河本杜太郎・河野顕三とは何をした人物か—坂下門外の変で老中・安藤信正を襲った越後と下野の医師の子。口火の一発、変名、闘死、ほかの実行者とゆかりの地
幕末・明治の暗殺事件 特集:桜田門外の変から伊藤博文暗殺まで、19の事件を年表とともにまとめています。▶ 暗殺事件の特集を見る
明治の坂下門(田山宗尭『日本写真帖』1912年、国立国会図書館所蔵、パブリックドメイン)
河本杜太郎(かわもと もりたろう)と河野顕三(こうの けんぞう)は、文久2年(1862年)1月15日、江戸城の坂下門外で老中・安藤信正の行列を襲った6人のうちの2人です。ほかの4人が水戸浪士だったのに対し、河本は越後、河野は下野の、どちらも医師の家の出でした。
襲撃では、河本が直訴を装って行列の前に飛び出し、駕籠に向けて撃った一発が合図になりました。しかし安藤は軽い傷で逃れ、6人はいずれもその場で斬られています。二人の生い立ち、事件、最期、ほかの実行者、ゆかりの地の順にたどります。
目次
河本杜太郎・河野顕三とは—先に答え
| 河本杜太郎 |
越後国魚沼郡十日町(新潟県十日町市)の医師の子。天保11年(1840年)生まれ、享年23。変名は豊原邦之助 |
| 河野顕三 |
下野国河内郡吉田村(栃木県下野市)の医師の子。天保9年(1838年)生まれ、享年25。変名は三島三郎 |
| 学び |
河本は尾台榕堂に医術、芳野金陵に儒学。河野は磯野貞績に医術、祖父の河野守弘に国学 |
| 事件 |
坂下門外の変(文久2年1月15日)。河本の発砲を合図に斬り込む |
| 最期 |
二人とも護衛に斬られ、その場で亡くなる |
| 補足 |
河本は「川本」と書かれることもある |
河本杜太郎—越後の医師の子
生い立ち
河本杜太郎は天保11年(1840年)、越後国魚沼郡十日町に医師の子として生まれました。先祖は上野国(群馬県)の出といわれます。名医として知られた尾台榕堂は、伯母の夫にあたります。
江戸での学びと破門
嘉永7年(1854年)ごろ江戸に出て、尾台榕堂に医術を、芳野金陵に儒学を、伊庭軍兵衛に剣術を学びました。しだいに激しい攘夷論に傾いて乱暴が目立つようになり、金陵から破門されて、一時は行き場を失ったといいます。
久坂玄瑞や大橋訥庵との出会い
そのころ知り合ったのが、長州藩の久坂玄瑞や儒者の大橋訥庵でした。久坂とは一時期いっしょに暮らしています。久坂が長州へ帰ると京へ上り、のちに暗殺される本間精一郎らと交わりました。文久元年(1861年)、和宮が将軍に嫁ぐことが決まったと知って江戸へ戻ると、老中・安藤信正を討つ相談が進んでおり、これに加わります。
河野顕三—国学者の孫
生い立ち
河野顕三は天保9年(1838年)、下野国河内郡吉田村に医師の子として生まれました。母方の祖父は、『下野国誌』を著した国学者の河野守弘です。父を早くに亡くし、江戸で磯野貞績に医術を、祖父の守弘に国学を学びました。
堀利熙の屋敷に身を寄せる
万延元年(1860年)に兄が亡くなって家を継ぎますが、江戸では外国奉行を務めた堀利熙の屋敷に身を寄せ、真岡の小山春山ら各地の尊王攘夷の志士と交わりました。文久元年、堀が謎の自刃をとげると、それが安藤への抗議だったという話が広まります。河野は大橋訥庵らの、公武合体を批判する人びとに加わり、安藤を襲う計画に参加しました。
関わった事件—坂下門外の変
口火を切った河本の一発
文久2年(1862年)1月15日の朝、登城のため坂下門外にさしかかった安藤の行列を、6人が襲いました。最初に河本が直訴を装って行列の前に飛び出し、駕籠に向けて撃ちます。弾は駕籠をそれて小姓の足に当たりましたが、この発砲を合図に残る5人が斬り込みました(坂下門外の変)。
安藤は軽傷で逃れる
護衛が乱れたすきに、平山兵介が駕籠に刀を突き入れ、安藤は背中に傷を負いましたが、駕籠を出て城内へ逃げ込みました。桜田門外の変のあと、老中の登城の警護は厳しくなっており、この日も供回りは50人を超えていたといいます(桜田門外の変)。
なぜ桜田門外のようにいかなかったのか
計画の中心だった大橋訥庵ら宇都宮側の人びとは、決行の3日前の1月12日に捕らえられ、加わるはずだった人数が減っていました。残った水戸浪士を中心に、6人だけで決行したことも、目的を果たせなかった理由の一つとされます。
最期—その場での闘死
6人はいずれも護衛に斬られて、その場で亡くなりました。河本は享年23、河野は享年25。警護の側にも十数人のけが人が出ましたが、死者はいなかったといいます。遺体は小塚原にさらされ、河野については、明治2年(1869年)に許されて改葬されたと伝わります。
事件の結果、安藤は4月に老中を退き、8月には隠居・蟄居を命じられ、磐城平藩は2万石を減らされました(磐城平藩)。安藤は助かりましたが、幕府の権威はさらに傷つきました。
坂下門外の変のほかの実行者
| 名前 |
出身・変名 |
最期 |
| 平山兵介 |
水戸浪士。変名は細谷忠斎 |
駕籠に刀を突き入れ、闘死 |
| 小田彦三郎 |
水戸浪士。変名は浅田儀助 |
闘死 |
| 黒沢五郎 |
水戸浪士。変名は吉野政介。第一次東禅寺事件にも加わる |
闘死 |
| 高畑総次郎 |
水戸浪士。変名は相田千之助。第一次東禅寺事件にも加わる |
闘死 |
| 川辺左次衛門 |
水戸浪士。遅れて襲撃に間に合わず |
長州藩邸で桂小五郎に斬奸趣意書を渡して自刃 |
川辺左次衛門が自刃したことで、応対した桂小五郎と伊藤博文は幕府から関わりを問われましたが、長州藩の長井雅楽の働きで放免されたといいます。
河本杜太郎・河野顕三ゆかりの地
坂下門(東京都千代田区)
事件の現場。今も皇居の門として残っており、二重橋の前から眺めることができます。
回向院(東京都荒川区南千住)
小塚原の刑場跡に近い寺で、幕末の志士の墓が多く集まっています。坂下門外の変の志士の墓もあると伝えられます。JR・地下鉄の南千住駅から歩いてすぐです。
十日町(新潟県十日町市)と下野市(栃木県)
河本と河野、それぞれのふるさとです。
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参考資料
- Wikipedia「河本杜太郎」
- Wikipedia「河野顕三」
- Wikipedia「坂下門外の変」
- 『越佐維新志士事略』(弥彦神社越佐徴古館、1922年)
- 栃木県教育会編『下野勤皇列伝』前編(1940年)