【現地取材】清河神社(清川)― 北辰一刀流を極め、新選組を生んだ男・清河八郎

最上川のほとり、庄内町清川。この静かな川の集落は、幕末に「明治維新の魁(さきがけ)」と呼ばれた一人の志士――清河八郎(きよかわはちろう)の生まれた地です。北辰一刀流の剣を極め、学問を極め、そしてある意味で新選組を生み出した男。あいにくこの日は月曜日で記念館は休館でしたが、清河神社の境内をゆっくり散策してきました。

木立に包まれた清河神社の社殿。清河八郎を祭神としてまつる、生地・清川に鎮座する神社
木立に包まれた清河神社の社殿。清河八郎を祭神としてまつる、生地・清川に鎮座する神社
目次

文武を極めた男 ― 清河八郎

清河八郎は天保元年(1830)、清川村の郷士・齋藤家の長男として生まれました。十八歳で江戸に出ると、経学を東條一堂に学び、昌平坂学問所にも入って学問を修めます。かたわら剣は北辰一刀流を修め、万延元年(1860)には兵法免許を得た――まさに「北辰一刀流も極めて学問も極めて」を地で行く人物でした。江戸神田に清河塾を開き、やがて尊王攘夷運動の中心的な論客となっていきます。

「史跡 御殿林」の案内板。庄内藩主の御殿が置かれた林で、戊辰戦争「清川口の戦い」の舞台にもなった
「史跡 御殿林」の案内板。庄内藩主の御殿が置かれた林で、戊辰戦争「清川口の戦い」の舞台にもなった

新選組の、生みの親

筆者が「ある意味で新選組の生みの親」と感じた、その一件がこれです。文久三年(1863)、清河は「将軍上洛の警護」という名目を幕府に建策し、腕自慢の浪士を集めた「浪士組」を結成して京へ上りました。しかし清河の本心は、この集団を朝廷のための尊王攘夷の兵にすることにありました。

京に着くやいなや清河がその本音を明かすと、隊は割れます。これに反発して京に残った近藤勇・芹沢鴨らの一派が、のちの「新選組」となりました。いっぽう清河に従って江戸へ戻った本隊は、庄内藩お預かりの「新徴組(しんちょうぐみ)」となります。つまり、新選組も新徴組も、もとをたどれば清河八郎がつくった一つの浪士組から分かれたもの。清河が「新選組の生みの親」と呼ばれるゆえんです。

ただし清河自身は、その才気ゆえに幕府から危険視され、江戸に戻った直後の文久三年(1863)四月、麻布で暗殺されてしまいます。享年三十四。維新の五年前、あまりに早い最期でした。

清河神社の由緒を記した案内板。境内には清河八郎記念館も隣接する(この日は休館日だった)
清河神社の由緒を記した案内板。境内には清河八郎記念館も隣接する(この日は休館日だった)

清川という土地 ― 御殿林と清川口の戦い

清河が生まれた清川は、最上川の舟運で栄えた庄内の玄関口でした。境内の「御殿林(ごてんばやし)」は、もともと庄内藩主が休息する御殿が置かれた林で、松尾芭蕉が『おくのほそ道』で最上川を舟で下った際にも通った地です。そして皮肉なことに、この清川は戊辰戦争「清川口の戦い」の戦場にもなりました。清河八郎を生んだ土地が、彼の死の五年後、新政府軍と庄内藩がぶつかる最前線になったのです。

記念館が閉まっていたのは残念でしたが、静かな御殿林と清河神社の杜(もり)を歩くだけでも、文武両道の志士がここで育ち、時代の先頭を駆け抜けていったことが、しみじみと感じられました。

場所・アクセス・地図

清河神社・清河八郎記念館 所在地:山形県東田川郡庄内町清川字上川原。JR清川駅から徒歩約10分。記念館は月曜休館(訪問時)。隣接して御殿林。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次