京都・四条大宮の近く、綾小路通に面した小さな寺に、新選組の隊士たちの名を刻んだ墓碑が並んでいます。光縁寺です。戦いで死んだ者だけでなく、切腹や粛清で命を落とした隊士が、この寺に葬られました。
なぜ光縁寺だったのか
光縁寺は浄土宗の寺で、山号を満月山といいます。壬生の屯所(前川邸・八木邸)から近く、寺の門のそばには新選組の馬小屋があって、隊士が日ごろから行き来していたといわれます。
縁を結んだのは、総長の山南敬助でした。寺の瓦に刻まれた紋「丸に三つ葉立葵」が山南家の家紋と同じだったことから、山南は当時の住職・良誉上人と親しくなったと伝わります。二人は年も近く、やがて隊務で命を落とした隊士の供養を、この寺に頼むようになりました。
そして元治二年二月、山南自身も切腹し、この寺に葬られます。
墓碑に名が刻まれた隊士
墓碑や過去帳に名が見える主な隊士は次のとおりです。名前にリンクのある隊士は、個別のページで詳しく読めます。
- 山南敬助—総長。元治二年二月、脱走の末に前川邸で切腹
- 松原忠司—四番隊組長・柔術師範
- 桜井勇之進
- 小川信太郎
- 市橋鎌吉
- 田内知
- 施山多喜人
- 石川三郎
- 河合耆三郎—勘定方。慶応二年二月に切腹(墓は壬生寺にあります)
- 柴田彦三郎—慶応二年六月、脱走の末に屯所で切腹
- 田中寅三
- 矢口健一郎
- 富川十郎・中村五郎・佐野七五三之助・茨木司—慶応三年六月、会津藩邸で自刃した四人(のちに戒光寺へ改葬)
- 加藤羆
- 大石造酒蔵—平隊士。諸士調役兼監察を務めた大石鍬次郎の弟で、慶応二年二月に斬られたとされます
このほか、沖田総司の縁者とされる女性の墓もあり、戒名「真明院照誉貞相大姉」と刻まれていますが、本当の名前は分かっていません。
幕臣取り立てを拒んで自刃した四人は、はじめこの寺に葬られ、のちに御陵衛士の眠る戒光寺(泉涌寺の塔頭)へ移されました。
隊の内側で死んだ人の寺
ここに眠る隊士には、敵と戦って死んだ人よりも、隊の内側の事情で命を落とした人が目立ちます。山南敬助の脱走、河合耆三郎の金の不足、柴田彦三郎の無断の金策—新選組が内側でどれほど厳しかったかを、この寺の墓碑は静かに伝えています。ただし埋葬者は処断された隊士だけではなく、病で死んだ隊士や、幕臣取り立てを拒んで自刃した者も含まれます。
なお「局中法度」という呼び名は同時代の史料には見えず、昭和初めの子母澤寛『新選組始末記』以降に広まったものだという指摘があります。この寺を「局中法度の寺」と呼ぶのは、後世の言葉を借りた言い方だと承知しておくのがよいと思います。
隊内の切腹・粛清について、時代順にまとめた一覧は新選組の切腹・粛清一覧にあります。
光縁寺を読み解く
京都の三つの「新選組の寺」
京都には、新選組の隊士が眠る寺がいくつかあります。そのうち、よく訪ねられる三つを比べると、光縁寺の特徴が見えてきます。
| 寺 | 場所 | 主に眠る人 | 特徴 |
|---|---|---|---|
| 壬生寺 | 壬生(中京区) | 芹沢鴨・平山五郎ら初期の隊士、河合耆三郎 | 「壬生塚」に墓や近藤勇の像が集められ、観光の中心 |
| 光縁寺 | 綾小路通(下京区) | 山南敬助と、切腹・粛清された隊士たち | 住職と山南の縁から、隊士の供養を引き受けた |
| 戒光寺 | 泉涌寺の塔頭(東山区) | 伊東甲子太郎ら御陵衛士、自刃した四人 | 新選組と敵対した側が眠る |
壬生寺が「新選組の始まり」の寺だとすれば、光縁寺は「新選組の内側の厳しさ」を伝える寺、戒光寺は「新選組と袂を分かった人たち」の寺といえます。
屯所が移ってからも続いた縁
新選組は慶応元年(1865)三月、屯所を壬生から西本願寺へ移しました。それでも、慶応二年の河合耆三郎・柴田彦三郎、慶応三年に自刃した四人と、隊士の供養は光縁寺に頼まれ続けています。壬生から離れても光縁寺との縁が切れなかったのは、山南敬助と良誉上人から始まった信頼が、隊の中に受け継がれていたからでしょう。
墓碑が伝える「名もなき隊士」
光縁寺の墓碑や過去帳には、山南や河合のようによく知られた隊士だけでなく、小川信太郎・市橋鎌吉・田内知・施山多喜人など、ほかの記録にはほとんど名前が残らない隊士も刻まれています。どのような理由で亡くなったのかさえ分からない人も少なくありません。こうした隊士の名がいまに伝わっているのは、この寺が供養を引き受け、名を刻んで残したからです。
戒光寺へ移された四人
幕臣取り立てを拒んで自刃した富川十郎・中村五郎・佐野七五三之助・茨木司の四人は、はじめ光縁寺に葬られ、のちに戒光寺へ移されました。新選組の寺から、御陵衛士の寺へ。死後の移り変わりにも、四人が最後に選んだ道が表れています(富川十郎、佐野七五三之助のページでも触れています)。
「過去帳」という史料
寺の帳面が、隊士の記録になる
光縁寺が新選組の研究で重んじられてきた理由の一つが、「過去帳」です。過去帳は、寺が葬った人の法名(戒名)や亡くなった年月日、俗名などを書き留めておく帳面で、寺にとっては供養のための大切な記録です。
新選組の隊士には、名簿に名前しか残っていない人や、いつ亡くなったのか分からない人がたくさんいます。そうしたなかで、光縁寺の過去帳には、隊の中で命を落とした隊士の名と日付が書き留められていました。隊の側の記録でも、隊士の回想でもない、第三者である寺の記録であることが、この帳面の値打ちを高めています。このサイトの隊士ページでも、切腹の日付などを確かめる手がかりとして、過去帳にもとづく研究を参考にしています。
過去帳の限界
もちろん、過去帳にも限りがあります。書かれているのは寺が知らされたことだけで、死の理由や、どのように死んだのかまでは分かりません。また、隊士がどこで葬られたかと、過去帳に名が載っているかは、必ずしも同じではありません。河合耆三郎のように、墓は壬生寺にありながら光縁寺の記録にも名が見える隊士がいるのは、そのためです。
過去帳に「名前がある」ことから分かるのは、少なくともその人が寺で供養されたということです。名簿や回想と照らし合わせることで、はじめて一人の隊士の姿が浮かび上がってきます。隊士名簿がなぜ食い違うのかについては、隊士名簿はなぜ食い違うのかでも扱っています。
沖田総司の縁者とされる女性の墓
光縁寺には、沖田総司の縁者とされる女性の墓もあると伝えられ、沖田が思いを寄せた人ではないかと語られることもあります。ただ、この話を確かめる記録は乏しく、どこまでが本当なのかは分かりません。小説やドラマで描かれてきた沖田の姿が、寺の言い伝えと結びついて広まった面もあるでしょう。お参りの際には、隊士たちとともに、名の残らない人々の供養の場でもあることを心に留めておきたいものです。
訪ねるなら
- 場所:京都市下京区綾小路通大宮西入四条大宮町。阪急・京福の大宮駅(四条大宮)から歩いてすぐです。
- 近くの新選組ゆかりの地:壬生・八木邸、前川邸、壬生寺(芹沢鴨の墓)まで歩いて回れます。
- お参りの前に:墓所は寺の境内にあります。訪ねる前に、寺の案内や公開の状況を確かめてください。
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参考にした資料:光縁寺の墓碑・過去帳にもとづく諸研究、京都市内の新選組史跡の案内。

