元治元年(1864)七月十九日、長州藩の軍勢が京都の御所に攻め寄せ、会津・薩摩などの藩兵と戦いました。「禁門の変」、または激戦地の名から「蛤御門の変」と呼ばれる戦いです。そのおよそ一か月半前、池田屋で仲間を斬られた長州の怒りが、この挙兵の引き金の一つでした。新選組も会津藩とともに出動し、長州勢を追って天王山まで攻め上りました。

禁門の変と新選組(年表)
| 日付 | できごと |
|---|---|
| 六月五日 | 池田屋事件。長州などの志士が斬られ、長州藩の怒りが高まる |
| 六月下旬〜 | 長州勢が京都の周りに集まる。伏見の長州屋敷、山崎の天王山、嵯峨の天龍寺などに布陣。新選組は会津藩とともに京都の南、九条河原(銭取橋のあたり)に陣を張る |
| 七月十九日 | 長州勢が御所へ攻め込む。蛤御門・堺町御門などで激戦。長州は敗れ、来島又兵衛・久坂玄瑞らが戦死・自害する。戦火で京都の町が大きく焼ける(どんどん焼け) |
| 七月二十一日 | 新選組と会津藩が天王山へ攻め上る。立てこもった真木和泉らは、火薬に火を放って自害する |
| 七月二十三日 | 長州藩を討つよう朝廷から命が出され、第一次長州征討へ |
九条河原の布陣
池田屋事件のあと、長州藩は藩主の無実を訴えるという名目で兵を京都へ送りました。伏見・山崎・嵯峨の三方から御所をうかがう長州勢に対し、新選組は会津藩の指揮のもとで京都の南の九条河原に陣を構え、伏見方面からの長州勢に備えました。

七月十九日—伏見から御所へ
十九日の未明、伏見の長州屋敷にいた福原越後の軍が北へ動き出しました。福原の軍は伏見街道の藤森のあたりで大垣藩兵などに阻まれて退き、新選組もこの方面へ向かったといわれます。
その間に、嵯峨や山崎から来た長州勢は御所に迫り、蛤御門や堺町御門で激しい戦いになっていました。御所が危ういとの知らせを受けた新選組は、会津の兵とともに御所へ向かい、堺町御門のあたりで長州勢と戦ったと伝えられます。長州勢が立てこもった鷹司邸の近くでは、残った長州兵を会津兵とともに討ったという話も残っています。
長州勢は一日で敗れました。蛤御門を攻めた来島又兵衛は撃たれて自決し、堺町御門を攻めた久坂玄瑞は鷹司邸で自害しました。
どんどん焼け
戦いの火は燃え広がり、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲で、およそ三万戸が焼けたといわれます。京都の人々は、燃え続けた火を「どんどん焼け」と呼びました。
七月二十一日—天王山
敗れた長州勢の一部は、真木和泉に率いられて山崎の天王山に退きました。二十一日、近藤勇・土方歳三らの新選組は会津藩とともに天王山へ攻め上ります。追い詰められた真木和泉らは、小屋に立てこもって火薬に火を放ち、自ら命を絶ちました。天王山で死んだのは十七人とされ、「十七烈士」と呼ばれています(真木和泉守ら久留米藩の四名を中心に、土佐・肥後・宇都宮・筑前などの出身者を含む十七名です)。近藤が真木らの亡骸を葬ったという話も伝わります。
禁門の変のあと
禁門の変で長州は「朝敵」とされ、幕府による第一次長州征討が始まります(長州藩)。一方、池田屋と禁門の変で働いた新選組は、幕府と会津藩からいっそう頼りにされるようになりました。隊士を募る動きも強まり、翌慶応元年には壬生から西本願寺へ屯所を移すほどに大きくなります(新選組の屯所の移り変わり)。
禁門の変を読み解く—新選組は何を担ったのか
新選組は「主力」ではなかった
禁門の変は、新選組にとって初めての本格的な合戦でした。ただ、この戦いで長州勢と正面からぶつかった主力は、会津・薩摩・桑名などの藩兵です。蛤御門では会津藩兵が長州勢の猛攻を受け止め、そこへ西郷隆盛の率いる薩摩藩兵が駆けつけて形勢を決めました。
新選組は会津藩の指揮のもとで動く、いわば援軍の一つでした。九条河原での布陣、伏見方面への出動、御所への駆けつけ、天王山への追撃と、新選組は戦いのほぼすべての局面に顔を出していますが、どこでも中心にいたわけではありません。池田屋のような屋内での斬り込みで名を上げた隊が、藩兵どうしの合戦の中では脇役に回った—この違いは、のちの鳥羽伏見の戦いで新選組が直面する問題を先取りしていたともいえます。
同じ戦場にいた人々
| 側 | おもな人物 | この戦いで |
|---|---|---|
| 長州方 | 久坂玄瑞 | 堺町御門を攻め、鷹司邸で自害 |
| 長州方 | 来島又兵衛 | 蛤御門を攻め、撃たれて自決 |
| 長州方 | 真木和泉 | 天王山に退いて自刃 |
| 幕府方 | 松平容保(会津藩) | 京都守護職として御所を守る |
| 幕府方 | 西郷隆盛(薩摩藩) | 薩摩藩兵を率いて蛤御門へ駆けつける |
| 幕府方 | 近藤勇・土方歳三(新選組) | 会津藩とともに出動し、天王山まで追う |
この表で目を引くのは、薩摩が幕府方に並んでいることです。このときの薩摩は会津と手を組み、長州を退ける側にいました。薩摩と長州がひそかに結ぶのは、この戦いから一年半後の慶応二年正月のことです。新選組の敵味方の構図は、この後わずか数年で大きく入れかわっていきます。
天王山で自刃した十七人と、壬生の間者
七月二十一日、新選組が会津藩兵とともに天王山へ攻め上ったとき、そこに立てこもっていた真木和泉ら十七人は、小屋に火を放って自刃していました。天王山には、いまも「十七烈士の墓」が残っています。
真木は、一年前の文久三年九月に壬生浪士組が斬った楠小十郎を、間者として送りこんだとされる人物でもあります。新選組のはじめのころに隊の中へ入りこもうとした尊攘派の指導者を、新選組は十か月後に天王山まで追いつめたことになります。楠については楠小十郎のページをご覧ください。
焼けた町と、京都の人々の目
戦いの火で京都の町の多くが焼けたことは、町の人々に深い傷を残しました。家を失った人々の中には、攻めてきた長州よりも、町を戦場にした幕府方をうらむ声もあったと伝わります。京都の町衆のあいだには、もともと長州に同情する気分が少なくありませんでした。
新選組は禁門の変の働きで幕府と会津藩の信頼を深めましたが、京都の町の人々からの評判が同じように高まったわけではありません。「壬生浪」と呼ばれて恐れられた隊は、焼け野原となった町で、治安を預かる者として見られ続けることになります。
訪ねるなら(京都・山崎)
- 蛤御門(京都御苑):いちばんの激戦地。門には弾の跡とされる傷が残ります。
- 堺町御門(京都御苑):新選組が駆けつけたとされる門。
- 鷹司邸跡(京都御苑):久坂玄瑞が自害した屋敷の跡。
- 天王山(京都府大山崎町):真木和泉ら十七烈士の墓があります。
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参考にした資料:永倉新八『新撰組顛末記』、禁門の変に関する諸研究。新選組の当日の動きには記録による違いがあります。

