ヒュースケン暗殺とは—ハリスの通訳はなぜ江戸・麻布で斬られたのか。中ノ橋の夜、迷宮入りした犯人と「虎尾の会」

ワーグマン画 ヒュースケンの殺害

2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)は、幕末の幕臣・小栗忠順が主人公です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

幕末・明治の暗殺事件 特集:桜田門外の変から伊藤博文暗殺まで、30の事件を年表とともにまとめています。▶ 暗殺事件の特集を見る

万延元年(1860)12月5日の夜、江戸・麻布の古川沿いの道で、馬に乗って帰る途中の外国人が、浪士の一団に襲われました。アメリカ公使館の通訳、ヘンリー・ヒュースケン。日米修好通商条約の交渉で、アメリカ総領事ハリスの右腕として働いた28歳の青年です。

腹を深く斬られたヒュースケンは、公使館のあった善福寺に運び込まれましたが、日付の変わった午前0時半ごろに息を引き取りました。犯人は捕まらず、事件は迷宮入りとなります。後世の研究で有力とされているのは、清河八郎の「虎尾の会」に関わっていた薩摩の若者たちの犯行という説です。

なぜ通訳の青年が殺されたのか。手を下したのは誰だったのか。ヒュースケン暗殺の真相を、誰が・いつ・どこで・なぜ・その後どうなったか、の順に見ていきます。

目次

先に答え—ヒュースケン暗殺とは

いつ 万延元年(1860)12月5日の夜9時ごろ(西暦では1861年1月15日)。ヒュースケンは翌6日(1月16日)の午前0時半ごろに亡くなりました
どこで 江戸・芝の赤羽橋の近く、古川沿いの中ノ橋のあたり(いまの東京都港区東麻布・三田のあたり)。プロイセン使節の宿舎・赤羽接遇所から、善福寺のアメリカ公使館へ帰る途中でした
誰が 攘夷派の浪士たち。当時は犯人が捕まらず未解決でしたが、清河八郎の「虎尾の会」に関わった薩摩藩士・伊牟田尚平、益満新八郎らの犯行とする説が有力です
誰を アメリカ公使館の通訳兼書記官、ヘンリー・ヒュースケン(オランダ生まれ、28歳)
なぜ 開国に反対する攘夷派が、外国人を打ち払う目的で襲ったと考えられています。条約交渉に深く関わり、夜に決まった道を通っていたことも狙われやすさにつながりました
その後 英仏などの公使は抗議して一時横浜へ移りましたが、ハリスは江戸に残りました。幕府は賠償金と母への扶助料、あわせて洋銀1万ドルを支払い、外国人警護の「外国御用出役」をつくりました

ヒュースケンはどんな人だったのか

ヘンリー・ヒュースケン(オランダ名ヘンドリック・ヒュースケン)は、1832年、オランダのアムステルダムで石鹸をつくる家のひとり息子として生まれました。14歳で父を亡くし、21歳のころ、母を残してひとりアメリカのニューヨークに渡ります。

ヘンリー・ヒュースケンの肖像
ヘンリー・ヒュースケンの肖像(アメリカの週刊紙『フランク・レスリーズ・イラストレイテッド・ニューズペーパー』の挿絵。Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

ニューヨークでは定職にもつけず、穴のあいた靴をはき、夕食を抜くような暮らしだったといいます。そこへ、日本へ向かう初代総領事に選ばれたタウンゼント・ハリスとの出会いがありました。オランダ語・英語・フランス語・ドイツ語ができたヒュースケンは、ハリスの通訳兼秘書として日本へ向かうことになります。

当時、日本が西洋とやりとりするときの言葉はオランダ語でした。オランダ語のできるヒュースケンは、ハリスにとって欠かせない存在だったのです。

時代背景—下田から江戸へ、条約交渉の日々

安政3年(1856)7月、ハリスとヒュースケンは伊豆の下田に着きました。下田奉行からは「領事は必要ない」と滞在を断られましたが、玉泉寺をアメリカ領事館として腰を据え、交渉を始めます。

翌安政4年(1857)、ふたりは江戸に入り、江戸城で将軍・徳川家定に会って大統領の国書を渡しました。そして安政5年(1858)6月、日米修好通商条約が結ばれます。天皇の許し(勅許)がないまま結ばれたこの条約は、国内に激しい反発を生み、安政の大獄、そして桜田門外の変へとつながっていきました。

ヒュースケンは日本に4年あまり滞在するあいだに日本語も覚え、かなり使いこなしたといいます。その日記(『ヒュースケン日本日記』)には、日本の人々や風景に向けられた、若者らしい好奇心のある目が残っています。

善福寺で撮影されたヒュースケンらの古写真
善福寺で撮影されたとされる古写真。左から西山助蔵、ふたりおいてヒュースケン、その右が村山滝蔵。前の少年はのちの実業家・益田孝と伝わります(Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

万延元年(1860)7月、条約を求めてプロイセン(いまのドイツ)の使節団が江戸に来ました。幕府は条約を結ぶのをしぶりましたが、ハリスはその仲立ちを買って出ます。ドイツ語のできるヒュースケンは、プロイセン使節の宿舎だった赤羽接遇所(いまの港区東麻布)に、毎日のように通うようになりました。

なぜヒュースケンは狙われたのか

安政6年(1859)に横浜が開港すると、外国人や外国公館の関係者を襲う事件が次々に起こりました。横浜ではロシアの海軍士官や水兵が殺され、オランダ商船の船長らも犠牲になっています。開国に反対し、外国人を打ち払うべきだとする「攘夷」の考えに燃えた浪士たちの犯行でした。

ヒュースケンは、条約交渉の場にいつもいた外国人です。攘夷派から見れば、日本に開国を押しつけた側の人間でした。しかも、赤羽接遇所に通う道筋や時間は、毎日ほぼ同じでした。ただし、なぜヒュースケン個人が選ばれたのか、はっきりした理由はわかっていません。ハリス自身も、ヒュースケンが特別な恨みを買うような心当たりはなく、外国人を殺して名を上げようとしたのではないか、と報告しています。

幕府は外国人に夜の外出を控えるよう求めており、ハリスもたびたび注意していました。それでもヒュースケンは、プロイセンの使節たちと夕食をともにし、夜遅くまで話しこんでから帰るのが習慣になっていたといいます。

事件当日の模様—中ノ橋の夜

万延元年12月5日(1861年1月15日)の夜、ヒュースケンはいつものように赤羽接遇所を出て、馬で善福寺の公使館へ向かいました。ハリスの報告書によれば、幕府がつけた護衛は、馬に乗った役人3人と徒歩の4人でした(武士3人と馬丁2人とする記録もあります)。

ワーグマン画 ヒュースケンの殺害
チャールズ・ワーグマン「ヒュースケンの殺害(The Murder of Heusken)」。提灯の明かりの中、馬上のヒュースケンが刀を持った一団に囲まれる場面が描かれています(Wikimedia Commons/パブリックドメイン)

夜9時ごろ、一行が赤羽橋の近く、古川沿いの中ノ橋のあたりにさしかかったとき、7人ほどの一団が突然襲いかかりました。護衛の提灯は消され、あたりは闇になります。両脇腹を斬られたヒュースケンは、馬で200ヤード(180メートルほど)走って逃げたところで、助けを求めて馬から落ちたといいます。

9時半ごろ、ヒュースケンは善福寺の公使館に運び込まれ、プロイセンとイギリスの公使館から呼ばれた医師たちの手当てを受けました。しかし腹の傷は深く、出血が止まりませんでした。ヒュースケンは日付の変わった6日(1月16日)の午前0時半ごろに亡くなります。28歳でした。

犯人は誰か—迷宮入りと「虎尾の会」

事件のあと、犯人は水戸藩の浪士ではないか、外国奉行の家臣ではないか、などとさまざまに噂されました。ハリスは幕府に犯人を探し出して裁くよう強く求めましたが、犯人は捕まらず、事件は迷宮入りとなります。

後世の研究で有力とされているのは、庄内出身の志士・清河八郎が結成した攘夷の結社「虎尾の会(こびのかい)」に関わっていた、薩摩藩士の伊牟田尚平(いむた しょうへい)・益満新八郎らの犯行という説です。港区の区史や百科事典も、伊牟田ら薩摩藩士による犯行としています。神田橋直助・樋渡八兵衛・森山新五左衛門の名をあげる文献もあります。

ただし、5人全員が実行犯だったと示す確かな史料は見つかっておらず、実際に誰が斬ったのかは確定していません。清河八郎自身が現場にいたわけでもありません。結局、誰も裁かれることはありませんでした。

なお、伊牟田尚平はのちに、西郷隆盛のもとで江戸の薩摩藩邸を拠点に浪士を集めて騒ぎを起こし、江戸薩摩藩邸の焼討事件のきっかけをつくった人物のひとりです。同じ工作に加わった益満休之助を、ヒュースケン事件の「益満新八郎」と同じ人物とする説明もありますが、同一人物かどうかは確かめられていません(新八郎は休之助の弟だった可能性も指摘されています)。

事件のその後—横浜に退いた公使たちと、江戸に残ったハリス

善福寺の逆さイチョウ
善福寺の逆さイチョウ。アメリカ公使館が置かれた善福寺に、ヒュースケンは運び込まれました(写真:Paul O’Leary McCann/Wikimedia Commons, CC0)

ヒュースケンの葬儀は、12月8日(1月18日)に善福寺で行われました。アメリカ国旗に包まれた棺をオランダの海兵隊員が担ぎ、外国奉行らを先頭に、プロイセンの軍楽隊や各国の公使・領事たちが長い列をつくって、麻布の光林寺まで送りました。

事件のあと、イギリス公使オールコックやフランス公使ド・ベルクールらは「江戸は危険だ」と幕府に抗議し、いったん江戸から横浜へ退きます。ところがハリスは、この動きに加わりませんでした。幕府が外国人を守ろうと努力していることは認めるべきだとして、江戸に残ったのです。幕府が警備を強める姿勢を見せると、オールコックらもまもなく江戸に戻りました。

幕府は事件を受けて、武術にすぐれた旗本・御家人を選んで外国人を警護する「外国御用出役(がいこくごようしゅつやく)」を置きました。これがのちの「別手組(べってぐみ)」で、外国公館や外交官の警備が強められていきます。

ハリスは本国への報告に、ヒュースケンが再三の注意にもかかわらず夜遅くまで出歩いていたことも、死を招いた原因のひとつだと書いています。そのうえで幕府に誠意ある対応を求め、幕府は事件の賠償金として洋銀4,000ドル、オランダに住むヒュースケンの母への扶助料として6,000ドル、あわせて1万ドルを支払いました。

しかし、外国人を狙う事件はその後も続きます。文久元年5月にはイギリス公使館の東禅寺が水戸浪士に襲われ、翌文久2年8月には生麦事件が起こりました。ヒュースケンの死は、攘夷の嵐の中で起きた外国人殺傷事件のひとつとして、幕府の外交に重くのしかかっていったのです。

ヒュースケン暗殺ゆかりの地

  • 中ノ橋・赤羽橋のあたり(東京都港区東麻布・三田):ヒュースケンが襲われた古川沿いの道。
  • 善福寺(東京都港区元麻布):アメリカ公使館が置かれた寺。ヒュースケンが運び込まれ、息を引き取った場所。境内には大イチョウ(逆さイチョウ)があります。
  • 光林寺(東京都港区南麻布):ヒュースケンの墓がある寺。
  • 玉泉寺(静岡県下田市):ハリスとヒュースケンが最初に暮らしたアメリカ領事館の跡。

幕末・明治の暗殺事件を読む

▶ 暗殺事件の特集(年表と一覧)

✎ 筆者のひとこと

ニューヨークで穴のあいた靴をはいていた青年が、地球の反対側で条約交渉の通訳になり、28歳で斬られる—。ヒュースケンの一生は、それだけで一冊の小説になりそうです。

日記を読むと、彼は日本の風景や人々を、驚きと好奇心をもって見つめていました。その日本で命を落としたことを思うと、なんとも言えない気持ちになります。

あわせて読みたい

  • URLをコピーしました!
目次