佐々木只三郎とは何をした人物か—清河八郎を斬った「小太刀日本一」の見廻組与頭。会津の生まれ、龍馬暗殺の指揮説、最期とゆかりの地

佐々木只三郎の肖像

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佐々木只三郎の肖像
佐々木只三郎(パブリックドメイン)

佐々木只三郎(ささき たださぶろう)は、浪士組をつくった清河八郎を江戸・麻布で斬った幕臣です。のちに京都見廻組の与頭(組頭)となり、坂本龍馬と中岡慎太郎が斬られた近江屋事件でも、指揮をとった人物とされています。

会津藩士の家に生まれ、新選組が会津藩の「お預かり」になるきっかけにも関わりました。藩と身分、幕末の歩み、取り立ての経緯、逸話、事件、最期、ゆかりの地の順にたどります。

目次

佐々木只三郎とは—先に答え

藩・身分 会津藩士・佐々木源八の三男。安政6年に旗本(御家人とも)佐々木弥太夫の養子となり幕臣に
生没 天保4年(1833年)〜慶応4年(1868年)1月12日(1月6日説も)。享年36
名前 諱は泰昌、号は高城。「唯三郎」とも書かれる
幕末に何をした 浪士組の取締出役として上洛。江戸で清河八郎を暗殺。京都見廻組の与頭として治安維持にあたる
取り立ての経緯 剣の腕で講武所の剣術師範を務めたと伝わり、浪士組取締出役→見廻組与頭勤方→与頭(元治元年12月)
事件 清河八郎暗殺(文久3年4月13日)、禁門の変、近江屋事件(指揮した説)
最期 鳥羽伏見の戦いで腰に銃弾を受け、紀州へ逃れる途中、紀三井寺で死去したとされる
墓所 会津武家屋敷(福島県会津若松市)に墓。和歌山の紀三井寺には位牌が伝わる

会津藩士の三男から旗本の家へ

佐々木只三郎は天保4年(1833年)、会津藩士・佐々木源八の三男として生まれました(生まれを江戸とする辞典もあります)。長兄は、のちに京都守護職・松平容保の側近として働く手代木直右衛門(勝任)です。剣は会津藩の師範から神道精武流を、槍は宝蔵院流を学びました。

安政6年(1859年)、幕臣の佐々木弥太夫の養子となって家督を継ぎ、会津藩士の子から将軍の家臣になりました。妻は紀州藩士の娘・美津です。この紀州との縁が、のちの最期の地につながっていきます。

幕末に何をしたのか—浪士組から京都見廻組へ

浪士組の取締出役として京都へ

文久3年(1863年)、清河八郎の発案で将軍上洛の警護のための浪士組がつくられると、只三郎は幕府側の取締出役として加わりました。浪士組は2月8日に小石川の伝通院を出発し、23日に京都の壬生村に着きます。

近藤勇らの「会津藩お預かり」

京都に着くと清河は、浪士組を尊王攘夷の兵として使おうとし、本隊を江戸へ戻します。このとき京都に残った近藤勇・芹沢鴨らが京都守護職(会津藩)の預かりとなるよう、只三郎は兄の手代木を通じて取り計らったといわれます。のちの新選組の始まりです(新選組と会津藩)。

京都見廻組の与頭

元治元年(1864年)、旗本や御家人で京都の治安を守る京都見廻組がつくられると、只三郎は6月に与頭勤方、12月に与頭となりました。浪士が中心の新選組に対し、見廻組は幕臣の部隊です。同年7月の禁門の変にも加わっています。

出世した経緯—剣の腕と会津の人脈

只三郎は講武所の剣術師範を務め、「小太刀日本一」と呼ばれたと伝わります。会津藩士の三男という家を継げない立場から、旗本の養子となり、剣の腕で幕府の取締出役、さらに見廻組の与頭へと上りました。

もう一つの支えは、京都守護職の重臣だった兄・手代木直右衛門の存在です。浪士組の残留組を会津藩につないだ話からも分かるように、只三郎は幕府と会津藩の間をつなぐ立場にいました。

逸話

「小太刀日本一」

小太刀の名手として「小太刀日本一」と称されたといわれます。狭い室内での斬り合いに向く小太刀の名手であったことが、のちに近江屋事件の指揮者とされる理由の一つにもなっています。

兄の厳しい言葉

鳥羽伏見で傷を負い、痛みに苦しむ只三郎に、看病していた兄の手代木が「お前は今までずいぶん人を斬ってきたのだから、これくらいの苦しみは当然であろう」と言い、只三郎は苦笑したと伝わります。

関わった事件

清河八郎暗殺(文久3年4月13日)

江戸に戻った清河八郎は、横浜の外国人居留地の焼き討ちを計画していたとされ、幕府はこれを危険視しました。4月13日、只三郎は窪田泉太郎らとともに、麻布の一ノ橋のたもとで清河を斬りました(赤羽橋とする資料もあります)。只三郎が「清河先生」と声をかけて気をそらしたところを斬った、という話が伝わっています。くわしくは清河八郎暗殺とはをどうぞ。

近江屋事件(慶応3年11月15日)

京都河原町の醤油商・近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が斬られた事件では、のちに見廻組の今井信郎が「佐々木只三郎の指図で7人が向かった」と供述しました。この供述によれば、只三郎が事件を指揮したことになります。ただし、ほかの見廻組隊士の証言とは人数などが合わず、新選組の仕業とする当時の見方や、薩摩藩の黒幕説もあります。事件の謎は坂本龍馬はなぜ暗殺されたのか、坂本龍馬暗殺と新選組で整理しています。

最期—鳥羽伏見の傷と紀州

慶応4年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いで見廻組を率いて戦い、樟葉(橋本とも)のあたりで腰に銃弾を受けました(鳥羽伏見の戦いと新選組)。大坂から紀州へ逃れる途中、1月12日(6日とも)に紀三井寺で亡くなったとされます。沖に泊まっていた幕府の軍艦・富士山丸の中で亡くなったという説もあります。36歳でした。

佐々木只三郎ゆかりの地

会津武家屋敷の墓(福島県会津若松市)

会津若松市東山町石山。紀三井寺にあった古い墓石が折れているのが見つかったことから、会津の有志が引き取り、武家屋敷の中に墓を建てたとされます。見学には会津武家屋敷への入館が必要です。

紀三井寺(和歌山市)

和歌山市紀三井寺1201。只三郎が亡くなった地とされ、位牌が伝わっているといいます。墓が今も寺にあるかは資料によって違うので、お参りの前に確かめてください。

麻布一ノ橋(東京都港区)

清河八郎が斬られた場所です。現在の麻布十番の近くにあたります。

近江屋跡(京都市中京区)

河原町通蛸薬師下ル。龍馬と中岡が斬られた近江屋の跡に碑が立っています(【現地取材】坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難の地)。

宗林寺の供養碑(東京都台東区谷中)

平成16年(2004年)に佐々木家が建てた供養碑があります。

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参考資料

  • Wikipedia「佐々木只三郎」
  • コトバンク「佐々木只三郎」(日本人名大辞典)
  • Wikipedia「京都見廻組」
  • Wikipedia「近江屋事件」
  • Wikipedia「清河八郎」
  • 戦国ヒストリー「佐々木只三郎」
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