幕末・明治の暗殺事件 特集:桜田門外の変から伊藤博文暗殺まで、19の事件を年表とともにまとめています。▶ 暗殺事件の特集を見る
西野文太郎(にしの ぶんたろう)は、明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法が発布されたその朝に、初代文部大臣・森有礼を刺した青年です。西野はその場で斬られ、森も翌日に亡くなりました。
動機は、森が伊勢神宮で不敬なふるまいをしたという噂でした。その噂が本当だったかは、今も分かっていません。幕末の暗殺の時代が終わったはずの明治半ばに起きた事件の当事者を、生い立ち、事件までの歩み、立場、逸話、事件、最期、ゆかりの地の順にたどります。確かな肖像は伝わっていません。
西野文太郎とは—先に答え
| 身分 | 長州藩士・西野義一の長男(士族)。山口の出身 |
|---|---|
| 生没 | 慶応元年(1865年)9月9日〜明治22年(1889年)2月11日。享年23(生年を明治2年とし、21とする辞典も) |
| 学び | 山口の黒城塾、山口中学校で学ぶ |
| 事件までの歩み | 上京と帰郷をくり返し、山口県庁、東京の私塾の教師、内務省土木局などに勤める |
| 事件 | 明治22年2月11日、文部大臣官邸で森有礼を刺す |
| 最期 | その場で、文部省の役人に斬られて死去 |
| 墓所 | 山口市の神福寺。東京の谷中にもあったと伝えられる |
長州藩士の家に生まれる
西野文太郎は慶応元年(1865年)、長州藩士・西野義一の長男として生まれました(明治2年生まれとする辞典もあります)。父の義一は、山口の豊栄神社の神官だったとされます。文太郎は山口の黒城塾と山口中学校(現在の山口県立山口高校)で学びました。明治維新を長州藩が主導した、その地元で育った世代です。
事件までの歩み—上京と挫折
東京と山口を行き来して
文太郎は同郷の三浦梧楼を頼って東京に出ましたが、仕事が見つからずに帰郷し、山口県庁に勤めました。東京にいたあいだは講道館に通って柔道を習っています。
私塾の教師、そして内務省へ
明治19年(1886年)に県庁を辞めて再び上京し、黒城塾時代の友人・玉井喜作が開いた私塾「東京速成学館」で、総務と漢文の教師を務めました。しかしこの学館はドイツ語を中心にした西洋志向の学校で、国粋主義の文太郎は生徒の評判が悪く、まもなく辞めています。その後、内務省土木局に勤めました。
立場—西洋化への反発
文太郎は、藩閥政府の一員として出世した人ではありません。明治の東京で急速に進む西洋化に囲まれながら、国粋主義の立場を変えなかった青年でした。明治20年(1887年)ごろ、「森有礼文部大臣が伊勢神宮で不敬なふるまいをした」という報道が広まります。文太郎はこれを信じ、森を許せないと考えるようになったとされます。
逸話
正反対の親友
私塾を開いた玉井喜作はドイツに強くあこがれた人物で、のちにシベリアを横断してドイツに渡り、ベルリンで雑誌を出しました。文太郎とは考え方が正反対でしたが、ぶつかることはなく、親友だったと伝わります。
関わった事件—森有礼暗殺(明治22年2月11日)

森有礼は、薩摩藩英国留学生としてイギリスに学び、伊藤博文内閣の初代文部大臣として学校制度をつくった人です。開明的な考えで知られ、それゆえに保守的な人びとの反発も受けていました。
憲法発布の式典が行われる2月11日の朝、文太郎は永田町の文部大臣官邸を訪れ、「大臣を襲う計画がある」と知らせに来たと偽って応接間に通されました。通りかかった森に飛びかかり、隠し持っていた刃物で腹を刺します。森は手当てを受けましたが、翌12日の朝に亡くなりました。43歳でした。
文太郎が持っていた斬奸状には、森が伊勢神宮で靴を脱がずに上がり、杖で御簾を上げて中をのぞいたと書かれていました。しかしこの「不敬」が本当にあったかどうかは分かっておらず、森の部下だった木場貞長は後年、事実無根だと書き残しています。くわしくは森有礼暗殺とはをどうぞ。
最期—その場で斬られる
文太郎は、その場で文部省の役人に背後から斬られて亡くなりました。23歳(数え)でした。
事件のあとの世間の反応は、今から見ると驚くべきものでした。新聞は、名前を伏せて香典を送る人や、霊前で祭文を読む人がいたと伝え、東京の墓には花や線香が絶えず、芸者の参拝も多かったと報じています。日本に滞在していたドイツ人医師ベルツは、墓が「霊場参り」のようににぎわっていると日記に書き、この風潮を批判しました。政府は明治22年3月、事件をたたえた新聞・雑誌を発行停止にし、文太郎の伝記などを発売禁止にしています。
西野文太郎ゆかりの地
神福寺(山口市)
山口市の真言宗の寺で、本堂裏の墓地に「西野文太郎之墓」と、父・義一夫婦の墓などが並んでいます。
谷中(東京都台東区)
事件のあと参拝者が絶えなかった東京の墓は、谷中にあったと伝えられます。現在の場所は確認できていません。
文部大臣官邸の跡(東京都千代田区永田町)
事件の現場です。
幕末・明治の暗殺事件を読む
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- 油小路事件(1867)—伊東甲子太郎
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- 大村益次郎暗殺(1869)—兵部大輔の死
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- 森有礼暗殺(1889)—憲法発布の朝
- 伊藤博文暗殺(1909)—ハルビン駅
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参考資料
- Wikipedia「西野文太郎」
- コトバンク「西野文太郎」(日本人名大辞典)
- 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター「文相暗殺 保守層に英雄視する風潮も」
- Wikipedia「森有礼」
- 岡田常三郎『刺客西野文太郎の伝』(1889年、国立国会図書館デジタルコレクション)

