今井信郎とは何をした人物か—龍馬暗殺への関与を語った見廻組隊士。直心影流の剣、箱館戦争、明治の村長とクリスチャンへ、ゆかりの地

今井信郎の肖像写真

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今井信郎(パブリックドメイン)

今井信郎(いまい のぶお)は、京都見廻組の隊士として、坂本龍馬と中岡慎太郎が斬られた近江屋事件に加わったと自ら語った人です。見廻組が実行したという説の、いちばんの根拠になっている人物でもあります。

その証言は、年を経るごとに中身が変わりました。戊辰戦争を戦い抜き、明治には静岡の茶どころで村長を務め、キリスト教徒として大正まで生きた今井の生涯を、身分、幕末の歩み、取り立ての経緯、逸話、事件、最期、ゆかりの地の順にたどります。

目次

今井信郎とは—先に答え

身分 幕臣・今井守胤の長男。江戸本郷の湯島天神下の生まれ
生没 天保12年(1841年)10月2日〜大正7年(1918年)6月25日。享年78
名前 名は為忠(10歳の元服で名乗る)
幕末に何をした 直心影流の榊原鍵吉に学び講武所の師範代に。慶応3年に京都見廻組に入り、近江屋事件に加わったと供述
取り立ての経緯 剣の腕で講武所の師範代、岩鼻代官所の剣術指南を経て、見廻組の与力頭
戊辰戦争 古屋佐久左衛門の衝鋒隊の副隊長として東北を転戦し、箱館戦争で降伏
明治の歩み 明治5年に特赦。静岡県に出仕、八丈島で学校づくり、牧之原の初倉村で農業、村長。キリスト教に入信
墓所 寂円寺(東京都文京区白山)

幕臣の家に生まれ、直心影流を学ぶ

今井信郎は天保12年(1841年)、江戸の本郷湯島天神下で、幕臣・今井守胤の長男として生まれました。湯島聖堂で学問と絵を学び、安政5年(1858年)、直心影流の榊原鍵吉に入門します。わずか3年で免許を得て、幕府の武芸訓練所である講武所の師範代になりました。片手打ちを得意とした剣士です。

幕末に何をしたのか—京都見廻組へ

岩鼻代官所の剣術指南

慶応2年(1866年)の春、上州の岩鼻代官所に招かれ、1年の約束で剣術を教えました。岩鼻代官所は、上州(現在の群馬県高崎市)に置かれた幕府の代官所です。

京都見廻組に入る

慶応3年5月、江戸で京都見廻組への入隊を命じられ、10月に京都に着いて与力頭となりました。龍馬が斬られる、わずか1か月前のことです。見廻組は旗本・御家人でつくる京都の治安部隊で、与頭の一人が佐々木只三郎でした。

戊辰戦争と箱館

鳥羽伏見の敗戦のあと、今井は古屋佐久左衛門とともに脱走した幕府歩兵をまとめた衝鋒隊の副隊長となり、東北各地で戦いました。最後は箱館戦争に加わり、明治2年(1869年)に五稜郭で降伏しました。

取り立てられた経緯—剣と幕臣の身分

今井を引き上げたのは剣の腕でした。榊原鍵吉の門で頭角をあらわして講武所の師範代となり、代官所に招かれる剣術指南となり、見廻組では与力頭に選ばれます。見廻組は浪士を集めた新選組と違い、幕臣でなければ入れない部隊で、家柄と剣の両方がそろって初めて加われる場所でした。

明治になると、今度は学問と人望で地域の役職に就いていきます。明治5年(1872年)に特赦で放免されると、駿府で学校を開き、明治8年に静岡県に出仕、翌年から八丈島に赴任して大賀郷・樫立の小学校の開設に力を尽くしました。明治11年に牧之原台地の初倉村(現在の静岡県島田市)に移って茶畑を開き、榛原郡の農会長を20年務め、村会議員、そして明治39年から3年間、初倉村長を務めています。

逸話

妻と息子が語った「あの夜」

妻のいわは、帰ってきた今井が右手を焼酎で消毒していたこと、のちに「坂本と中岡とを斬った」と語ったことを伝えています。三男の健彦は「父は小太刀の名人といわれるが間違いで、長い刀を使った」「右手の人差し指が曲がったままだった」と語り、現場に鞘を忘れたのが誰かは父が言わなかった、とも伝えています。どれも家族の証言です。

西郷隆盛とのつながり

征韓論に敗れて鹿児島へ帰る西郷隆盛が、浜松の宿で今井の消息を尋ねて伝言を残したといいます。西南戦争では抜刀隊として鹿児島へ向かう予定でしたが中止になり、着いたら西郷の側につくつもりだった、と子に語ったと伝わります。

クリスチャンになった剣士

横浜の海岸教会で教えにふれ、メソジストの平岩愃保から洗礼を受けました。龍馬の甥・坂本直が営んだ龍馬の法要に出たとも伝えられます。

関わった事件—近江屋事件と変わる証言

近江屋事件(慶応3年11月15日)

京都河原町の醤油商・近江屋の2階で、坂本龍馬と中岡慎太郎が襲われました。事件の直後は、現場に残された鞘などから新選組が疑われました(坂本龍馬暗殺と新選組)。

明治3年の供述—「手は出していない」

箱館で降伏した今井は取り調べを受け、明治3年(1870年)、刑部省で「佐々木只三郎の指図で、渡辺吉太郎・高橋安次郎・桂早之助の4人が斬り込み、自分は見張りだった」と供述しました。これで見廻組の実行説が初めて公になります。9月に禁固と静岡藩への引き渡しの判決を受けました。

明治33年の談話—「自分が斬った」

明治33年(1900年)、今度は自分が斬ったとする今井の談話が新聞・雑誌に載りました。土佐出身の谷干城はこれを「売名」と批判しています。さらに明治42年には「暗殺ではなく、幕府の命令による職務上の捕縛だった」と主張しました。証言が変わった理由については、戦死した仲間をかばったのではないかという見方もあります。事件の全体像は坂本龍馬はなぜ暗殺されたのかで整理しています。

最期

今井は大正7年(1918年)6月25日に亡くなりました。78歳でした。墓は東京・白山の寂円寺にあり、父母・妻・娘とともに眠っています。三男の健彦は衆議院議員になり、その妻は歌人の今井邦子です。

今井信郎ゆかりの地

今井信郎屋敷跡(静岡県島田市阪本)

牧之原台地の茶畑の中に屋敷跡があり、平成15年(2003年)に建てられた顕彰碑、今井邦子の歌碑、今井の石像(台座を含め約2.5メートル)が立っています。見学は自由で、駐車スペースもあります。車は東名高速の吉田インターから約10分、JR島田駅からはコミュニティバスで「塚坂一丁目」下車、そこから約2キロ歩きます。茶畑の間の細い道を通るので、島田市観光協会の案内で場所を確かめてから行くと安心です。

寂円寺の墓(東京都文京区白山)

文京区白山4-37-30。都営三田線の千石駅・白山駅が最寄りです。

近江屋跡(京都市中京区)

事件の現場です。【現地取材】坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難の地で紹介しています。

五稜郭(北海道函館市)

今井が降伏した箱館政権の本拠地です(五稜郭)。

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参考資料

  • Wikipedia「今井信郎」
  • コトバンク「今井信郎」(日本人名大辞典)
  • Wikipedia「近江屋事件」
  • 島田市観光協会「今井信郎屋敷跡」
  • しずおか観光「今井信郎屋敷跡」
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