田中新兵衛とは何をした人物か—町人から薩摩藩士になった「人斬り新兵衛」。天誅の始まり、姉小路公知暗殺の嫌疑と自刃、ゆかりの地

京都町奉行所で刀と木履を前に取り調べを受ける田中新兵衛の場面のイラスト

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田中新兵衛(たなか しんべえ)は、幕末の「四大人斬り」の一人に数えられる薩摩の志士です。文久2年(1862年)、九条家の家臣・島田左近を斬ってさらしたことが、京都で吹き荒れた「天誅」の始まりとされます。

もとは武士ではなく町人の出でした。翌年、公家の姉小路公知が暗殺された現場に自分の刀が残されていたとして捕らえられ、取り調べの最中に自ら命を絶ちます。そのため真相はいまも分かっていません。身分、幕末の歩み、取り立ての経緯、逸話、事件、最期、ゆかりの地の順にたどります。本人の写真や確かな肖像は伝わっていません。

目次

田中新兵衛とは—先に答え

藩・身分 薩摩藩。鹿児島城下・前ノ浜の生まれで、生家は薬種商とも船頭ともいわれる町人。のち士分の株を得て私領士(陪臣)に
生没 生年は天保12年(1841年)説、天保3年(1832年)説などがあり不明。没年は文久3年(1863年)5月26日
名前 名は雄平
幕末に何をした 京都に上り、島田左近・本間精一郎らの暗殺(天誅)に関わる。土佐の武市半平太と義兄弟に
取り立ての経緯 精忠組(誠忠組)の森山新蔵に奉公し、目をかけられて士分の株を買い与えられた
事件 島田左近暗殺、本間精一郎暗殺、姉小路公知暗殺(朔平門外の変)の嫌疑
最期 文久3年5月26日、京都町奉行所での取り調べ中に自刃

薩摩の町人の子から

田中新兵衛は薩摩藩の鹿児島城下・前ノ浜の生まれです。家は薬種商だったとも、船頭だったともいわれ、武士の家ではありませんでした。生まれた年もはっきりせず、天保12年(1841年)とする辞典もあれば、天保3年(1832年)とする資料もあります。両親や家族のことはほとんど伝わっていません。

幼いころに森山新蔵の商家へ奉公に出て、のちに森山の持ち船の船頭になったと伝わります。剣は薩摩の示現流(またはその分派)を使ったといわれますが、師も流派もはっきりしません。

幕末に何をしたのか—京都の天誅

京都へ

文久2年(1862年)の5〜6月ごろ京都に上り、薩摩藩の海江田信義・藤井良節のもとに身を寄せました。この年は島津久光が兵を率いて上京し、京都に尊王攘夷の志士があふれた年です。

島田左近を斬る—天誅の始まり

文久2年7月20日の夜(21日とする資料も)、安政の大獄で井伊直弼に協力したとされた九条家の家臣・島田左近を、木屋町の妾宅で襲って斬りました。首は青竹に刺してさらされ、「天誅」の斬奸状が添えられました。これが京都の天誅の始まりとされています。

武市半平太と義兄弟に

同年8月、小河弥右衛門の仲立ちで、土佐勤王党の武市半平太(瑞山)と義兄弟の契りを結びました。これで土佐の岡田以蔵らとも組んで動くようになります。

取り立てられた経緯—森山新蔵の奉公人から武士へ

新兵衛を武士にしたのは、奉公先の主人・森山新蔵でした。森山は商人でありながら、大久保利通らの精忠組(誠忠組)に加わった人です。新兵衛は森山に目をかけられ、士分の株を買い与えられて武士の身分になりました。ただし身分は藩主の直臣ではなく、家臣のさらに家臣にあたる私領士でした。

『大久保利通伝』には、純然たる町人の出でありながら胆力と義気があった、という趣旨の評が見えるとされます。島田左近を斬ったことで京都の志士のあいだに名が知れ、武市半平太と義兄弟になったことで、薩摩の外にも足場を持ちました。身分の壁を、剣と行動で越えようとした人だったといえます。

逸話

一言も話さずに自刃

捕らえられたあと、奉行所で現場に残された刀を見せられても、新兵衛は一言も答えませんでした。そして隙をついて脇差で腹を切り、返す刃で喉を突いて死んだと伝わります。

三島由紀夫が演じた新兵衛

昭和44年(1969年)の映画『人斬り』では、作家の三島由紀夫が新兵衛を演じました(映画は創作です)。

関わった事件

本間精一郎暗殺(文久2年閏8月20日)

越後出身の志士・本間精一郎を、岡田以蔵ら土佐の者たちとともに京都の先斗町・木屋町あたりで襲いました。同じ尊王攘夷派の仲間うちの暗殺です(本間精一郎暗殺とは)。

そのほか関わったとされる事件

文久2年9月23日、近江の石部宿で京都町奉行所の与力ら4人が殺された事件には、薩摩の者も加わったとされます。文久3年1月29日の千種家の家臣・賀川肇の殺害も一般には新兵衛の仕業とされますが、別の説もあります。

姉小路公知暗殺(朔平門外の変、文久3年5月20日)

攘夷派の公家の中心だった姉小路公知が、御所の朔平門外・猿ヶ辻で襲われて亡くなりました。現場には「奥和泉守忠重」の銘がある薩摩風の刀と木履(下駄)が残されており、この刀が新兵衛の差料だとされたことが、捕縛の決め手になりました。一方で、刀は数日前に盗まれていたという説や、新兵衛を陥れるためだったという説もあり、真相はいまも分かっていません(姉小路公知暗殺(朔平門外の変)とは)。

最期—奉行所での自刃

京都町奉行所で刀と木履を前に取り調べを受ける田中新兵衛の場面のイラスト
刀と木履を前に、口を閉ざす新兵衛(イメージイラスト)

文久3年(1863年)5月26日、会津藩が東洞院蛸薬師の住まいに踏み込んで新兵衛を捕らえ、京都町奉行所へ連れて行きました。その日のうちに、取り調べの最中に自刃します。本人が何も語らずに死んだため、姉小路暗殺の真相は闇に残りました。この事件で薩摩藩は御所の警備を外され、それが同じ年の八月十八日の政変につながっていきます。

新兵衛の墓所は、確かな資料で確認できていません。

田中新兵衛ゆかりの地

朔平門外・猿ヶ辻(京都市上京区、京都御苑)

姉小路公知が襲われた現場です。御所の北東の角で、築地塀の屋根の下に烏帽子をかぶった猿の彫り物が置かれていることから「猿ヶ辻」と呼ばれます。

本間精一郎遭難の地の碑(京都市中京区先斗町)

本間精一郎が襲われた場所に碑が立っています。くわしくは本間精一郎暗殺とはで紹介しています。

木屋町・東洞院蛸薬師(京都市中京区)

島田左近を襲った木屋町、新兵衛が捕らえられた住まいがあった東洞院蛸薬師は、いずれも京都の中心部です。後者に碑があるかは確認できていません。

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参考資料

  • Wikipedia「田中新兵衛」
  • コトバンク「田中新兵衛」(世界大百科事典・日本人名大辞典)
  • Wikipedia「朔平門外の変」
  • Wikipedia「本間精一郎」
  • 山村竜也「勝海舟は『冷たい男』と呼んだ…」(WEB歴史街道)
  • 戦国ヒストリー「田中新兵衛」
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