2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)は、幕末の幕臣・小栗忠順が主人公です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。
幕末・明治の暗殺事件 特集:桜田門外の変から伊藤博文暗殺まで、19の事件を年表とともにまとめています。▶ 暗殺事件の特集を見る
文久2年(1862)4月8日の夜、土佐藩の参政(藩の政治の責任者)・吉田東洋が、高知城下で斬られました。斬ったのは、武市半平太が率いる土佐勤王党の那須信吾・安岡嘉助・大石団蔵の3人です。坂本龍馬が土佐を脱藩したのは、そのわずか半月ほど前のことでした。
東洋は、のちに土佐藩を動かす後藤象二郎や板垣退助、三菱をつくる岩崎弥太郎を見いだした人物です。その改革者が、なぜ同じ藩の若者たちに討たれたのかをたどります。
先に答え—吉田東洋暗殺とは
| いつ | 文久2年(1862)4月8日の夜 |
|---|---|
| どこで | 土佐・高知城下(いまの高知市帯屋町のあたり) |
| 誰が | 土佐勤王党の那須信吾・安岡嘉助・大石団蔵 |
| 誰を | 土佐藩参政・吉田東洋(数え47歳) |
| なぜ | 藩を尊王攘夷でまとめたい武市半平太らにとって、公武合体の立場で藩政を握る東洋が最大の壁だったため |
| 結果 | 東洋派は退けられ、土佐勤王党が一時藩の主導権を握ります。のちに山内容堂が勤王党を弾圧し、武市は切腹しました |
吉田東洋はどんな人だったのか
東洋は文化13年(1816)、土佐藩の上士の家に生まれました。藩主・山内容堂(豊信)に取り立てられて参政となり、藩政改革を進めます。一度は失脚して城下を離れ、その間に開いた塾(少林塾)には、後藤象二郎、福岡孝弟、岩崎弥太郎らが集まりました。
復職した東洋は、身分にとらわれず人材を引き上げ、西洋の技術を取り入れて藩を富ませようとしました。立場としては、幕府と朝廷が手を結ぶ「公武合体」に近く、容堂の考えとも重なっていました。
なぜ東洋は狙われたのか
このころ、武市半平太は土佐勤王党をつくり、藩をあげて尊王攘夷に動くよう訴えていました。勤王党に集まったのは、郷士や庄屋など、上士から低く見られていた身分の者が中心でした。
しかし東洋は、武市の訴えを受け入れませんでした。藩の実権を握る東洋がいるかぎり、勤王党の考えは藩に通らない。そう考えた武市らは、東洋を除くことを決めます。藩内で東洋に反感を持つ保守派の重臣たちも、これを黙認したとされます。
雨の夜、城下で何が起きたのか

4月8日の夜、東洋は城で藩主・山内豊範に『日本外史』を講義したあと、雨の中を帰宅の途につきました。その途中で、待ち伏せていた那須信吾ら3人が斬りかかります。東洋も刀を抜いて応戦しましたが、討たれました。
東洋の首は持ち去られ、のちに城下の雁切河原にさらされて、罪を並べた斬奸状が添えられたと伝えられます。3人はそのまま土佐を脱藩し、長州へ逃れました。
事件のあと、土佐藩はどう動いたのか
東洋が死ぬと、東洋派の役人は退けられ、勤王党に近い者たちが藩の中枢に入りました。武市は藩主の上洛に従って京都へ上り、他藩の志士や公家と結んで、一時は京都の政局を動かすほどの力を持ちます。
しかし、文久3年(1863)の八月十八日の政変で尊王攘夷派が京都から追われると、流れは一変します。もともと東洋を重んじていた山内容堂は、勤王党への弾圧を始めました。武市は投獄され、東洋暗殺の責任も問われて、慶応元年(1865)に切腹を命じられます(【現地取材】武市半平太ゆかりの地を歩く)。実行犯の那須信吾は、天誅組の変に加わって戦死しました。
東洋が育てた後藤象二郎は、のちに大政奉還の建白を進め、坂本龍馬と手を組みます。東洋が見いだした人材が、結局は幕末の土佐藩を動かすことになりました。
吉田東洋ゆかりの地
- 吉田東洋遭難の地(高知市帯屋町):碑が立っています。
- 吉田東洋の墓(高知市)
- 高知城(高知市丸ノ内):東洋が講義を終えて出た城。
▶ この事件を起こした側の人物
- 那須信吾とは何をした人物か—土佐勤王党。吉田東洋を斬った
- 大石団蔵(高見弥市)とは何をした人物か—吉田東洋を斬り、のち薩摩藩士として英国へ留学
- 安岡嘉助とは何をした人物か—吉田東洋を斬り、天誅組に加わって処刑された郷士
幕末・明治の暗殺事件を読む
- 桜田門外の変(1860)—大老・井伊直弼
- 坂下門外の変(1862)—老中・安藤信正
- 吉田東洋暗殺(1862)—土佐藩の参政(この記事)
- 本間精一郎暗殺(1862)—木屋町の天誅
- 目明し文吉の殺害(1862)—三条河原
- 清河八郎暗殺(1863)—麻布一ノ橋
- 姉小路公知暗殺・朔平門外の変(1863)
- 芹沢鴨暗殺(1863)—壬生・八木邸
- 平岡円四郎暗殺(1864)—一橋慶喜の側近
- 佐久間象山暗殺(1864)—三条木屋町
- 原市之進暗殺(1867)—将軍慶喜の側近
- 赤松小三郎暗殺(1867)—東洞院通
- 坂本龍馬暗殺・近江屋事件(1867)
- 油小路事件(1867)—伊東甲子太郎
- 横井小楠暗殺(1869)—寺町丸太町
- 大村益次郎暗殺(1869)—兵部大輔の死
- 大久保利通暗殺・紀尾井坂の変(1878)
- 森有礼暗殺(1889)—憲法発布の朝
- 伊藤博文暗殺(1909)—ハルビン駅
✎ 筆者のひとこと
吉田東洋は身分にとらわれず人を取り立てた改革者で、後藤象二郎や岩崎弥太郎も東洋の門下から出ています。斬った側の土佐勤王党ものちに弾圧されたことを思うと、土佐藩は両方から大きな人材を失ったことになります。
吉田家は、山内家が土佐に入る前は長宗我部家に仕えていた家の流れといわれ、上士の中では少し違う生い立ちの家でした。それも身分にとらわれない人選びにつながったのかもしれません。ただ、公武合体を進める吉田と尊王攘夷の武市では考えが正反対で、どちらかが倒れるしかない状態だったのだと思います。


