新選組の屯所の移り変わり—壬生・西本願寺・不動堂村・伏見奉行所、そして流山へ

新選組の屯所の移り変わり——壬生・西本願寺・不動堂村・伏見奉行所、そして流山へのイメージイラスト

新選組は、五年ほどのあいだに何度も本拠(屯所)を移しました。京都の壬生の農家から、西本願寺の広い集会所へ、そして自前の屋敷、伏見奉行所へ。さらに江戸へ戻ってからも、屋敷や村を転々とします。屯所の移り変わりは、そのまま新選組の盛衰の歩みでもありました。この記事では、屯所を順にたどり、いま跡地を訪ねるときの手がかりもまとめます。

目次

屯所の移り変わり(一覧)

時期屯所できごと
文久三年(1863)三月〜壬生村(八木邸・前川邸など)会津藩お預かりの壬生浪士組として発足
慶応元年(1865)三月〜西本願寺(北集会所・太鼓楼)隊士が増えて壬生では手狭になり移る
慶応三年(1867)六月十五日〜不動堂村屯所(京都駅の南西あたり)西本願寺が費用を出して建てた自前の屋敷
慶応三年十二月〜伏見奉行所王政復古ののち、伏見の守りにつく
慶応四年(1868)一月〜江戸(鍛冶橋の屋敷など)鳥羽伏見の敗戦後、海路で江戸へ
慶応四年三月〜五兵衛新田(東京都足立区)甲州勝沼の敗戦後、金子家を中心に隊を立て直す
慶応四年四月下総流山(千葉県流山市)四月三日、近藤勇が新政府軍に出頭

壬生—八木邸と前川邸

文久三年三月、京都に残った浪士たちは会津藩のお預かりとなり、壬生村の郷士・八木源之丞の屋敷や、前川家の屋敷などに分かれて住みました。芹沢鴨が斬られたのも、この八木邸です。壬生寺の境内は隊士の調練の場にも使われました。

壬生時代のことは【現地取材】壬生・八木邸と芹沢鴨と水戸派の最期にまとめています。

西本願寺—二百畳を超える集会所

元治元年の池田屋事件で名を上げた新選組には、入隊を望む者が一気に増えました。壬生の民家では収まりきらなくなり、慶応元年三月、西本願寺の境内の北側にあった北集会所と太鼓楼に移ります。

西本願寺は長州藩と縁の深い寺でした。その境内に、長州と敵対する新選組が入ったのです。境内での大砲や銃の調練、隊内の切腹や処刑に、寺はたいへん迷惑したといわれ、会津藩に調練をやめるよう願い出たとも伝わります。太鼓楼はいまも境内に残り、新選組の屯所だったことを伝える案内が立っています。

この時期に山南敬助が切腹し(元治二年二月、移転の直前)、河合耆三郎や柴田彦三郎も隊の規律で命を落としています(新選組の切腹・粛清一覧)。

不動堂村—西本願寺が建てた屋敷

慶応三年六月、新選組が幕臣に取り立てられたのと同じころ、隊は西本願寺を出て、新しく建てられた屯所に移りました。建てる費用は、新選組に出ていってほしい西本願寺がすべて負担したと伝えられます。表門や高塀、長屋などを備えた広い屋敷で、大名屋敷にも負けないほどだったといいます。

この屯所は、昔から「不動堂村屯所」と呼ばれてきました。いまの京都駅の南西、ホテルの前あたりに碑が立っています。ただし近年、屯所があったのは不動堂村ではなく隣の西九条村だったことを示す史料が見つかったとも報じられており、正確な場所については研究が進んでいます。

この屯所にいたのは、半年足らずのことでした。この間の慶応三年十一月には、油小路事件が起きています。

伏見奉行所—最後の京都の屯所

慶応三年十月の大政奉還、十二月の王政復古によって、京都の情勢は一変します。新選組は京都の市中を離れ、伏見奉行所に入って伏見の守りにつきました。十二月十八日、近藤勇が伏見街道で撃たれたのは、この伏見へ戻る途中のことです。

翌慶応四年一月、鳥羽伏見の戦いで伏見奉行所は燃え落ち、新選組は京都を去りました(鳥羽伏見の戦いと新選組)。

江戸から五兵衛新田、流山へ

海路で江戸に戻った新選組は、鍛冶橋の屋敷などに入りました。三月一日にはここから甲陽鎮撫隊として甲州へ出陣しますが、勝沼で敗れます。

その後、隊は江戸の北東の五兵衛新田に移り、金子家を中心に宿営して隊士を集め直しました。四月初めにはさらに下総の流山へ移り、四月三日、近藤勇はこの地で新政府軍に身を委ねます(近藤勇、最後の百日)。そこから先の新選組は、会津、そして箱館へと、屯所というより戦場を転々とすることになりました(会津の新選組・箱館の新選組)。

屯所から新選組を読み解く

屯所ごとに起きたこと

屯所を移るたびに、新選組の中では大きな出来事が起きています。どの屯所の時代に何があったのかを並べると、隊の歩みが立体的に見えてきます。

屯所その時代のおもな出来事
壬生(八木邸・前川邸)芹沢鴨の暗殺、長州の間者とされた隊士の粛清、池田屋事件、禁門の変、山南敬助の切腹(慶応元年二月、前川邸)
西本願寺隊の十組への編成、河合耆三郎・柴田彦三郎らの切腹、三条制札事件、伊東甲子太郎らの分離、幕臣への取り立て
不動堂村近江屋事件の嫌疑、油小路事件、大政奉還と王政復古
伏見奉行所伏見街道での近藤勇の狙撃、鳥羽伏見の戦い
江戸・五兵衛新田・流山甲陽鎮撫隊の出陣と勝沼の敗戦、永倉新八らの離脱、近藤勇の出頭

総長の山南敬助が切腹したのは、西本願寺へ移るわずか半月ほど前のことでした。壬生の時代の終わりに古参の幹部を失い、西本願寺の時代は、隊が大きくなると同時に規律が厳しくなっていった時期です。不動堂村に移ってからの半年は、幕府そのものが終わりへ向かう激動の半年でした。

なぜ西本願寺だったのか

西本願寺は、もともと長州藩と縁が深く、長州に心を寄せる寺として知られていました。新選組がここを屯所に選んだのは、単に広い建物があったからだけではなく、長州系の浪士が身を寄せる拠り所を押さえるという狙いもあったといわれます。

寺の側にとっては迷惑な話でした。境内で大砲の稽古をし、隊士が肉を食べるための豚を飼ったとも伝わります。最後には寺が費用を出して不動堂村に屋敷を建て、新選組に移ってもらったとされます。「寺が屋敷を建ててまで出ていってもらった」という事実が、同居の二年あまりがどれほど寺にとって重荷だったかを物語っています。

屯所の大きさは、隊の大きさ

壬生の民家に分かれて住んでいたころの隊士は数十人でした。西本願寺の北集会所は二百畳をこえる広さがあり、不動堂村の屋敷は大名屋敷にも劣らない構えだったと伝えられます。屯所が広くなっていく流れは、そのまま隊が大きくなり、幕府の組織として認められていく流れと重なっています。

ところが鳥羽伏見のあと、新選組は江戸の屋敷、五兵衛新田の農家、流山の酒造家と、仮の宿を転々とすることになりました。京都で築いた立派な屯所から、数か月で農村の仮住まいへ。屯所の移り変わりは、新選組の栄えと衰えを、何より分かりやすく映し出しています。

屯所跡を訪ねるなら

  • 八木邸(京都市中京区壬生):いまも建物が残り、見学できます。
  • 前川邸(京都市中京区壬生):個人の住まいのため、ふだん中には入れません。
  • 壬生寺:芹沢鴨・平山五郎らの墓がある壬生塚があります。
  • 西本願寺(京都市下京区):太鼓楼が境内の北東の角に残ります。
  • 不動堂村屯所跡の碑(京都市下京区):京都駅の南西、ホテルの前に碑があります。
  • 伏見奉行所跡(京都市伏見区):いまは団地になっていて、碑が立っています。
  • 流山(千葉県流山市):近藤勇陣屋跡の碑があります(流山陣屋跡)。

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参考にした資料:新選組研究の諸資料、京都市内の史跡の案内。屯所の場所や移転の日付には諸説があります。

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