松本捨助【新選組隊士 隊長附 幕末】

多摩の農村を木刀を担いで歩く若者
松本捨助
職名 隊長附
出身 武州多摩郡本宿村(府中市)
終焉場所 東京(晩年は八王子で暮らす)
終焉方法 病没
多摩・本宿村の名主の長男で、土方歳三の縁者です。 長男だからと二度も入隊を断られ、慶応三年にようやく新選組に入りました。 鳥羽伏見・甲州勝沼を戦い、会津で土方に隊を離れるよう命じられ、大正まで生きました。
目次

松本捨助をもっと深く—二度断られて入った、土方の縁者

新選組に入りたいと願いながら、「長男だから」という理由で何度も断られた若者がいました。土方歳三の縁者、松本捨助です。

本宿村の名主の長男

弘化二年(1845)四月二十四日、武蔵国多摩郡本宿村(いまの東京都府中市本宿)の名主・松本友八の長男として生まれました。近藤勇の道場で天然理心流を学んでいます。

二度断られた入隊

文久三年(1863)、近藤や土方歳三が浪士組に加わって上京するとき、捨助も加わろうとしましたが、家族に反対されてあきらめました。同じ年の十一月には新選組への入隊を願い出ますが、家を継ぐ長男であるという理由で断られます。

その後、親を説き伏せ、慶応三年(1867)にようやく入隊が認められました。

鳥羽伏見から会津へ

慶応四年の鳥羽・伏見の戦い、甲州勝沼の戦いに加わりました。そして会津での戦いのさなか、土方から隊を離れるよう命じられます。家を継ぐべき縁者を、最後まで連れて行くわけにはいかない—そんな土方の思いがあったとも考えられます。

明治・大正を生きる

維新ののちは愛知で米屋を営み、晩年は八王子で暮らしました。大正七年(1918)四月六日に満七十二歳(数えで七十四歳)で亡くなり、故郷・府中の本宿共同墓地に葬られています。

松本捨助の歩みを年表で

年できごと
弘化二年(1845)四月二十四日武蔵国多摩郡本宿村の名主・松本友八の長男として生まれる
若いころ近藤勇の道場で天然理心流を学ぶ
文久三年(1863)一月浪士組に加わろうとするが、家族に反対されてあきらめる
文久三年十一月京都へ上って入隊を願うが、長男であるため断られる
慶応三年(1867)親を説き伏せて新選組に入る。八番組に属する
慶応四年(1868)一月・三月鳥羽・伏見の戦い、甲州勝沼の戦いに加わる
慶応四年会津の戦いのあと、仙台で土方歳三から隊を離れるよう命じられる
明治愛知で米屋を営む。晩年は八王子で暮らす
大正七年(1918)四月六日死去。府中の本宿共同墓地に葬られる

松本捨助を読み解く

多摩の名主の家と新選組

近藤勇と土方歳三は、多摩の農村で育った人たちです。二人を支えたのは、日野の佐藤彦五郎や小野路の小島鹿之助のような、名主や豪農の家でした。松本捨助の家も、府中の本宿村の名主です。こうした家々は、道場で天然理心流を学ぶ若者を送り出し、京都の新選組に金や物を送って支えました。捨助は、その支える側の家の跡取りでした。

「長男だから」の意味

江戸時代の農村で、名主の家の長男は家と村を継ぐ大事な立場です。京都で命のやりとりをする新選組に長男を入れることは、家を絶やしかねません。近藤や土方が二度も入隊を断ったのは、捨助の家や、支えてくれる多摩の人々への配慮だったと考えられます。捨助が入隊できた慶応三年は、新選組が幕臣に取り立てられた年でした。隊が幕府の正式な家臣になったことも、家族を説き伏せる材料になったのかもしれません。

会津で帰された理由

土方が会津で捨助に隊を離れるよう命じたのも、同じ理由からだと考えられます。この先はさらに厳しい戦いになる、家を継ぐ者は帰すべきだ—土方はほかにも、若い隊士や家族のある者を途中で帰しています。捨助は土方の気づかいによって生きのび、大正時代まで生きました。土方との関わりは土方歳三のページもご覧ください。

ゆかりの地を訪ねるなら

府中の本宿は、甲州街道の宿場に近い農村でした。日野・調布など、多摩には新選組ゆかりの地が多く残っています。多摩の出身者が学んだ天然理心流については新選組隊士の剣術流派にまとめています。

松本捨助と多摩の人々をさらに掘り下げる

試衛館の中心は「跡取りでない者」だった

捨助が「長男だから」と入隊を断られたことは、新選組の中心にいた人たちの生まれと並べてみると、よりはっきりした意味を持ちます。

人物生まれた家での立場
近藤勇多摩・上石原村の宮川家の三男。近藤家の養子となる
土方歳三日野・石田村の土方家の末っ子
沖田総司白河藩士の家の男子だが、家は姉の夫が継ぐ
松本捨助本宿村の名主の長男(跡取り)

近藤も土方も沖田も、生まれた家を継ぐ立場にはありませんでした。だからこそ、家を離れて京都へ上り、命をかける道を選ぶことができたともいえます。跡取りの捨助は、その「自由」を持たない立場でした。村の名主の家を継ぐ長男が命を落とせば、家も村も困ります。近藤や土方が捨助の入隊を渋ったのは、多摩の村の事情をよく知る者どうしとしての、当然の判断だったのでしょう。

新選組を支えた多摩の名主たち

新選組は、多摩の名主や豪農の支えなしには成り立ちませんでした。日野宿の名主・佐藤彦五郎は土方の姉の夫で、自宅に天然理心流の道場を開き、京都の近藤・土方に資金や物を送り続けました。小野路村の名主・小島鹿之助も近藤と親しく、近藤が京都から送った手紙の多くが小島家に伝わっています。

本宿村の名主の家に生まれた捨助も、こうした多摩の名主の家の一員でした。京都へ上る隊士を送り出し、支える側の家の跡取りが、自ら隊士になろうとしたのです。捨助の入隊は、支える側から戦う側へと一歩踏み出したものだったといえます。

甲州へ向かう道で、故郷を通った

慶応四年三月、近藤勇の率いる甲陽鎮撫隊は、江戸から甲州街道を西へ進みました。府中・日野は、まさにその道筋にあります。近藤や土方にとっては故郷に錦を飾る行軍でもあり、日野では佐藤彦五郎が農兵を集めて隊に加わりました。

捨助もまた、生まれ育った本宿の近くを隊士として通ったはずです。二度も入隊を断られた若者が、隊の一員として故郷の道を行く。その晴れがましさは、わずか数日後の勝沼の敗戦で打ち砕かれることになりました。甲州での戦いは近藤勇、最後の百日にまとめています。

松本捨助と関わりの深い人たち

  • 土方歳三—縁者。会津で捨助に隊を離れるよう命じました。
  • 近藤勇—天然理心流の師。

ゆかりの地

  • 本宿(東京都府中市):生まれ育った村。墓所の本宿共同墓地もここにあります。
  • 日野(東京都日野市):土方歳三の故郷。本宿からも近い多摩の村です。

参考にした資料:Wikipedia「松本捨助」、新選組の名簿類。

甲陽鎮撫隊の敗戦から板橋までの近藤勇の道筋は、近藤勇、最後の百日—甲陽鎮撫隊・勝沼の敗戦から流山の出頭、板橋の刑場までに日付の順でまとめています。

四年越しの入隊

この人のいちばんの特徴は、あきらめの悪さです。文久三年に浪士組が募られたとき、松本は二度も志願して二度断られています。多摩の名主の家の跡取りだったため、家の側が許さなかったとも、近藤たちが止めたとも伝わります。それでも京都へ出て、ようやく隊に加わったのは慶応三年でした。最初に志願してから四年が経っていたことになります。

入隊してから隊が解けるまでは一年ほどです。鳥羽伏見、甲州勝沼と戦い、会津のあと仙台で土方歳三から暇を出されました。多摩の若者が憧れを追いかけて京都へ行き、四年かけて隊に入り、一年で帰ってきたことになります。維新後は愛知で米屋を営み、晩年は八王子で暮らしました。

新選組をもっと知る本

多摩から近藤・土方を追いかけた松本捨助は、明治以後も故郷で二人の思い出を語り続けました。永倉新八『新撰組顛末記』と子母澤寛『新選組始末記』は、その多摩側の記憶とも響き合います。

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