岡田以蔵とは何をした人物か—土佐の郷士で「天誅の名人」。武市半平太との関係、勝海舟を守った逸話、斬首とゆかりの地

京都の夜の路地で勝海舟をかばって刺客と向き合う岡田以蔵の場面のイラスト

幕末・明治の暗殺事件 特集:桜田門外の変から伊藤博文暗殺まで、19の事件を年表とともにまとめています。▶ 暗殺事件の特集を見る

岡田以蔵(おかだ いぞう)は、幕末の「四大人斬り」の一人に数えられる土佐の郷士です。土佐勤王党の一員として京都・大坂で次々に「天誅」に加わり、当時は「天誅の名人」と呼ばれました。「人斬り以蔵」という呼び名は、後世の小説などで広まったものです。

小説では、武市半平太に使い捨てられた貧しい足軽の子として描かれることが多いのですが、研究ではその像は見直されています。藩と身分、幕末の歩み、取り立ての経緯、逸話、事件、最期、ゆかりの地の順にたどります。なお、出回っている「以蔵の写真」は別人のもので、本人の写真や肖像は残っていません。

目次

岡田以蔵とは—先に答え

藩・身分 土佐藩の郷士。父・岡田義平の禄は20石余り。生まれは香美郡岩村(現・南国市)説と土佐郡江ノ口村説がある
生没 天保9年(1838年)1月20日〜慶応元年(1865年)閏5月11日。享年28
名前 諱は宜振(よしふる、読みは諸説)。変名は土井鉄三
幕末に何をした 土佐勤王党に加わり、藩主上洛の衛士として京都へ。天誅に次々と加わり、勅使・姉小路公知の護衛で江戸へも
取り立ての経緯 武市半平太の道場の門人として剣を見込まれ、江戸・諸国の修行に同行。勤王党で衛士・勅使護衛に選ばれた
事件 井上佐市郎、本間精一郎、目明し文吉らの殺害(関与に異説のある事件も多い)
最期 京都で捕らえられて土佐へ送られ、拷問ののち慶応元年閏5月11日に高知で斬首・獄門
墓所 高知市薊野北町の岡田家墓地

土佐の郷士の家に生まれる

岡田以蔵は天保9年(1838年)、土佐藩の郷士・岡田義平の子として生まれました。生まれた場所は香美郡岩村(現在の高知県南国市)とする説と、土佐郡江ノ口村とする説があります。郷士は土佐藩の武士の中では上士より下に置かれた身分ですが、岡田家はふつうの郷士の家で、以蔵もそれなりの教育を受けていたとされます。弟の啓吉も土佐勤王党に加わりました。

剣は武市半平太(瑞山)と、中西派一刀流の麻田直養に学びました。安政3年(1856年)には武市について江戸へ出て、桃井春蔵の士学館で鏡心明智流を学んでいます。万延元年(1860年)には武市に従って中国・九州を回り、豊後の岡藩で直指流も学びました。

幕末に何をしたのか—土佐勤王党の衛士として京都へ

土佐勤王党に加わる

文久元年(1861年)8月、武市半平太が結成した土佐勤王党に加わりました。翌文久2年4月、党は藩の参政・吉田東洋を暗殺し、藩の実権を握ります。

藩主の上洛に従って京都へ

文久2年6月、藩主・山内豊範の参勤に従う衛士に選ばれて京都に上りました。閏8月から10月にかけて、京都と大坂で次々に天誅に加わります。

勅使の護衛で江戸へ

文久2年10月から12月には、攘夷を幕府に求める勅使・姉小路公知の護衛として江戸に下りました。その姉小路は翌年、京都で暗殺されることになります(姉小路公知暗殺とは)。

脱藩、そして勝海舟のもとへ

文久3年には脱藩して江戸で高杉晋作のもとに身を寄せ、そのあと京都で坂本龍馬の紹介により勝海舟のもとに身を寄せました。しかし、やがて行方が分からなくなります。

取り立てられた経緯—武市半平太の門人から

以蔵を引き立てたのは、剣の師でもある武市半平太でした。武市は以蔵の腕を見込んで、江戸での修行や諸国の剣術修行に連れて行きます。土佐勤王党に加わると、藩主上洛の衛士、さらに勅使の護衛にも選ばれました。郷士の子が藩の外の大舞台に立てたのは、武市の門人だったからです。

ただし、小説で描かれるような「武市に一方的に使われた道具」という像は、そのまま史実とはいえません。研究者は、天誅は仲間と相談し協力して行われ、加わりたい者が競い合うほどだったと指摘しています。

逸話

勝海舟を守った以蔵

京都の夜の路地で勝海舟をかばって刺客と向き合う岡田以蔵の場面のイラスト
刺客から勝海舟をかばう以蔵(イメージイラスト)

勝海舟の談話『氷川清話』によると、勝が3人の刺客に襲われたとき、以蔵が1人を斬って一喝すると、残りの2人は逃げたといいます。勝が「人を殺すことをたしなんではいけない」と諭すと、以蔵は「先生、それでもあの時わたしがいなかったら、先生の首はもう飛んでいたでしょう」と答え、勝は「一言もなかった」と語っています。

「日本一の泣きみそ」

捕らえられた以蔵が拷問で自白したことを、武市半平太は獄中の手紙で「日本一の泣きみそ」と酷評しました。獄の内外では以蔵の毒殺も相談されましたが、武市が強引な毒殺に賛成せず、親族の了承も得られなかったため実行されませんでした。「毒入りの弁当を食べても平気だった」という話は、司馬遼太郎の小説の創作です。

勝海舟から贈られたピストル

弟・啓吉の子孫の家に、以蔵の持ち物とみられるフランス製のリボルバーが伝わっており、勝海舟から贈られたものとされています。

同時代の評

同じ土佐の田中光顕は「腕はさえていたが、人間が駄目であった」と評し、『土佐偉人伝』は「はじめ勇にしてあと怯なり」と書いています。どちらも厳しい評価です。

関わった事件—天誅

確実とされるもの

  • 文久2年8月2日:土佐藩の下横目・井上佐市郎を大坂・心斎橋で仲間と絞殺。井上は吉田東洋暗殺を調べていた
  • 閏8月20日:本間精一郎を京都で田中新兵衛らと襲う(本間精一郎暗殺とは)
  • 閏8月30日:目明しの文吉を三条河原で殺してさらす(目明し文吉の殺害とは)
  • 10月9日:平野屋寿三郎・煎餅屋半兵衛を鴨川の河原に縛ってさらす(命は取らない「生き晒し」)

関与に異説があるもの

九条家の宇郷重国の殺害(閏8月22日)、石部宿での与力4人の殺害(9月23日)、儒学者・池内大学の殺害(文久3年1月22日)、賀川肇の殺害(同1月29日)は、以蔵が加わったかどうかに疑問や異説があります。石部宿の事件については、武市の『在京日記』にある参加者の中に以蔵の名がありません。11月15日の多田帯刀の殺害は、以蔵が江戸にいたので関わっていません。

最期—高知で斬首

元治元年(1864年)2月、以蔵は商家から金を脅し取った罪で幕府の役人に捕らえられ、5月に入墨のうえ京都から追放されると、その場で土佐藩の役人に捕まって高知へ送られました。すでに土佐藩は勤王党の弾圧を始めており、以蔵は拷問を受けて自白し、仲間の捕縛が相次ぐきっかけになります。

慶応元年(1865年)閏5月11日、以蔵は無宿者として扱われ、斬首・獄門となりました。28歳でした。同じ日に武市半平太も切腹を命じられています。刑を言い渡されたとき、武市によろしく伝えてほしいと牢番に頼んだとされます。辞世は「君が為 尽す心は 水の泡 消えにしのちぞ すみ渡るべき」と伝わります。

岡田以蔵ゆかりの地

岡田以蔵の墓(高知市薊野北町)

高知市薊野北町1丁目、真宗寺山の山頂近くにある岡田家の墓地に、「岡田以蔵宜振墓」と刻まれた墓があり、父・義平や弟たちの墓が並んでいます。高知インターの南西、北環状線沿いから北へ入り、案内板に従って竹林を20メートルほど進むと墓地です。

高知県護国神社(高知市)

1983年に以蔵が合祀され、2019年1月20日、岡田以蔵顕彰会の働きかけで「南海忠烈碑」に以蔵の名が刻まれました。

武市半平太ゆかりの地(高知市)

以蔵が剣を学んだ武市の道場跡や旧宅は、【現地取材】武市半平太ゆかりの地を歩くで紹介しています。

京都の天誅の現場

本間精一郎遭難の地の碑(先斗町)や三条河原など、以蔵が関わった事件の現場は京都の中心部に集まっています。

▶ 暗殺した側の人物をもっと読む

あわせて読みたい

参考資料

  • Wikipedia「岡田以蔵」
  • コトバンク「岡田以蔵」(日本大百科全書・世界大百科事典・日本人名大辞典)
  • 松岡司『正伝 岡田以蔵』(戎光祥出版、2014年)
  • 勝海舟『氷川清話』
  • お墓きわめ「岡田以蔵のお墓はどこにある?」
  • Wikipedia「本間精一郎」
  • URLをコピーしました!
目次