選組でした。隊を率いる人が変わるたびに、隊士の顔ぶれも大きく入れ替わっています。

日付を読むときの注意

この年表の日付は、当時使われていた旧暦(太陰太陽暦)によるものです。いまの暦に直すと、およそ一か月から一か月半ほど後になります。たとえば池田屋事件の元治元年六月五日は西暦では1864年7月8日、近藤勇が処刑された慶応四年四月二十五日は1868年5月17日、土方歳三が戦死した明治二年五月十一日は1869年6月20日にあたります。

また、「明治」への改元は慶応四年九月八日に行われ、その年の一月一日にさかのぼって明治元年とされました。そのため、同じ年の出来事が「慶応四年」とも「明治元年」とも書かれます。資料によって書き方が違うのはこのためです。

そのあとの隊士たち

明治になってからも、隊士たちの人生は続きました。斎藤一は警視庁に勤めて大正まで生き、永倉新八は晩年に新選組の思い出を語り残しました。一方で大石鍬次郎は伊東甲子太郎殺害の罪で斬首され、相馬主計は東京で自ら命を絶ったと伝わります。隊士たちが眠る場所は新選組の墓所めぐりにまとめています。

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この年表は、サイト内の各記事の内容をもとにまとめたものです。日付には諸説があるものを含みます。

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