那須信吾とは何をした人物か—吉田東洋を斬った土佐勤王党の郷士。梼原の婿養子、龍馬の脱藩、天誅組での最期とゆかりの地

那須信吾の肖像

幕末・明治の暗殺事件 特集:桜田門外の変から伊藤博文暗殺まで、19の事件を年表とともにまとめています。▶ 暗殺事件の特集を見る

那須信吾の肖像
那須信吾(パブリックドメイン)

那須信吾(なす しんご)は、文久2年(1862年)4月8日の雨の夜、土佐藩の参政・吉田東洋を斬った土佐勤王党の志士です。その半月ほど前には、脱藩する坂本龍馬を梼原の家に泊め、国境まで送り出してもいます。

東洋を斬って土佐を出た信吾は、翌年、天誅組の挙兵に加わり、大和の山中で戦死しました。藩と身分、幕末の歩み、立場の変化、逸話、事件、最期、ゆかりの地の順にたどります。

目次

那須信吾とは—先に答え

藩・身分 土佐藩。実父は家老・深尾家の家臣の浜田光章。梼原の郷士・那須俊平の婿養子となり郷士に
生没 文政12年(1829年)11月11日〜文久3年(1863年)9月24日。享年35
名前 本姓は浜田、諱は重民、幼名は虎吉。変名は石原幾之進・田中幾之進
親族 養父は槍の名手・那須俊平、甥に田中光顕
幕末に何をした 土佐勤王党に加わり、龍馬の脱藩を助け、吉田東洋を暗殺して脱藩
事件 吉田東洋暗殺(文久2年4月8日)、天誅組の変
最期 天誅組の軍監として大和・鷲家口で彦根藩の陣に斬り込み、撃たれて戦死
墓所 東吉野村の明治谷墓地(奈良県)、梼原の六志士の墓、京都の霊山

深尾家の家臣の子から、梼原の郷士へ

那須信吾は文政12年(1829年)、土佐藩の家老・深尾家の家臣だった浜田光章の三男として生まれました。幼いうちに父を亡くし、若いころは頭を丸めて医者の修業をしていましたが、やめて武士を目指したと伝わります。

安政2年(1855年)、山あいの梼原村の郷士で、槍術の道場を開いていた那須俊平の娘・為代の婿となり、那須信吾と名を改めました。俊平は「土佐一の槍の名手」といわれた人です。家老の家臣(陪臣)の子だった信吾は、この婿入りで藩の郷士となり、梼原に道場という足場を得ました。のちに明治政府の重鎮となる田中光顕は、信吾の甥にあたります。

幕末に何をしたのか—土佐勤王党と龍馬の脱藩

土佐勤王党に加わる

文久元年(1861年)、武市半平太(瑞山)が結成した土佐勤王党に加わりました。梼原の那須家の道場は、勤王の志士たちが密談する場所にもなりました(【現地取材】武市半平太ゆかりの地を歩く)。

龍馬の脱藩を助ける

文久2年3月24日、坂本龍馬は高知を出て、翌日梼原に着き、那須家に泊まりました。26日、信吾と俊平の父子は龍馬を案内して宮野々の番所を抜け、伊予との国境の韮ヶ峠へ向かいます。どこまで送ったかは伝えによって違い、信吾は韮ヶ峠で引き返したともいわれます。

吉田東洋を斬り、脱藩

龍馬の脱藩から半月ほどあと、信吾は吉田東洋を斬り、自らも土佐を出ました(下の「関わった事件」)。その後は長州藩を頼り、京都に潜みます。

立場が上がった経緯—婿入りと天誅組の軍監

藩の役職に就いた記録はありません。信吾の人生を変えたのは、陪臣の子から梼原の郷士・那須家の婿となったことでした。郷士の身分と道場を得たことで、土佐勤王党の一員として表舞台に立つことになります。

脱藩後の文久3年8月、吉村虎太郎らが公家の中山忠光を担いで大和で挙兵した天誅組に、信吾は軍監(軍の監督役)として加わりました。幹部として、五条代官所の襲撃や、高取藩との談判の使者も務めています。死後の明治24年(1891年)、従四位を贈られました。

逸話

「天狗様」

身長は六尺(約180センチ)近くあり、「天狗様」と呼ばれたと伝わります。

馬より速い脚

片道2日かかる梼原から高知城下までの25里(約100キロ)を1日で走った、と噂されました。

怪力

重い十匁の火縄銃を、立ったまま撃てるほど力が強かったといわれます。

黒駒勝蔵のもとにいた?

東洋を斬ったあと、甲斐の侠客・黒駒勝蔵のもとに「石原」と名乗る武士が身を寄せており、それが信吾だったという説があります。大正の初めに書かれた本による話で、確かめられてはいません。

関わった事件

吉田東洋暗殺(文久2年4月8日)

東洋は土佐藩の参政として、山内容堂のもとで藩政改革を進め、身分にとらわれない人材登用を行う一方、武市半平太の尊王攘夷論には耳を貸しませんでした。4月8日の夜、藩主・山内豊範への講義を終え、雨の中を帰る東洋を、信吾は大石団蔵・安岡嘉助とともに襲って斬りました。武市の指示によるものとされます。東洋の死で改革派は退けられ、土佐勤王党が一時、藩の動きを大きく左右するようになります。くわしくは吉田東洋暗殺とはをどうぞ。

天誅組の変(文久3年8月〜9月)

8月17日、天誅組は大和の五条代官所を襲って挙兵しました。しかし直後の8月18日の政変で朝廷の方針が変わり、天誅組は討伐される側になります。信吾は8月30日の夜、紀州藩の陣に夜襲をかけて火を放ち、武器や食料を奪うなど奮戦しましたが、諸藩の兵に追いつめられていきました。

最期—鷲家口の決死隊

文久3年9月24日、大和の鷲家口(現在の奈良県吉野郡東吉野村)で、天誅組は彦根藩などの兵に囲まれました。信吾は主将の中山忠光を逃がすため、自ら願い出て宍戸弥四郎ら6人の決死隊を組んで隊長となり、彦根藩の陣に斬り込みます。脇本陣・碇屋の前で彦根藩士を倒し、さらに進もうとしたところを撃たれて戦死しました。35歳でした。

辞世は「君ゆえに惜しからぬ身をながらえて今この時にあふぞうれしき」と伝わります。首は京都に運ばれ、吉村虎太郎らの首とともに粟田口にさらされました。養父の俊平も翌年、禁門の変で戦死しています。

那須信吾ゆかりの地

維新の門(高知県高岡郡梼原町)

梼原町の和田城跡に、平成7年(1995年)に建てられた8人の志士の群像があり、那須俊平・信吾父子の像も並んでいます。群像は龍馬が越えた韮ヶ峠の方を向いています。駐車場は梼原町役場を利用できます。

那須俊平・信吾邸跡(梼原町)

龍馬が脱藩の途中に泊まった那須家の跡です。俊平の銅像が立っています。

六志士の墓(梼原町)

吉村虎太郎、那須信吾、那須俊平、中平龍之助、掛橋和泉、前田繁馬の6人の墓が並びます。見学は自由です。

天誅義士明治谷墓地(奈良県吉野郡東吉野村小川)

明治27年(1894年)に村人たちが建てた天誅組の志士の墓所で、信吾の墓もあります。近くに「天誅組終焉之地」の碑があります。

吉田東洋遭難の地(高知市帯屋町のあたり)

東洋が斬られた高知城下です(吉田東洋暗殺とは)。

▶ 暗殺した側の人物をもっと読む

あわせて読みたい

参考資料

  • Wikipedia「那須信吾」
  • コトバンク「那須信吾」(日本人名大辞典)
  • Wikipedia「吉田東洋」
  • Wikipedia「那須俊平」
  • ニッポン旅マガジン「維新の門」
  • じゃらん「六志士の墓」
  • URLをコピーしました!
目次