金輪五郎・団伸二郎とは何をした人物か—大村益次郎を襲った8人の刺客。秋田の草莽と長州の脱藩士、越前での捕縛、粟田口の処刑と弾正台事件

京都・木屋町の佐久間象山・大村益次郎遭難之碑

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佐久間象山・大村益次郎遭難之碑
京都・木屋町の佐久間象山・大村益次郎遭難之碑

明治2年(1869年)9月4日の夕方、京都・三条木屋町の宿で、新政府の兵部大輔・大村益次郎が8人の刺客に襲われました。大村は深い傷を負い、11月5日に亡くなります。日本の近代陸軍をつくろうとしていた人物の死でした。

このページでは、首謀者の一人神代直人以外の刺客のうち、資料の多い金輪五郎と団伸二郎を中心に、8人がどんな人たちだったのかをたどります。生い立ち、事件、捕縛、処刑、ゆかりの地の順です。

目次

大村益次郎を襲った刺客たち—先に答え

人数 8人。団伸二郎が率いたとされる
中心 長州(山口藩)出身の団伸二郎・神代直人・太田光太郎
金輪五郎 出羽・阿仁合銀山の生まれ。久保田藩家老・渋江家に仕えた草莽。天保4年(1833年)生まれ
ほかの加わった者 伊藤源助・宮和田進・五十嵐伊織・関島金一郎
事件 明治2年9月4日、京都・木屋町で大村益次郎を襲う
最期 越前などで捕らえられ、京都・粟田口で処刑(12月29日。27日説も)
処刑の直前 弾正台が執行に待ったをかけ、海江田信義らが謹慎となる

金輪五郎—秋田の銀山に生まれた草莽

生い立ち

金輪五郎の本名は志渡長治友行といいます。天保4年(1833年)、出羽国の阿仁合銀山(現在の秋田県北秋田市阿仁銀山)で、鉱山の下級役人の次男として生まれました。久保田藩(秋田藩)の家老・渋江内膳に仕え、家臣の格まで取り立てられています。

相楽総三との出会いと脱藩

文久元年(1861年)、のちに赤報隊を率いる相楽総三と知り合い、文久3年(1863年)に藩を抜けました。その後は、赤城山での挙兵の計画、水戸の天狗党の乱、江戸の薩摩藩邸に集まった浪士たちの動きに加わっていきます。

戊辰戦争での働き

鳥羽伏見の戦いのあとには、太政官から感謝の書状を受けました。秋田に戻ってからの戊辰戦争では、奥羽鎮撫副総督・澤為量の従者として、マタギの鉄砲隊を指揮したといいます(秋田戦争)。新政府のために戦った人物が、のちに新政府の高官を襲う側に回ったことになります。

団伸二郎と長州の若者たち

襲撃を率いたとされるのが、元長州藩士の団伸二郎です。金輪五郎を誘ったのも団でした。同じ長州からは、首謀者の一人である神代直人と、太田光太郎(大田とも)が加わっています。太田は、長州の大楽源太郎が開いた西山塾で神代と同じく学んだ塾生で、神代と一緒に暗殺を計画しました。

彼らは、大村が進める西洋式の兵制改革や、武士を兵の中心から外していく考え方に強く反発していました。団と太田の生まれた年や墓は、確かな資料では分かっていません。

8人の刺客

名前 出身(伝わるもの) その後
団伸二郎 長州(元長州藩士) 越前府中で捕縛、粟田口で処刑
神代直人 長州。大楽源太郎の西山塾 豊後の姫島に潜んだのち捕らえられる(最期は2説)
太田光太郎 長州。西山塾の塾生 越前府中で捕縛、処刑
金輪五郎 出羽・阿仁合銀山。久保田藩家老の家臣 敦賀で捕縛(越前府中とも)、粟田口で処刑
五十嵐伊織 越後(郷士・長岡藩・商人など諸説) 越前府中で捕縛、処刑
伊藤源助 白河藩の出身とされる 京都で処刑
関島金一郎 信濃・伊那郡の出身とされる 処刑
宮和田進 三河の出身とされる その場で斬られたとする記述がある

当日、8人のうち誰が大村にどう斬りかかったのかは、確かな資料でははっきりしていません。出身や最期も、伊藤・関島・宮和田については古い伝記を引いた記述しか見つからず、今後の確認が必要です。

関わった事件—大村益次郎襲撃

明治2年9月4日の夕方、刺客たちは京都・三条木屋町の宿で、来客と話していた大村を襲いました。大村はその場では命を取りとめましたが、脚の傷が悪化し、大阪の病院で右脚を切断したものの、敗血症のため11月5日に亡くなりました(大村益次郎暗殺)。

最期—粟田口の処刑と弾正台事件

越前での捕縛

刺客たちは京都を逃れましたが、9月7日の夜、越前の府中(現在の福井県越前市)で、団・太田・五十嵐・金輪らが捕らえられたとされます。金輪については、敦賀で捕まったとする記述もあります。

処刑に待ったをかけた弾正台

処刑は明治2年12月20日、京都の粟田口で行われる予定でした。ところが当日、役人の不正を取り締まる弾正台の京都の出張所が、手続きに不備があるとして京都府に執行の停止を求めます。刑部省が判決を弾正台の本台に回していなかった、というのが理由でした。

政府は執行を優先するよう指示し、刺客たちは12月29日(27日とする資料もあります)に粟田口で処刑されました。金輪五郎は数えで37歳でした。待ったをかけた京都の弾正台を率いていた海江田信義らは、謹慎50日の処分を受けています。海江田は刺客の浪士たちと付き合いがあったことを認めており、「海江田が大村を殺させた」という噂も立ちましたが、本人は否定しました。

ゆかりの地

佐久間象山・大村益次郎遭難之碑(京都市中京区)

木屋町通の高瀬川沿いに、佐久間象山の遭難の碑と並んで建っています。京阪三条駅や地下鉄の京都市役所前駅から歩いて行けます(現地取材:象山・大村遭難の地)。

専念寺(秋田県北秋田市)

金輪五郎の墓は、もとは秋田市の全良寺にありましたが、墓地の改修で失われました。平成28年(2016年)、血縁の人たちが北秋田市の専念寺に墓碑を建て直しています。

粟田口(京都市東山区・山科区)

刺客たちが処刑された刑場があった場所で、三条通が京都から山科へ抜ける峠道の入り口にあたります。

あわせて読みたい

参考資料

  • Wikipedia「金輪五郎」
  • Wikipedia「大村益次郎」
  • Wikipedia「海江田信義」
  • 『法学研究』72巻3号「弾正台と行政監察」(慶應義塾大学、1999年)
  • 田中惣五郎『大村益次郎』(1938年)
  • 吉田昭治『金輪五郎—草莽・その生と死』