大橋訥庵とは何をした人物か—坂下門外の変を計画した江戸の儒者。思誠塾と『闢邪小言』、宇都宮藩の侍講、事件直前の逮捕と出獄4日後の死、ゆかりの地
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大橋訥庵の肖像(小林永濯・歌川芳虎筆、パブリックドメイン)
大橋訥庵(おおはし とつあん)は、江戸の儒学者で、文久2年(1862年)1月15日の坂下門外の変を計画した中心人物です。訥庵という号は、「とっつぁん(父っつぁん)」にしゃれて漢字を当てたものといわれます。
訥庵自身は決行の3日前に捕らえられ、事件の現場にはいませんでした。半年後に許されて牢を出ましたが、そのわずか4日後に亡くなっています。身分、幕末の歩み、立場の変化、逸話、事件、最期、ゆかりの地の順にたどります。
目次
大橋訥庵とは—先に答え
| 身分 |
兵学者・清水赤城の四男。江戸の豪商・佐野屋大橋淡雅の娘と結婚して大橋姓に |
| 生没 |
文化13年(1816年)〜文久2年(1862年)7月12日。47歳 |
| 名前 |
諱は正順、通称は順蔵 |
| 幕末に何をした |
思誠塾を開き、『闢邪小言』で攘夷論を説く。下野の志士と水戸浪士を結び、老中・安藤信正を襲う計画を立てる |
| 立場の変化 |
町の儒者→宇都宮藩の江戸藩邸で儒学を教える侍講に |
| 事件 |
坂下門外の変(文久2年1月15日)。事件の3日前に逮捕 |
| 最期 |
出獄して宇都宮藩邸に預けられた4日後に死去。毒殺だったともいわれる |
| 墓所 |
東京・谷中の天王寺 |
兵学者の子に生まれ、商家の婿に
大橋訥庵は文化13年(1816年)、長沼流の兵学者・清水赤城の四男として生まれました。はじめ母方の親類である信濃飯山藩士・酒井家の養子になりましたが、のちに離縁しています。天保6年(1835年)、昌平坂学問所の儒官だった佐藤一斎に入門しました。
天保十二年(1841年)、訥庵は江戸日本橋の豪商・佐野屋の大橋淡雅の娘、巻子と結婚して大橋家の姓を名乗りました。同じ年、日本橋に私塾の思誠塾を開いています。商家の後ろ盾を得たことが、訥庵の学問と、のちの尊攘運動を支えることになりました。
幕末に何をしたのか—攘夷論から老中襲撃へ
過激になる攘夷論
嘉永6年(1853年)の黒船来航のあと、訥庵の尊王攘夷論は激しさを増します。外国を打ち払うよう幕府に意見を出し、同じ年の10月には徳川斉昭に「隣疝臆議」を送って攘夷の実行を迫りました。安政4年(1857年)には『闢邪小言』を出して、朱子学の立場から西洋の学問を厳しく批判し、多くの共感を集めました。
和宮降嫁への反発
桜田門外の変のあと、老中・安藤信正は朝廷と幕府を結ぶ「公武合体」を進め、孝明天皇の妹・和宮を将軍・徳川家茂に嫁がせることを決めました。訥庵はこれに強く反発し、はじめは輪王寺宮を担いで兵を挙げることも考えましたが、人数が集まらずにあきらめます。水戸側の老中襲撃を優先したい意向もあり、訥庵は安藤を討つ計画の中心になっていきました(坂下門外の変)。
下野と水戸を結ぶ
計画は、原市之進ら水戸藩士と、訥庵を中心とする下野(栃木県)の志士との連合で進められました。訥庵の妻の弟で宇都宮の商人・菊池教中、門人の児島強介、真岡の医師・小山春山(長円)らが加わっています。
立場が変わった経緯—宇都宮藩の侍講に
思誠塾での教え方が評判を呼び、嘉永3年(1850年)、宇都宮藩主・戸田忠温に招かれて、月に1回、江戸藩邸で儒学を教えるようになりました(宇都宮藩)。これが、宇都宮をはじめ下野の人びとが訥庵のもとに集まるきっかけになります。安政2年の大地震で塾が倒れたため、翌年には塾を小梅村(現在の墨田区向島)へ移しました。
逸話
「全員自決の覚悟がなければ」
決行の前、菊池教中は、老中を討ったあと生き残った者が会津藩邸に訴えて攘夷への協力を求めてはどうかと提案しました。訥庵はこれに反対し、成功してもしなくても全員が自決する覚悟がなければうまくいくはずがない、と返事を書いて児島強介に託したと伝えられます。
斬奸趣意書
襲撃する者たちは、桜田門外の変にならって、安藤を討つ理由を書いた「斬奸趣意書」を持っていました。安藤の政治は外国に屈して朝廷を軽んじている、と非難する内容です。椋木八太郎が起草し、訥庵が手を入れたものとされます。
関わった事件—坂下門外の変
文久2年(1862年)1月8日、訥庵は一橋家の近習・山木繁三郎に、一橋慶喜への意見書を取り次いでくれるよう頼みました。ところが山木はこれを幕府に知らせ、計画が漏れてしまいます。1月12日、訥庵は南町奉行所に捕らえられ、翌日には思誠塾も調べられました。
それでも1月15日、平山兵介ら6人が江戸城坂下門外で安藤の行列を襲い、安藤に傷を負わせましたが、6人ともその場で斬られました。実行した6人については、河本杜太郎・河野顕三のページでも紹介しています。
最期—出獄から4日後の死
事件のあと、訥庵に関わる人びとが次々に捕らえられました。伝馬町の牢の環境はひどく、門人の児島強介のように、獄中で亡くなる者も出ました。宇都宮藩の家老・間瀬和三郎らの働きかけで、訥庵は7月8日に牢を出て宇都宮藩邸に預けられましたが、7月12日の早朝に亡くなりました。47歳。毒殺だったともいわれます。明治24年(1891年)に従四位が贈られました。
坂下門外の変に関わった下野の人びと
児島強介
宇都宮城下の大町の生まれで、訥庵に儒学を学んだ門人です。訥庵と菊池教中の間で手紙を運ぶなど計画に深く関わり、事件のあと捕らえられて、文久2年6月25日に獄中で亡くなりました。辞世は「義烈回天百首」に収められています。
菊池教中
訥庵の妻の弟で、宇都宮の商人です。老中を討ったあとの動き方を訥庵と手紙で相談するなど、計画に関わっていました。
大橋訥庵ゆかりの地
天王寺(東京都台東区谷中)
大橋家の墓地に訥庵が眠っています。JR日暮里駅から歩いてすぐです。
坂下門(東京都千代田区)
事件の現場で、皇居の門として今も残っています。
宇都宮(栃木県宇都宮市)
訥庵の門人や支援者が多くいた町です。宇都宮城の跡は公園として整備されています(現地取材:宇都宮城)。
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参考資料
- コトバンク「大橋訥庵」(日本大百科全書〈ニッポニカ〉、デジタル版 日本人名大辞典+Plus ほか)
- 田中有美「坂下門外の変以前の大橋訥庵と宇都宮藩」(立命館大学学術機関リポジトリ)
- コトバンク「坂下門外の変」(百科事典マイペディア、旺文社日本史事典 ほか)
- Wikipedia「大橋訥庵」
- Wikipedia「坂下門外の変」
- Wikipedia「児島強介」