幕末・明治の暗殺事件 特集:桜田門外の変から伊藤博文暗殺まで、19の事件を年表とともにまとめています。▶ 暗殺事件の特集を見る
依田雄太郎(よだ ゆうたろう)と鈴木豊次郎(すずき とよじろう)は、慶応3年(1867年)8月14日の朝、京都で将軍・徳川慶喜の側近・原市之進を斬った幕臣です。外国の敵でも倒幕派の志士でもなく、同じ幕府に仕える者が将軍の側近を討った、異例の事件でした。
二人の名は記録の中にわずかに残るだけですが、依田は講武所で槍術を教え、清河八郎の浪士組の取締役も務めた人でした。分かっていることを、身分、幕末の歩み、立場の変化、逸話、事件、最期、ゆかりの地の順にまとめます。確かな肖像は伝わっていません。
依田雄太郎・鈴木豊次郎とは—先に答え
| 身分 | 依田:江戸・小石川の生まれ、御先手鉄砲組与力・依田左助の子。鈴木:小普請金集手伝・鈴木用右衛門の子で、兄は蕃書調所下番の鈴木恒太郎 |
|---|---|
| 名前 | 依田は哲二郎とも |
| 生没 | 生年は不明(記録には依田24歳、豊次郎26歳とするものもある)。慶応3年(1867年)8月14日ごろ死去 |
| 幕末に何をした | 依田:講武所で槍術を教え、一橋慶喜に従って上洛、浪士組の取締役並出役。鈴木:兄とともに行動 |
| 立場の変化 | 依田は高橋泥舟・山岡鉄舟の門人だったが、のちに師を「叛臣」と批判したとされる |
| 事件 | 原市之進暗殺(慶応3年8月14日の朝、京都の原の宿所) |
| 最期 | 原を斬ったあと、老中・板倉勝静の屋敷へ向かい、その前後で落命。最期の様子は記録によって異なる |
二人の幕臣
依田雄太郎
依田雄太郎は、江戸・小石川御箪笥町で、幕府の御先手鉄砲組の与力・依田左助の子として生まれました。槍の腕に優れ、幕府の武芸訓練所である講武所で槍術を教えた剣客でした。高橋泥舟・山岡鉄舟の門人でもあったといわれます。
鈴木豊次郎
鈴木豊次郎は、小普請金集手伝の鈴木用右衛門の子です。兄の恒太郎は幕府の洋学研究機関・蕃書調所の下番で、伝通院の塔頭・処静院の住職だった琳瑞や、原市之進の弟子・綿引泰と親しかったとされます。豊次郎自身の経歴は、ほとんど伝わっていません。伊賀者だったとする紹介もあります。
幕末に何をしたのか
依田、浪士組の取締役に
文久2年(1862年)12月、依田は一橋慶喜に従って京都に上りました。翌文久3年3月には、清河八郎が率いて京都に来ていた浪士組の取締役並出役となり、浪士組とともに江戸へ戻っています(清河八郎暗殺とは)。浪士組の取締出役には佐々木只三郎もいました。
江戸を出奔し、京都へ
慶応3年(1867年)7月11日、依田は鈴木恒太郎・豊次郎の兄弟とともに江戸を出奔し、京都へ向かいました。目指したのは、慶喜の懐刀として幕政を動かしていた原市之進でした。
立場の変化—将軍の側近を憎んだ幕臣
原市之進は水戸藩の出身で、慶喜の将軍就任とともに幕臣となり、兵庫開港などの重要な政策に深く関わっていました。攘夷を望む者たちの目には、原こそが将軍を誤らせている張本人と映ったのです。依田はかつて師と仰いだ高橋泥舟・山岡鉄舟を、のちに「叛臣」と呼んで批判したとも伝えられ、幕臣の中にも深い亀裂があったことがうかがえます。
逸話—黒幕は誰か
事件の黒幕については、昔から諸説があります。山岡鉄舟が仲間に原を斬るよう口にし、依田らがそれを真に受けたという話や、高橋泥舟が関わったという説、京都の本圀寺に詰めていた水戸藩の攘夷派の差し金だという説です。研究者の中には山岡・高橋の関与が有力とみる人がいる一方、『霊山歴史館紀要』の論文のように、高橋・山岡黒幕説を否定する研究もあります。確かなことは分かっていません。
関わった事件—原市之進暗殺(慶応3年8月14日)

8月14日の朝、二人は遊撃隊の者と名乗って京都の原の宿所を訪ね、面会を求めました。原は出仕前に髪を結わせている最中で、二人は隣の部屋に通されます。二人は刀を抜いて踏み込み、原を背後から斬りました。二人は原の首を持って、二条城近くの老中・板倉勝静の屋敷へ向かいましたが、原の若党らが追いかけて首を取り返したと伝わります。兄の鈴木恒太郎は板倉の屋敷で待っており、原と梅沢孫太郎の名を挙げた斬奸趣意書(上書)を持っていたとされます。くわしくは原市之進暗殺とはをどうぞ。
最期—板倉の屋敷の前で
二人の最期は、記録によって食い違います。二人とも板倉の屋敷の前で斬り殺されたとするもの、鈴木(恒太郎)が屋敷の前で切腹し、依田は追っ手に討たれたとするもの、依田が切腹し、鈴木は切腹しそこねて討たれたとするもの、依田は原を斬ったあと自害したとするものがあります。いずれにしても、三人はこの日のうちに命を落としたとみられます。辞世や墓所は伝わっていません。
原の死は慶喜にとって大きな痛手となり、この2か月後、慶喜は大政奉還に踏み切ります。原の墓は京都東山の長楽寺と、水戸の常磐共有墓地にあります。
依田雄太郎・鈴木豊次郎ゆかりの地
二条城と板倉邸の跡(京都市中京区)
二人が原の首を持って向かった老中・板倉勝静の屋敷は、二条城の近くにありました。板倉勝静は備中松山藩の藩主です。
講武所の跡(東京都)
依田が槍術を教えた幕府の武芸訓練所です。はじめ築地に置かれ、のちに神田小川町に移りました。
長楽寺(京都市東山区)
討たれた原市之進の墓がある寺です。
幕末・明治の暗殺事件を読む
- 桜田門外の変(1860)—大老・井伊直弼
- 坂下門外の変(1862)—老中・安藤信正
- 吉田東洋暗殺(1862)—土佐藩の参政
- 本間精一郎暗殺(1862)—木屋町の天誅
- 目明し文吉の殺害(1862)—三条河原
- 清河八郎暗殺(1863)—麻布一ノ橋
- 姉小路公知暗殺・朔平門外の変(1863)
- 芹沢鴨暗殺(1863)—壬生・八木邸
- 平岡円四郎暗殺(1864)—一橋慶喜の側近
- 佐久間象山暗殺(1864)—三条木屋町
- 原市之進暗殺(1867)—将軍慶喜の側近
- 赤松小三郎暗殺(1867)—東洞院通
- 坂本龍馬暗殺・近江屋事件(1867)
- 油小路事件(1867)—伊東甲子太郎
- 横井小楠暗殺(1869)—寺町丸太町
- 大村益次郎暗殺(1869)—兵部大輔の死
- 大久保利通暗殺・紀尾井坂の変(1878)
- 森有礼暗殺(1889)—憲法発布の朝
- 伊藤博文暗殺(1909)—ハルビン駅
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参考資料
- Wikipedia「依田雄太郎」
- Wikipedia「鈴木恒太郎」
- Wikipedia「原市之進」
- コトバンク「原市之進」(日本人名大辞典ほか)
- 松本佳子『原市之進 徳川慶喜のブレーン』(筑波書林、1990年)
- 浦出卓郎(『霊山歴史館紀要』24号、2019年)

