家里次郎【新選組隊士 平隊士 幕末】

家里次郎
職名 平隊士
出身 伊勢松坂
終焉場所 大阪
終焉方法 切腹

文久三年に浪士組の一員として上洛しました。
京都に残留するにあたって近藤、芹沢らと当初から考えが違っていました。
殿内が初めて新選組内で暗殺されたのを知り京都を去り同士を求めて京坂付近を奔走。大阪付近で芹沢らと遭遇してしまい大阪常案橋会所にて切腹させられました。

壬生の八木邸の門前(京都市中京区)
壬生の八木邸の門前(京都市中京区)。新選組が最初に屯所を置いた家です(現地取材の記事・筆者撮影)
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家里次郎をもっと深く—新選組が最初に消した男

壬生浪士組には、はじめ三つの派がありました。近藤勇の試衛館派、芹沢鴨の水戸派、そして殿内義雄・家里次郎の派です。

この三つ目が、いちばん先に消えました。

募集する側の人間でした

天保十年、伊勢松坂—いまの三重県松阪市の生まれ。父は小林清右衛門といいます。

文久三年二月、清河八郎の浪士組に応じて上洛しました。そして三月、浪士組が江戸へ引き返すことになったとき、殿内義雄とともに京都残留者の取りまとめを、浪士取扱・鵜殿鳩翁から委任されます。

ここが大事なところです。家里は募集される側ではなく、募集して束ねる側の人間でした。だから壬生浪士組の隊士名簿に、この二人の名前は載っていません。

三月十二日、一同は会津藩の御預かりとなります。

三月二十五日、四条大橋

殿内義雄が、四条大橋で近藤らに暗殺されました。文久三年三月二十五日のことです。

殿内が死ぬと、その派の同志も次々に隊を離れました。家里次郎は、一人だけ取り残されます。

四月二十四日、大坂

翌月、将軍家茂の警護で大坂へ下っていたときでした。文久三年四月二十四日、家里は切腹させられます。享年二十五。場所は大坂常安橋の会所と伝わります。

誰が追い込んだのかは、資料で割れています。芹沢鴨だとするもの、近藤らだとするもの、両派が組んでとするもの。ここは諸説あり、としか書けません。

そして家里の死からおよそ一か月後、兄の家里松嶹(新太郎)も京都で暗殺されました。兄弟そろって消されたことになります。

粛清は、芹沢暗殺から始まったのではありません

新選組の粛清というと、同年九月の芹沢鴨暗殺が思い浮かびます。ですが実際には、その半年前に、殿内と家里が先に消されていました。

京都に残ると決めた二十四人が、隊として形を成していく過程で、まず三派のうち一つが丸ごと無くなった。新選組は、生まれた時点ですでにそういう集団でした。

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会津若松の鶴ヶ城(福島県会津若松市)
会津若松の鶴ヶ城(福島県会津若松市)。新選組は戊辰戦争で会津藩とともに戦いました(現地取材の記事・筆者撮影)

誰が切腹を命じたのかが、割れています

大坂で腹を切らされたところまでは、どの資料も一致します。ところが誰の指図だったのかとなると、二つの答えが並んでいます。芹沢鴨が士道不覚悟として命じたとするものと、近藤勇らに詰め腹を切らされたとするもの。場所を大坂の常安橋会所と記すものもあります。どちらも典拠の史料名が示されておらず、決め手がありません。

どちらを採るかで、話の意味が逆になります

芹沢が命じたのだとすれば、これは芹沢派が主導権を握る過程の一幕ということになります。近藤らが切らせたのなら、近藤派が先に動いていたことになります。壬生に残った一団は近藤派・芹沢派・殿内家里派の三つに分かれていましたから、最初に消えた一派の始末を誰がつけたのかは、そのあとの半年を読むうえで小さくない違いです。この年の九月には芹沢鴨が斬られますが、そこへ至る道筋の見え方が、芹沢説と近藤説では裏返ります。

読みは「いえさと つぐお」とされます

名は「継緒」とも書かれ、読みを「つぐお」とする資料があります。伊勢松坂の出、天保十年の生まれで、死んだとき二十五歳でした。小林清右衛門の妻あさの二男に生まれ、母の弟である家里悠然の養子に入っています。儒学者の家里松嶹は従兄にあたり、義理の兄でもありました。

兄も、ひと月足らずのちに斬られています

その家里松嶹が、文久三年五月十八日に京で暗殺されました。次郎が大坂で腹を切ったのが四月二十四日ですから、二十四日しか経っていません。二人の死に直接のつながりがあるのかどうかは分かりませんが、同じ家から出た二人が、ひと月のあいだに京と大坂で相次いで死んだことになります。文久三年の京というのは、そういう年でした。

文久三年に芹沢鴨の一派と、長州の間者とされた隊士たちがどう消えていったかは、芹沢鴨と水戸派の最期—文久三年、壬生浪士組から消えた人々に年表でまとめています。

家里次郎の生きた時代—伊勢松坂と本居宣長

松坂の出身 家里次郎は伊勢の松坂の出身です。松坂は紀州藩の領地で、江戸時代に伊勢商人の町として栄えました。三井家の発祥の地としても知られます。そしてこの町から出たのが、国学を大成した本居宣長です。宣長は『古事記伝』を著し、日本の古い言葉と心を明らかにしようとしました。

国学と幕末 宣長の国学は、平田篤胤らに受け継がれて、幕末の尊王攘夷運動の思想的な柱となりました。尊王攘夷の空気の中で浪士組に加わった家里次郎は、文久三年(1863)、隊の規律に背いたとして切腹させられています。

発足したばかりの隊の顔ぶれ

浪士組から壬生浪士組へ

家里次郎が加わっていた浪士組は、文久三年二月、清河八郎の呼びかけで江戸から京都へ上った浪士の集まりです。清河が浪士組を江戸へ引き返させたとき、京都に残ったのは芹沢鴨・近藤勇らの十三人でした。彼らは会津藩の預かりとなって「壬生浪士組」を名乗り、募集で人数を増やしていきます。そのころの主な顔ぶれは次のとおりです。

  • 局長:芹沢鴨、近藤勇、新見錦
  • 副長:土方歳三、山南敬助
  • 副長助勤:沖田総司、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、斎藤一、平山五郎、平間重助、野口健司 ほか

まだ隊の掟も固まっていなかったこの時期に、家里は隊を離れたことを咎められ、切腹させられたとされます。のちの新選組の厳しい掟の始まりを示す出来事です。

参考資料:Wikipedia日本語版「家里次郎」「新選組」、新人物往来社編『新選組大人名事典』、永倉新八『新撰組顛末記』ほか。隊士の生没年・出身・役職は、名簿や資料によって異なることがあります。

新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)

◀ 前の隊士:家木将監(平隊士)
次の隊士 ▶:五十嵐伊織(函館新選組第一分隊)

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