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| 新見 錦 | |||
| 職名 | 副長 | ||
| 出身 | 水戸 | ||
| 終焉場所 | 京都 | ||
| 終焉方法 | 切腹 | ||
入隊前より芹沢らと交流。文久三年に浪士組に加わって上洛しました。その後芹沢らとともに新選組を結成し局長となります。しかし祖業が不良だったために途中で副長に降格されました。芹沢派の力をそぐために祇園屋で近藤、土方らに切腹させられました。

芹沢派の副長
新見錦は、新選組の前身である壬生浪士組の草創期に、芹沢鴨とともに水戸系の一派を率いた古参で、副長の地位にありました。神道無念流を学んだ剣客で、隊の初期にあって芹沢に次ぐ立場を占めていました。
粛清の始まり
しかし、素行の悪さや隊の規律を乱す振る舞いを咎められ、1863年(文久三年)、近藤・土方らによって切腹に追い込まれました。芹沢鴨の暗殺に先立って行われたこの処分は、近藤・土方が隊の主導権を握っていく過程の第一歩でもありました。新選組が統制ある組織へと変わっていく転機を象徴する人物です。
実在そのものが問われている人です
新見錦は壬生浪士組の草創期の幹部とされますが、同じ時代の史料への現れ方が極端に少なく、実在を疑う声があります。屯所だった八木家の八木為三郎は、新見について「まるきり覚えがありません」「いつの間にかいなくなっていた」と語りました。水戸藩を脱したと称しているものの、水戸藩の史料に名が見あたりません。
田中伊織と同じ人か
西村兼文の『新撰組始末記』には新見錦の名がまったく出てこず、かわりに田中伊織という人物が壬生浪士の創設の一人として記され、近藤の意に沿わないところがあったので闇討ちにされた、と書かれています。田中伊織の墓石には「文久三年九月十三日卒」と刻まれ、壬生寺の、芹沢鴨や平山五郎ら水戸派と同じ場所に葬られています。死んだ日の近さと葬られた場所の一致から同じ人ではないかといわれますが、推し量りの域を出ません。壬生寺の案内も、田中伊織の説明のなかで「新見錦の変名であるという説もある」と記すにとどめています。
新家粂太郎という説もあります
近ごろは、水戸浪士の新家粂太郎こそが本体で、新見錦はその者が名のった別名だとする説が出ています。文久三年五月に水戸藩士の吉成勇太郎と連署した借用書が残っていること、同じ年の六月十六日に攘夷監察使の陪従として長州へ下った際に酒の上の不始末を起こし、九月十五日に切腹したとされること、そのときの数え年二十八歳が新見の推し量られる年齢と合うこと、が根拠です。ただしこの説は新聞で紹介されたもので、元の記事を確かめることはできませんでした。
局長か、副長か
はじめ芹沢・近藤とともに局長で、のちに副長へ降ろされたという理解が一般的ですが、永倉新八の『浪士文久報国記事』は土方歳三・山南敬助と並べて副長として記しており、はじめから副長だったとも読めます。死んだ日も、九月十五日とするもの、九月十三日とするもの、永倉の別の記述では八月十四日か十五日とするものがあり、定まりません。切腹の経緯も、祇園新地の貸座敷「山緒」で詰め腹を切らされたという話、四条木屋町での狼藉を咎められたという話、水戸浪人への乱暴が理由で梅津某の介錯により切腹したという話に分かれます。
文久三年に芹沢鴨の一派と、長州の間者とされた隊士たちがどう消えていったかは、芹沢鴨と水戸派の最期—文久三年、壬生浪士組から消えた人々に年表でまとめています。
新見錦の生きた時代—尊王攘夷の本場・水戸
水戸学の国 新見錦は水戸の出身で、同じ水戸出身の芹沢鴨とともに壬生浪士組の中心にいた人物です。水戸藩は、徳川光圀以来の『大日本史』の編纂から生まれた「水戸学」の本場で、天皇を尊び外国を打ち払うという尊王攘夷の考えを全国に広めました。藩主の徳川斉昭は、その旗頭でした。
芹沢派の最期 浪士組の中で、水戸出身の芹沢・新見らと、近藤勇ら試衛館の一派は、やがて主導権を争うようになります。文久三年(1863)九月、新見は隊の掟に背いたとして切腹させられ、その数日後には芹沢も暗殺されました。こののち新選組は近藤・土方の体制となっていきます(新選組の年表)。
新見錦がいたころの隊と、水戸の天狗党
壬生浪士組の顔ぶれ
新見錦が局長の一人だった文久三年、壬生浪士組の主な顔ぶれは次のとおりです。発足したときの隊士はおよそ二十四人、第一次の募集のあとでも三十六人あまりという小さな集まりでした。
- 局長:芹沢鴨、近藤勇、新見錦
- 副長:土方歳三、山南敬助
- 副長助勤:沖田総司、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、斎藤一、平山五郎、平間重助、野口健司 ほか
故郷の水戸で起きたこと
新見と芹沢鴨の故郷・水戸藩では、新見の死の翌年の元治元年三月、藤田東湖の子・藤田小四郎らが筑波山で兵を挙げました。天狗党の乱です。天狗党は武田耕雲斎を首領に仰いで京都を目指しましたが、越前で加賀藩に降り、慶応元年二月、敦賀で三百五十人余りが処刑されました。尊王攘夷を最も早く唱えた水戸藩は、藩内の争いで多くの人材を失っていきます。
参考資料:Wikipedia日本語版「新見錦」「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。
新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)
◀ 前の隊士:土方歳三(副長)
次の隊士 ▶:伊東甲子太郎(参謀)
新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)



