幕末・明治の暗殺事件 特集:桜田門外の変から伊藤博文暗殺まで、19の事件を年表とともにまとめています。▶ 暗殺事件の特集を見る
平山兵介(ひらやま ひょうすけ)は、文久2年(1862年)1月15日の坂下門外の変で、老中・安藤信正を襲った6人の一人です。警護の混乱をついて安藤の駕籠に刀を突き入れたと伝わる、水戸の浪士でした。
襲った6人は全員がその場で討ち死にし、安藤は背中に傷を負いながらも城内へ逃れました。桜田門外の変から2年、水戸の尊攘派が再び老中を狙った事件の中心にいた若者の生涯を、藩と身分、幕末の歩み、立場の変化、逸話、事件、最期、ゆかりの地の順にたどります。確かな肖像は伝わっていません。
平山兵介とは—先に答え
| 藩・身分 | 水戸藩士(藩主は徳川慶篤)。のち脱藩して浪士に |
|---|---|
| 生没 | 天保12年(1841年)〜文久2年(1862年)1月15日。享年22 |
| 名前 | 読みは「ひょうすけ」。名は繁義、変名は細谷忠斎 |
| 幕末に何をした | 戊午の密勅の返上に反対して脱藩し、各地で同志を説いて回る。関白・九条尚忠の襲撃も計画 |
| 立場の変化 | 水戸藩士→脱藩浪士→坂下門外の変の実行者 |
| 事件 | 坂下門外の変(文久2年1月15日)で老中・安藤信正を襲撃 |
| 最期 | 坂下門外でその場で討ち死に |
| 墓所 | 小塚原回向院(東京都荒川区) |
水戸藩士の家に生まれ、一刀流を学ぶ
平山兵介は天保12年(1841年)、水戸藩の藩士・平山兵蔵の子として生まれました。名は繁義。一刀流の達人だったと伝わります。水戸藩では徳川斉昭のもとで尊王攘夷の考えが強く、兵介もその空気の中で育ちました。
幕末に何をしたのか—密勅の返上に反対して脱藩
戊午の密勅をめぐって
安政5年(1858年)、朝廷から水戸藩に直接下された勅書(戊午の密勅)を、幕府は返すよう命じました。兵介はこれに強く反対した一人です。この密勅をめぐる対立が、安政の大獄と、2年後の桜田門外の変につながっていきます。
脱藩して同志を説いて回る
兵介は住谷悌之介・中島久蔵とともに脱藩し、各地を回って尊王攘夷の同志を説いて回りました。万延元年(1860年)には、京都で関白・九条尚忠を襲う計画にも加わったとされます。文久元年(1861年)、淡路の洲本にいたとき仲間が堺で捕らえられたため、東へ戻り、水戸の田尻新介の家に身を潜めました。
安藤信正の襲撃計画
桜田門外の変のあと幕政の中心に立った老中・安藤信正は、公武合体を進め、孝明天皇の妹・和宮を将軍家茂に嫁がせる話をまとめました。尊攘派はこれを、朝廷を利用して幕府の権威を立て直す策と見て反発します。兵介は小田彦三郎・川辺左次衛門らと安藤の襲撃を計画し、そこへ宇都宮の儒学者・大橋訥庵の門下の者たちが加わりました。
立場の変化—藩士から脱藩浪士へ
兵介が藩の役職に就いた記録はなく、出世の道を歩んだ人ではありません。密勅の返上に反対して藩を離れ、浪士として各地の同志をつないで回ったことで、坂下門外の変の中心の一人になっていきました。死後、従五位を贈られています。
逸話
駕籠に刀を突き入れる
襲撃のとき、警護が混乱した隙をついて、安藤の駕籠に刀を突き刺したと伝わります。駕籠を刺したのは兵介だけだったとする紹介もあります。
計画の繰り上げ
襲撃は当初、1月28日に予定されていました。ところが1月12日に大橋訥庵が捕らえられたため、水戸の志士たちが中心となって決行を早めました。準備の整わないままの襲撃だったともいえます。
関わった事件—坂下門外の変(文久2年1月15日)

文久2年1月15日の朝、登城する安藤信正の行列が江戸城の坂下門に近づいたところを、6人が襲いました。水戸の浪士の平山兵介・小田彦三郎・黒沢五郎・高畑総次郎、下野の医師・河野顕三、越後の医師・河本杜太郎です。河本が訴え出るふりをして行列の前に出て駕籠を撃ち、それを合図にほかの5人が斬り込みました。
安藤は背中に軽い傷を負い、駕籠を出て城内へ逃げ込みます。警護の側にも多くの負傷者が出ましたが、6人は全員その場で討たれました。遅れて着いた川辺左次衛門は、斬奸趣意書を長州藩邸に届けてから自刃しています。安藤はこの事件で威信を失い、4月に老中を退きました。くわしくは坂下門外の変とはをどうぞ。
最期—坂下門外で討ち死に
兵介は襲撃のその場で討ち死にしました。22歳でした。辞世は伝わっていません。2年前の桜田門外の変では、井伊直弼を討った志士の多くが、事件のあとで処刑されたり自刃したりしています。坂下門外の変では、襲った6人が全員その場で命を落としました。
平山兵介ゆかりの地
坂下門(東京都千代田区、皇居)
事件の現場です。坂下門は現在、皇居の宮内庁への出入り口として使われています。
小塚原回向院(東京都荒川区)
荒川区南千住5-33-13、JR南千住駅から歩いて数分。「平山兵介之遺墳」と刻まれた墓があります。桜田門外の変の関鉄之介らの墓もある寺です。
常磐共有墓地(茨城県水戸市)
桜田門外の変・坂下門外の変に加わった水戸の志士たちが葬られている墓地です(【現地取材】水戸・常磐共有墓地を歩く)。
磐城平藩(福島県いわき市)
襲われた安藤信正が治めた藩です(磐城平藩)。
幕末・明治の暗殺事件を読む
- 桜田門外の変(1860)—大老・井伊直弼
- 坂下門外の変(1862)—老中・安藤信正
- 吉田東洋暗殺(1862)—土佐藩の参政
- 本間精一郎暗殺(1862)—木屋町の天誅
- 目明し文吉の殺害(1862)—三条河原
- 清河八郎暗殺(1863)—麻布一ノ橋
- 姉小路公知暗殺・朔平門外の変(1863)
- 芹沢鴨暗殺(1863)—壬生・八木邸
- 平岡円四郎暗殺(1864)—一橋慶喜の側近
- 佐久間象山暗殺(1864)—三条木屋町
- 原市之進暗殺(1867)—将軍慶喜の側近
- 赤松小三郎暗殺(1867)—東洞院通
- 坂本龍馬暗殺・近江屋事件(1867)
- 油小路事件(1867)—伊東甲子太郎
- 横井小楠暗殺(1869)—寺町丸太町
- 大村益次郎暗殺(1869)—兵部大輔の死
- 大久保利通暗殺・紀尾井坂の変(1878)
- 森有礼暗殺(1889)—憲法発布の朝
- 伊藤博文暗殺(1909)—ハルビン駅
▶ 暗殺した側の人物をもっと読む
- 有村次左衛門—桜田門外の変でただ一人の薩摩藩士
- 関鉄之介—桜田門外の変の現場の指揮役
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- 大橋訥庵—江戸の儒者。坂下門外の変を計画し、事件直前に捕らえられた
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参考資料
- Wikipedia「平山兵介」
- コトバンク「平山兵介」(日本人名大辞典)
- Wikipedia「坂下門外の変」
- コトバンク「坂下門外の変」(日本大百科全書・世界大百科事典ほか)
- 荒川区「回向院」

