2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)は、幕末の幕臣・小栗忠順が主人公です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。
土佐藩といえば「上士と郷士」。上士が郷士を見下し、郷士たちが土佐勤王党をつくって反発した—という話はよく知られています。けれど実際の土佐の身分は、上士と郷士の二つだけではありませんでした。上士と郷士のあいだには「白札」があり、郷士の下には「地下浪人」「足軽」があり、武士ではない「庄屋」や「医師」の家もありました。そして同じ上士、同じ郷士のなかにも段差がありました。
このページは、幕末の土佐の人物を生まれた家の身分ごとに並べた一覧です。なぜ上士と郷士という線が引かれたのか—関ヶ原のあとの長宗我部家の改易、浦戸一揆、郷士の取り立て—という由来については、姉妹サイト「日本の歴史ガイド」の土佐藩の上士と下士:板垣退助・後藤象二郎・吉田東洋と、武市半平太・岡田以蔵・坂本龍馬の家はどこから来たのかでくわしく書いています。ここでは「誰がどの段にいたか」のほうに絞ります。

先に一つだけ—「山内系=上士、長宗我部系=郷士」ではありません
よく「山内一豊についてきた家が上士、長宗我部の旧臣が郷士」と説明されます。大まかな傾向としてはその通りですが、そのまま当てはめると外れる人が出てきます。
- 長宗我部の旧臣でも、最初から上士として召し抱えられた家が少なくありません。吉田東洋の吉田家がその例で、先祖は長宗我部元親に仕えた家ですが、山内家の入国後に上士として迎えられています。
- 郷士にも長宗我部と関係のない家があります。坂本龍馬の家は城下の商家が郷士の株を買った家で、長宗我部の旧臣の流れではありません。
- 家の格は動きました。庄屋から郷士へ、郷士から白札へと上がった家もあれば(龍馬の大叔父にあたる宮地家)、郷士の株を手放して地下浪人になった家もあります(岩崎弥太郎の家)。
つまり「どこから来た家か」は身分の出発点にすぎず、二百六十年のあいだに入れ替わりもありました。以下の一覧は、あくまで幕末の時点でその人が生まれた家の身分です。
身分の段と人数の目安
土佐藩の家臣は、上から家老・中老・馬廻・小姓組・留守居組までを上士、郷士・用人・徒士・足軽・武家奉公人を下士と呼び、のちにその間に白札が置かれました。
| 段 | 中身 | 人数の目安 |
|---|---|---|
| 上士 | 家老・中老・馬廻・小姓組・留守居組。高知城下の郭中に住む | 家老は十一家(文政期の家臣団構成表)。上士全体の家数を示した事典は見当たらず、ここでは数字を出しません |
| 白札 | 郷士のうち上士に準じる扱いを受けた家 | 家数の目安は確認できませんでした |
| 郷士 | 下士の最上位。多くは農村や山間に住む。郷士株の売り買いがあった | 江戸前期、野中兼山のころに取り立てられた初期郷士が約千人。天保九年(1838年)の記録で八百七人。幕末も約八百人とされる |
| 用人・徒士・足軽・奉公人 | 郷士より下の下士。城下や在郷で勤める | 確認できた数字なし |
| 地下浪人 | 郷士の株を手放した家。名字と帯刀は許される | 確認できた数字なし |
| 庄屋・医師・町人など | 武士ではない家。庄屋は村の長 | — |
※郷士の数は、天保九年の八百七人が『高知の研究』第三巻、初期郷士の約千人が『世界大百科事典』によります。平尾道雄『土佐藩郷士記録』は、郷士の名簿に七百五十人、幡多郡の名簿に八十一人、家が絶えた郷士百二十七人を載せています。
一覧—土佐の人物と生まれた家の身分
| 身分の段 | 人物 | 生まれた家と補足 |
|---|---|---|
| 藩主の家 | 山内容堂(豊信) | 山内家の分家(南屋敷)の生まれ。本来は藩主になる立場ではなかった |
| 上士(馬廻) | 板垣退助(乾退助) | 乾家、馬廻。家督を継いだときは二百二十石(三百石は先祖の代の禄)。土佐入国より前から山内家に仕えた家 |
| 上士(馬廻) | 後藤象二郎 | 後藤家、馬廻。石高は百五十石とも三百二十石とも。吉田東洋の義理の甥 |
| 上士(馬廻) | 片岡健吉 | 馬廻格二百五十石 |
| 上士(馬廻) | 小笠原唯八 | 馬廻格二百五十石 |
| 上士 | 吉田東洋 | 先祖は長宗我部に仕えた吉田氏。山内家の入国後に上士として迎えられた家 |
| 上士 | 福岡孝弟 | 家老福岡家の支族 |
| 上士 | 佐佐木高行 | 父は百石取り |
| 上士 | 谷干城 | 儒者の家。父の代に上士の格(小姓組格)に取り立てられたとされる |
| 上士(留守居組) | 平井収二郎 | 新留守居組格。上士のなかでいちばん下の段。勤王党に加わった |
| 白札 | 武市半平太 | 祖父の代から白札。郷士の上、上士に準じる扱い |
| 郷士 | 坂本龍馬 | 城下の豪商・才谷屋の分家が郷士の株を買った家 |
| 郷士 | 坂本直(高松太郎) | 龍馬の甥。父の高松順蔵は郷士 |
| 郷士(のち足軽) | 岡田以蔵 | 郷士の家とされるが、父が足軽の身分を得て兵役につき、以蔵もそれを継いだと伝わる |
| 郷士 | 那須信吾 | 家老深尾家の家来の家に生まれ、郷士・那須俊平の娘婿として郷士になった |
| 郷士 | 安岡嘉助 | 香美郡山北村の郷士 |
| 郷士 | 大石団蔵(高見弥市) | 郷士とされる |
| 郷士 | 島村衛吉 | 香美郡下島村の郷士 |
| 郷士 | 清岡道之助 | 郷士。野根山に屯集した二十三士の中心 |
| 郷士 | 大石弥太郎 | 郷士とされる。井口村刃傷事件で郷士側のまとめ役になったと伝わる |
| 郷士 | 中島信行 | 高岡郡塚地村の郷士の長男 |
| 郷士 | 池内蔵太 | 郷士とされる。微禄の藩士の家とする説明もある |
| 郷士 | 河野敏鎌 | 郷士の家 |
| 郷士 | 土方久元 | 郷士の家とされる。事典によっては「藩士の子」とだけ書く |
| 地下浪人 | 岩崎弥太郎 | 井ノ口村の地下浪人の家。かつて郷士だった家 |
| 地下浪人 | 沢村惣之丞 | 浪人の子とする説明と、郷士とする事典がある |
| 庄屋 | 中岡慎太郎 | 安芸郡北川郷の大庄屋の家 |
| 庄屋 | 吉村虎太郎 | 高岡郡の庄屋の家。天誅組 |
| 庄屋 | 北添佶摩 | 高岡郡の庄屋の家。池田屋事件で死去 |
| 庄屋 | 菅野覚兵衛(千屋寅之助) | 安芸郡和食村の庄屋・千屋家の三男 |
| 医師 | 長岡謙吉 | 高知城下浦戸町の医師・今井家の長男 |
| 医師 | 石田英吉 | 医師・伊吹家の生まれ |
| 医師 | 上岡胆治 | 高岡郡の医師の家 |
| 陪臣(家老の家来) | 田中光顕 | 家老深尾家の家来・浜田家の生まれ。那須信吾の甥 |
| 足軽 | 中江兆民 | 足軽の家の子 |
| 町人 | 近藤長次郎 | 城下の饅頭屋の子。学問を認められて名字帯刀を許された |
| 漁民 | ジョン万次郎 | 中浜村の漁師の子。帰国後に士分に取り立てられた |
※家の身分は、資料によって書き方が違う人がいます。説が分かれる人は補足欄にそのことを書きました。間崎哲馬、望月亀弥太、新宮馬之助などは、生まれた家の身分を事典で確かめられなかったため一覧に入れていません。
同じ段のなかの差—上士にも郷士にも層があった
上士のなか—三百石の馬廻と、いちばん下の留守居組
上士は一枚岩ではありません。いちばん上が家老(十一家)で、その下に中老、馬廻、小姓組、留守居組と続きます。板垣退助の乾家も後藤象二郎の家も馬廻で、板垣は家督を継いだとき二百二十石でした。これに対して平井収二郎の家は新留守居組格で、上士のなかでは最も下の段でした。同じ「上士」でも、家禄には大きな開きがありました。
平井は上士でありながら土佐勤王党に加わり、武市半平太の右腕として京都で動きました。最後は容堂の怒りを買い、切腹させられています。上士なら藩の側、という単純な分け方には収まらない人です。
郷士のなか—大組と小組、古い郷士と株を買った郷士
幕末の郷士約八百人は、家老に一人ずつ預けられた大組(御預郷士)と、六つの隊に分かれて非常時に決められた場所の海防に駆けつける小組(駆付郷士)に分かれていた、という説明があります(大組約三百七十人、小組約四百三十人とされますが、この内訳の出典は確かめきれていません)。
郷士になった経緯もさまざまでした。新田を開いた見返りに取り立てられた古い郷士の家がある一方、江戸の中ごろからは郷士の株が売り買いされ、豪農や豪商が株を買って郷士になりました。坂本龍馬の家がまさにそれで、商家の財力があったから江戸での剣術修行もできました。反対に株を手放した家は地下浪人になります。岩崎弥太郎の家です。
郷士の家に生まれても—岡田以蔵の場合
岡田以蔵の家は郷士とされますが、父の義平は足軽の身分を得て兵役につき、以蔵もそれを継いだと伝わります。家の名目と、実際の暮らしや役目が一致しない例です。同じ勤王党の仲間でも、龍馬の家と以蔵の家では暮らし向きがまるで違いました。
白札—「あと一段」の位置
武市半平太の家は白札でした。郷士より上で、上士に準じる扱いを受ける段です。郷士や庄屋の若者を集めて土佐勤王党をつくった武市は、上と下のあいだに立つ人でした。勤王党が弾圧されたとき、武市は上士に準じる身分として切腹を許されましたが、仲間の下士には斬首された者もいます。岡田以蔵と武市は同じ日に命を落とし、その扱いは違いました。
武士ではなかった家—庄屋・医師・陪臣・町人
中岡慎太郎は安芸郡北川郷の大庄屋の家に生まれました。庄屋は村をまとめる役で、武士ではありません。吉村虎太郎(天誅組)、池田屋事件で亡くなった北添佶摩、海援隊の菅野覚兵衛も庄屋の家の出です。土佐の庄屋の中には「自分たちは天皇の民を預かる者だ」という考えが早くから育っていたといわれ、藩から遠い場所にいた庄屋の子たちが脱藩して運動の最前線に出ていきました。
海援隊には医師の家の出も目立ちます。文書係の長岡謙吉は城下浦戸町の医師の子、石田英吉も医師の家の生まれで、緒方洪庵の適塾で学んでいます。
田中光顕は家老深尾家の家来の家の生まれで、藩主から見れば「家来の家来」(陪臣)です。明治には宮内大臣になり、伯爵になりました。中江兆民は足軽の家の子で、のちに「東洋のルソー」と呼ばれます。近藤長次郎は城下の饅頭屋の子、ジョン万次郎は中浜村の漁師の子でした。
身分で分けると見えること
こうして並べると、幕末に「藩の中」で動いたのは上士、「藩の外」に飛び出していったのは白札・郷士・庄屋の人たち、という分かれ方が大まかには見えます。龍馬も中岡も脱藩し、藩の外で薩長をつなぎました。一方で、大政奉還を藩の正式な意見として出せたのは上士の後藤でした。外で動いた下の段の人と、中で動いた上の段の人が、最後に手を組んだのが慶応三年の土佐藩だったといえます。ただし平井収二郎のように上士から勤王党に加わった人もいて、線は一本ではありません。
明治になると、上士の板垣・後藤・片岡は自由民権運動へ進み、谷干城は陸軍の軍人として西南戦争で熊本城を守りました。陪臣の田中光顕は宮内大臣、地下浪人の岩崎は三菱、足軽の中江兆民は民権の思想家になりました。郷士と庄屋の中心人物の多くは、明治を見ずに亡くなっています。どの段に生まれたかは、生き残ったかどうかにまで影を落としていました。
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