金子孫二郎とは何をした人物か—桜田門外の変を江戸で総指揮した水戸藩の郡奉行。品川で待った知らせ、四日市での捕縛、伝馬町の最期とゆかりの地

金子孫二郎の肖像

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金子孫二郎の肖像
金子孫二郎の肖像(パブリックドメイン)

金子孫二郎(かねこ まごじろう)は、水戸藩の郡奉行で、安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変を計画し、全体を指揮した人です。自分は斬り込みに加わらず、品川の宿で結果の知らせを待っていました。

井伊直弼を討つことには成功しましたが、その後に予定していた薩摩藩との「次の一手」はかなわず、金子は捕らえられて斬罪となりました。藩・身分、幕末の歩み、出世の経緯、逸話、事件、最期、ゆかりの地の順にたどります。

目次

金子孫二郎とは—先に答え

藩・身分 水戸藩士。川瀬教徳の次男で、金子孫三郎能久の養子に入る
生没 文化元年(1804年)〜文久元年(1861年)7月26日。享年58
名前 号は錦村。潜伏中は「西村東右衛門」と名乗ったとされる
幕末に何をした 郡奉行として徳川斉昭の改革を支え、桜田門外の変では江戸での襲撃計画を立てて全体を指揮
出世の経緯 小普請組→歩行目付→吟味役→奥右筆→郡奉行。斉昭を藩主に推した改革派の一人
事件 桜田門外の変(安政7年3月3日)
最期 伊勢四日市で薩摩藩に捕らえられ、幕府に引き渡されて江戸・伝馬町で斬罪
墓所 水戸市の常磐共有墓地

水戸藩士の家に生まれ、金子家を継ぐ

金子孫二郎は文化元年(1804年)、水戸藩士・川瀬教徳の次男として生まれ、同じ水戸藩士の金子孫三郎能久の養子になりました。はじめは小普請組という、役についていない藩士の組に属していました。

文政12年(1829年)、水戸藩で次の藩主を誰にするかが争われると、実父の教徳らとともに徳川斉昭を推しました。斉昭が藩主になると、その下で取り立てられていきます(水戸藩)。

幕末に何をしたのか—郡奉行から桜田門外の変へ

郡奉行として民政を担う

郡奉行は、村々を治め、年貢や農村の立て直しを受け持つ役です。金子は同じ郡奉行の吉成信貞らとともに、斉昭の藩政改革を村の側から支え、民政に手腕があったと評されています。

斉昭の処分と雪冤運動

弘化元年(1844年)、斉昭が幕府から隠居・謹慎を命じられると、金子は処分を解いてもらうための運動に奔走し、自らも禁固の罰を受けました。斉昭が政界に戻ると金子も復帰し、ふたたび郡奉行として安政の改革を進めます。

密勅と安政の大獄

安政5年(1858年)、朝廷から水戸藩に「戊午の密勅」が下されると、幕府はその返納を迫りました。金子は返納に反対して動きましたが、かないませんでした。安政の大獄で斉昭が永蟄居となり、水戸藩への締めつけが強まるなか、金子は高橋多一郎とともに、大老・井伊直弼を討つ計画を進めます(日米修好通商条約と安政の大獄)。

江戸での襲撃を受け持つ

計画では、京都・大坂で薩摩藩兵と動くのが高橋、江戸での襲撃を立てて指揮するのが金子、と役割が分けられていました。安政7年2月18日の夜、金子は嫡男の勇次郎や稲田重蔵、佐藤鉄三郎らを連れて水戸を出て、江戸へ向かいます。

出世した経緯—斉昭を推した改革派として

金子の歩みは、徳川斉昭とともにありました。継嗣争いで斉昭を推したことから、斉昭のもとで歩行目付、吟味役、奥右筆と進み、郡奉行に就きます。斉昭が処分されると自分も罰を受け、斉昭が戻ると自分も復職するという浮き沈みも、斉昭と重なっています。

逸話

山崎屋での最終決定

3月1日、金子は日本橋西河岸の山崎屋に、関鉄之介、斎藤監物、稲田重蔵、佐藤鉄三郎、薩摩藩の有村雄助らを集め、決行を3月3日、場所は登城中の桜田門外と決めたと伝わります。4〜5人を一組にすること、まず行列の先頭を討ち、駕籠のまわりが乱れたすきに大老を討つこと、負傷した者は自害するか老中に自訴すること、残りは京へ向かうことなど、細かな手順も定めたとされます。

斬り込みに加わらない総指揮

金子は全体の統率、関は現場の指揮と役割を分け、二人とも斬り込みには加わりませんでした。結末を見届けた岡部三十郎と畑弥平が、品川の川崎屋で待つ金子に報告する段取りでした。3月2日の夕方には、品川宿の相模屋で別れの酒宴が開かれています。

関わった事件—桜田門外の変

安政7年(1860年)3月3日の朝、雪のなか、水戸浪士17人と有村次左衛門が桜田門外で井伊直弼の行列を襲い、大老を討ちました(桜田門外の変)。知らせを受けた金子は、次の計画のため、佐藤鉄三郎と薩摩藩の有村雄助とともに京へ向かいます。

最期—四日市での捕縛と伝馬町

しかし、幕府に藩士が捕らえられることを恐れた薩摩藩は、道中の伊勢四日市で一行を捕らえ、伏見の薩摩藩邸へ送りました。有村雄助は鹿児島へ送られて藩の命で自刃し、金子と佐藤は幕府に引き渡されて江戸へ送られます。薩摩藩兵が京へ上るという約束は果たされず、高橋多一郎も大坂で自刃しました。

金子は江戸の伝馬町の牢に入れられ、文久元年(1861年)7月26日に斬罪となりました。享年58。明治になって正四位が贈られ、靖国神社にまつられています。

金子孫二郎ゆかりの地

常磐共有墓地(茨城県水戸市)

水戸藩士の墓が集まる墓地で、金子孫二郎の墓もここにあります。桜田門外の変に関わった人びとの墓が多く、高橋多一郎の墓もあります(現地取材:常磐共有墓地)。

桜田門(東京都千代田区)

事件の現場。江戸城の外桜田門で、今も門が残っています。

品川宿(東京都品川区)

決行前に浪士たちが泊まり、金子が知らせを待った宿場町です。当時の建物は残っていませんが、旧東海道の道筋をたどることができます。

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参考資料

  • コトバンク「金子孫二郎」(デジタル版 日本人名大辞典+Plus、世界大百科事典)
  • コトバンク「桜田門外の変」
  • Wikipedia「金子孫二郎」
  • Wikipedia「桜田門外の変」
  • Wikipedia「有村雄助」