【現地取材】会津若松城(鶴ヶ城)と会津藩 ― 一ヶ月の籠城に耐えた「朝敵」の城

福島県会津若松市の中心に、白亜の天守が赤い瓦を頂いてそびえる会津若松城――通称「鶴ヶ城(つるがじょう)」。戊辰戦争では、この城を舞台におよそ一ヶ月におよぶ壮絶な籠城戦が繰り広げられました。「朝敵」の汚名を着せられながらも、最後まで戦い抜いた会津藩の意地が、今もこの城には宿っています。飯盛山の白虎隊とあわせて、会津の戊辰をたどる現地取材です。

目次

会津松平家の城 ― 保科正之から松平容保へ

鶴ヶ城は、戦国末期に蒲生氏郷(がもう うじさと)が七層の天守を持つ壮麗な近世城郭に築き上げ、「鶴ヶ城」と名づけた城です。江戸時代には、三代将軍・徳川家光の弟である保科正之(ほしな まさゆき)以来の会津松平家二十三万石の居城となりました。会津藩は、正之が定めた家訓によって徳川将軍家への絶対の忠誠を代々の藩是とした、屈指の親藩です。

幕末、藩主松平容保(まつだいら かたもり)京都守護職を引き受け、新選組を配下に京都の治安を守り、朝廷と幕府に誠実に尽くしました。しかし皮肉にも、その徳川への忠義こそが、明治維新後には新政府から「朝敵」の筆頭とみなされる理由になってしまうのです。

会津戦争 ― 一ヶ月の籠城

慶応四年(一八六八年)八月二十三日、母成峠(ぼなりとうげ)を突破した新政府軍が、ついに会津若松の城下へなだれ込みました。会津藩は鶴ヶ城に籠城し、ここから約一ヶ月にわたる籠城戦が始まります。城は連日の激しい砲撃に耐え、藩士だけでなく、山本八重(のちの新島八重)が銃を取って戦い、中野竹子らの娘子軍(じょうしぐん)が奮戦するなど、女性や少年までもが城の防衛に加わりました。

しかし頼みの援軍は絶たれ、隣の米沢藩仙台藩も次々と降伏。孤立無援となった会津藩は、九月二十二日、ついに開城します。力で攻め落とされたのではなく、戦い抜いたすえに力尽きての降伏でした。城は明治七年(一八七四年)に取り壊されましたが、昭和四十年(一九六五年)に天守が復元され、平成二十三年(二〇一一年)には幕末当時と同じ赤瓦に葺き替えられて、今の姿になっています。

天守からの眺めと石垣を歩いて

復元された天守にのぼると、会津盆地とそれを囲む山々が一望でき、白虎隊が最期に城を見つめた飯盛山の方角も見渡せます。少年たちが「城が燃えている」と誤認して自刃したのも、この眺めのどこかでした。天守台を支える野面積み(のづらづみ)の石垣は蒲生時代のもので、復元された白い天守とは対照的に、戦国から幕末までを見つめてきた本物の重みをたたえています。華やかな天守の美しさの奥に、一ヶ月の籠城と多くの犠牲の記憶が静かに横たわっている――そんなことを感じた現地取材でした。

天守台を支える野面積みの石垣。蒲生氏郷の時代から城を支える
天守台を支える野面積みの石垣。蒲生氏郷の時代から城を支える
鶴ヶ城天守を背に。赤瓦の白亜の城は会津のシンボル
鶴ヶ城天守を背に。赤瓦の白亜の城は会津のシンボル

会津若松城(鶴ヶ城)へのアクセス・地図

鶴ヶ城はJR会津若松駅からバスなどでアクセスでき、鶴ヶ城公園として整備されています。天守内部は郷土博物館として公開され、最上階は展望層になっています。

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