【現地取材】坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難の地(近江屋跡) ― 維新の立役者が斃れた場所

京都・河原町のにぎやかな通り沿いに、坂本龍馬と中岡慎太郎の「遭難之地」を示す碑が立っている。かつてここには醤油商「近江屋」があり、その二階で、日本の夜明けを誰よりも近くで見ようとしていた二人の若者が、凶刃に斃れた。大政奉還からわずか一ヶ月後、慶応三年十一月十五日のことである。行き交う買い物客の足もとで、その碑はいまも静かに時代の記憶を守っている。

河原町に立つ「坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難之地(近江屋跡)」の碑と、二人の肖像パネル
河原町に立つ「坂本龍馬・中岡慎太郎 遭難之地(近江屋跡)」の碑と、二人の肖像パネル
目次

坂本龍馬という男 ― 近江屋にたどり着くまで

坂本龍馬は、天保六年(一八三五)、土佐の郷士の家に生まれた。剣術修行のため江戸に出て北辰一刀流を学び、やがて土佐を脱藩する。斬るつもりで訪ねた幕臣・勝海舟に心服して弟子となり、神戸海軍操練所の設立に奔走したのは有名な逸話である。

その後、長崎で亀山社中(のちの海援隊)を率いて海運と貿易に乗り出し、いがみ合う薩摩と長州のあいだを命がけで取り持って、慶応二年(一八六六)に薩長同盟を成立させた。紀州藩との「いろは丸事件」では、万国公法を武器に大藩を相手取って賠償を勝ち取っている。そして慶応三年、土佐藩の後藤象二郎とともに、武力によらず政権を朝廷へ返す「大政奉還」を実現させた。時代を一気に前へと押し進めた、その働きの果てに、龍馬は京都・近江屋にたどり着いたのである。

なぜ近江屋にいたのか

このころの龍馬は、幕府方から明確に危険人物と見なされ、常に命を狙われる身だった。当初は醤油商ではなく材木商の酢屋に潜伏していたが、より安全を期して、土佐藩邸にほど近い河原町の近江屋(主人・井口新助)へと居を移していた。近江屋は龍馬をかくまうため、いざという時には裏の土蔵へ逃げられるよう用意していたとも伝わる。しかし運命の夜、風邪をひいて体調を崩していた龍馬は、母屋の二階にとどまっていた。

慶応三年十一月十五日の夜

その夜、陸援隊を率いる盟友・中岡慎太郎が龍馬を訪ね、二人は火鉢を囲んで天下の行く末を語り合っていた。奇しくもこの日は、龍馬の誕生日にあたるとも伝えられる。夜も更けたころ、「十津川郷士」を名乗る一団が訪ねてくる。取り次ぎに出た下僕の山田藤吉が斬られ、その物音を「ほたえな(騒ぐな)」と叱った龍馬の声で、二階に人がいることを刺客に悟られてしまった――そんな逸話も残る。

刺客はたちまち二階へ駆け上がり、抜き打ちに斬りかかった。不意を突かれた龍馬は、額を深々と斬られる。刀を取る間もなかったとも、鞘のまま受けたともいう。中岡もまた、全身に十数か所の刀傷を負って倒れた。嵐のような数分間が過ぎ、刺客は去っていった。あとには、血に染まった座敷と、倒れた二人だけが残された。

龍馬の最期

額を割られた龍馬は、それでも気丈に「石川(中岡の変名)、僕は脳をやられている、もういかん」と告げ、まもなく息を引き取ったと伝えられる。享年三十三。時代を誰よりも遠くまで見通していた男は、その新しい世の到来を見ることなく、この一室で世を去った。床の間に掛かっていた掛け軸には血しぶきが飛び、その「血染めの掛け軸」は今日、京都国立博物館などに伝えられ、その夜の惨劇を無言で物語っている。

二日後に逝った中岡慎太郎

深手を負いながらも、中岡慎太郎はその場で一命をとりとめた。土佐の庄屋の出で、陸援隊を率い、薩摩と土佐のあいだを奔走した中岡もまた、龍馬に劣らぬ維新の功労者である。彼は瀕死の床で、襲撃の一部始終を人々に語り残した。今日わかっている事件の様子の多くは、この中岡の証言によるところが大きい。しかし懸命の看護もむなしく、中岡は二日後の十一月十七日、龍馬のあとを追うように息を引き取った。享年三十。

誰が龍馬を斬ったのか

実行犯をめぐっては、長く激しい論争が続いてきた。かつては、日ごろ尊皇攘夷派と敵対していた新選組の仕業が強く疑われ、事件現場に残された刀の鞘が原田左之助のものだとする説もあった。しかし今日では、幕府方の治安組織「京都見廻組」――佐々木只三郎の指揮のもと、今井信郎らが実行したとする説が有力とされている。今井が後年になって関与を認めたことも、この説を裏づけた。大政奉還を主導した龍馬は、旧幕府勢力から見れば取り除くべき存在であり、その死は時代の激しさをそのまま映している。

大政奉還のわずか一ヶ月後

龍馬が斃れたのは、大政奉還が成った十月十四日から、わずか一ヶ月後のことだった。二百六十年余り続いた徳川の世を、大きな戦を経ずに終わらせる――その困難な事業を成し遂げた矢先の死である。伝えられるところでは、龍馬が構想した新政府の閣僚名簿には、自分自身の名がなかったという。「世界の海援隊でもやりましょう」と笑ったとも語り継がれるこの逸話は、権力に恬淡としていた龍馬の人柄を、何よりもよく示している。

龍馬が遺したもの

龍馬は志半ばに倒れたが、彼が蒔いた種は確かに実を結んだ。海運と貿易で国を富ませるという構想は、後の日本の近代化を先取りするものだったし、藩の垣根を越えて人と人を結びつける生き方は、多くの後進を勇気づけた。海援隊の同志たちは、明治の世でそれぞれに活躍していく。時代に先んじすぎたがゆえに早世した龍馬は、だからこそ今なお、多くの日本人に愛され続けているのだろう。

霊山に眠る二人

坂本龍馬と中岡慎太郎は、京都東山の霊山(りょうぜん)の地に、今も並んで静かに眠っている。維新に殉じた志士たちが多く葬られたこの丘からは、二人が命を賭して変えようとした京の町並みが見渡せる。近江屋跡の碑とあわせて、霊山の墓所を訪ねると、彼らの生涯がより深く胸に迫ってくる。

いろは丸事件 ― 龍馬、大藩を負かす

龍馬の非凡さを示す出来事の一つが、慶応三年に起きた「いろは丸事件」である。海援隊が借り受けた汽船・いろは丸が、瀬戸内海で紀州藩の軍艦・明光丸と衝突して沈没した。相手は徳川御三家の一つ、紀州藩。ふつうなら泣き寝入りしかねない相手である。ところが龍馬は、当時最先端の国際ルールであった「万国公法(国際法)」を持ち出し、世界の海の掟に照らして紀州の非を理路整然と突いた。

さらに「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る」といった歌を町で流行らせ、世論をも味方につけたと伝わる。結果、龍馬は紀州藩から多額の賠償金を勝ち取った。刀ではなく、論理と法と世論で大藩をねじ伏せる――そのやり方は、まさに来たるべき近代を先取りするものだった。龍馬という男の新しさが、よく表れた一件である。

「船中八策」― 新しい国のかたち

龍馬が構想した新国家の青写真として名高いのが、「船中八策」である。長崎から京へ向かう船の中で、後藤象二郎に示したとされるこの八か条には、政権を朝廷に返すこと(大政奉還)、上下二院の議会を設けること、有能な人材を登用すること、不平等条約を改めることなど、まさに明治新政府がのちに実現していく国家の骨格が、驚くほど具体的に描かれていた。一介の脱藩浪士が、これほどの国家構想を抱いていたこと自体が、龍馬の視野の広さを物語る。大政奉還は、この構想が現実の政治を動かした、最大の成果であった。

海援隊という集団

龍馬が率いた海援隊は、単なる浪士の集まりではなかった。それは、海運と貿易によって利益を上げ、その力で新しい時代を切り開こうとする、いわば商社と私設海軍を兼ねたような組織であった。土佐藩の外郭団体として公認され、長崎を拠点に、諸藩を相手に船を動かし、物資を運び、武器を扱った。陸奥宗光(のちの外務大臣)をはじめ、明治の世で活躍する人材も、この海援隊から巣立っている。「世界の海援隊でもやりましょう」という龍馬の言葉には、日本という枠すら超えて世界の海に乗り出そうとする、壮大な夢がこもっていた。

妻・お龍と、寺田屋の難

龍馬の生涯を語るうえで欠かせないのが、妻・お龍(おりょう)の存在である。慶応二年、伏見の寺田屋に潜んでいた龍馬が幕吏に襲われた「寺田屋遭難」の際、入浴していたお龍がいち早く危機を察し、裸のまま二階へ駆け上がって危急を知らせ、龍馬を救ったという逸話はよく知られている。傷を癒すために二人が薩摩へ湯治に出かけた旅は、日本初の新婚旅行とも語り継がれる。時代の荒波のなかで結ばれた二人だったが、龍馬の早すぎる死により、その暮らしはあまりに短いものに終わった。

暗殺の黒幕をめぐって

実行犯を京都見廻組とする説が有力である一方、その背後に誰がいたのか――「黒幕」をめぐる議論は今なお尽きない。大政奉還によって武力倒幕の大義を失いかけた薩摩の関与を疑う説、いろは丸事件などで龍馬を恨んでいた紀州藩の関与を挙げる説など、さまざまな推理が語られてきた。真相は、いまだ歴史の霧のなかにある。だが、これほど多くの人が「誰が龍馬を斬ったのか」を問い続けること自体が、龍馬という存在の大きさと、その死の衝撃の深さを、逆説的に物語っているのかもしれない。

中岡慎太郎という盟友

龍馬とともに斃れた中岡慎太郎について、もう少し語っておきたい。中岡は土佐の北川郷の庄屋の家に生まれ、武市半平太の土佐勤王党に加わって尊皇攘夷運動に身を投じた。やがて脱藩し、三条実美ら公卿を守って各地を転戦する。武力による倒幕を志向した中岡は、龍馬とともに薩摩と土佐を結ぶ「薩土盟約」の成立にも奔走した。龍馬が「和」を重んじたのに対し、中岡はより行動的で激しい気性の持ち主だったとも伝わる。方向性の違いを抱えながらも固く結ばれた二人は、まさに維新回天を支えた車の両輪であった。その二人が同じ夜、同じ座敷で凶刃に斃れたことは、歴史の大きな損失であった。

王政復古の直前に ― 緊迫の京都

龍馬と中岡が斃れた慶応三年十一月は、京都がこの上なく張りつめていた時期である。大政奉還によって政権は朝廷に返されたものの、その先の政治の主導権をめぐって、諸勢力の駆け引きは激しさを増していた。事件からわずか一ヶ月足らずのちの十二月九日には、薩摩や岩倉具視らが「王政復古の大号令」を発し、新政府の樹立を一気に宣言する。時代が音を立てて転換していくまさにその渦中で、それを誰よりも手繰り寄せた二人が退場したのである。もし龍馬が生きて明治を迎えていたら――その問いは、今なお多くの人の胸を去らない。

龍馬が遺した品々

龍馬にまつわる遺品は、その人物像を今に伝えている。実家から贈られ、暗殺の夜にも近くにあったとされる愛刀「陸奥守吉行」。高杉晋作から贈られ、寺田屋の難で一人を撃ったと伝わる短銃。そして、近江屋の惨劇の血しぶきを浴びた「血染めの掛け軸」。いずれも、龍馬という男が確かにこの世を駆け抜けた証である。とりわけ、日本人として早い時期に写真に収まった龍馬の、片手を懐に入れて立つあの肖像は、時代を先取りした彼の新しさを象徴するかのようで、今も多くの人の心をとらえて離さない。

繁華街の片隅で

今、この地は若者でにぎわう京都随一の繁華街である。行き交う人の多くは、足もとの碑にも気づかず通り過ぎていく。それでも碑の前には花が手向けられ、龍馬を慕う人が絶えないことを教えてくれた。あれほど時代を駆け抜けた男が、志半ばでこの場所に斃れたのだと思うと、雑踏の音が一瞬遠のくような、不思議な静けさを覚えた。案内板には、日本語だけでなく英語や中国語、韓国語でもその最期が記され、国境を越えて人々がこの地を訪れていることがうかがえた。

京都市による案内板。近江屋での襲撃の顛末が、多言語で詳しく記されている
京都市による案内板。近江屋での襲撃の顛末が、多言語で詳しく記されている

京都の幕末史跡めぐり:池田屋騒動の跡佐久間象山・大村益次郎 遭難の地海援隊とは新選組とは

近江屋跡へのアクセス・地図

地下鉄・阪急「京都河原町」駅からすぐ。河原町通と蛸薬師通の交差点付近にあります。三条・木屋町の史跡ともあわせて歩けます。

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