平山兵介とは何をした人物か—坂下門外の変で老中・安藤信正の駕籠に斬り込んだ水戸の浪士。一刀流の剣、脱藩と潜伏、22歳の最期とゆかりの地

雪の坂下門外で老中の行列を見つめる水戸の浪士のイラスト

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平山兵介(ひらやま ひょうすけ)は、文久2年(1862年)1月15日の坂下門外の変で、老中・安藤信正を襲った6人の一人です。警護の混乱をついて安藤の駕籠に刀を突き入れたと伝わる、水戸の浪士でした。

襲った6人は全員がその場で討ち死にし、安藤は背中に傷を負いながらも城内へ逃れました。桜田門外の変から2年、水戸の尊攘派が再び老中を狙った事件の中心にいた若者の生涯を、藩と身分、幕末の歩み、立場の変化、逸話、事件、最期、ゆかりの地の順にたどります。確かな肖像は伝わっていません。

目次

平山兵介とは—先に答え

藩・身分 水戸藩士(藩主は徳川慶篤)。のち脱藩して浪士に
生没 天保12年(1841年)〜文久2年(1862年)1月15日。享年22
名前 読みは「ひょうすけ」。名は繁義、変名は細谷忠斎
幕末に何をした 戊午の密勅の返上に反対して脱藩し、各地で同志を説いて回る。関白・九条尚忠の襲撃も計画
立場の変化 水戸藩士→脱藩浪士→坂下門外の変の実行者
事件 坂下門外の変(文久2年1月15日)で老中・安藤信正を襲撃
最期 坂下門外でその場で討ち死に
墓所 小塚原回向院(東京都荒川区)

水戸藩士の家に生まれ、一刀流を学ぶ

平山兵介は天保12年(1841年)、水戸藩の藩士・平山兵蔵の子として生まれました。名は繁義。一刀流の達人だったと伝わります。水戸藩では徳川斉昭のもとで尊王攘夷の考えが強く、兵介もその空気の中で育ちました。

幕末に何をしたのか—密勅の返上に反対して脱藩

戊午の密勅をめぐって

安政5年(1858年)、朝廷から水戸藩に直接下された勅書(戊午の密勅)を、幕府は返すよう命じました。兵介はこれに強く反対した一人です。この密勅をめぐる対立が、安政の大獄と、2年後の桜田門外の変につながっていきます。

脱藩して同志を説いて回る

兵介は住谷悌之介・中島久蔵とともに脱藩し、各地を回って尊王攘夷の同志を説いて回りました。万延元年(1860年)には、京都で関白・九条尚忠を襲う計画にも加わったとされます。文久元年(1861年)、淡路の洲本にいたとき仲間が堺で捕らえられたため、東へ戻り、水戸の田尻新介の家に身を潜めました。

安藤信正の襲撃計画

桜田門外の変のあと幕政の中心に立った老中・安藤信正は、公武合体を進め、孝明天皇の妹・和宮を将軍家茂に嫁がせる話をまとめました。尊攘派はこれを、朝廷を利用して幕府の権威を立て直す策と見て反発します。兵介は小田彦三郎・川辺左次衛門らと安藤の襲撃を計画し、そこへ宇都宮の儒学者・大橋訥庵の門下の者たちが加わりました。

立場の変化—藩士から脱藩浪士へ

兵介が藩の役職に就いた記録はなく、出世の道を歩んだ人ではありません。密勅の返上に反対して藩を離れ、浪士として各地の同志をつないで回ったことで、坂下門外の変の中心の一人になっていきました。死後、従五位を贈られています。

逸話

駕籠に刀を突き入れる

襲撃のとき、警護が混乱した隙をついて、安藤の駕籠に刀を突き刺したと伝わります。駕籠を刺したのは兵介だけだったとする紹介もあります。

計画の繰り上げ

襲撃は当初、1月28日に予定されていました。ところが1月12日に大橋訥庵が捕らえられたため、水戸の志士たちが中心となって決行を早めました。準備の整わないままの襲撃だったともいえます。

関わった事件—坂下門外の変(文久2年1月15日)

雪の坂下門外で老中の行列を見つめる水戸の浪士のイラスト
坂下門外で行列を待つ浪士たち(イメージイラスト)

文久2年1月15日の朝、登城する安藤信正の行列が江戸城の坂下門に近づいたところを、6人が襲いました。水戸の浪士の平山兵介・小田彦三郎・黒沢五郎・高畑総次郎、下野の医師・河野顕三、越後の医師・河本杜太郎です。河本が訴え出るふりをして行列の前に出て駕籠を撃ち、それを合図にほかの5人が斬り込みました。

安藤は背中に軽い傷を負い、駕籠を出て城内へ逃げ込みます。警護の側にも多くの負傷者が出ましたが、6人は全員その場で討たれました。遅れて着いた川辺左次衛門は、斬奸趣意書を長州藩邸に届けてから自刃しています。安藤はこの事件で威信を失い、4月に老中を退きました。くわしくは坂下門外の変とはをどうぞ。

最期—坂下門外で討ち死に

兵介は襲撃のその場で討ち死にしました。22歳でした。辞世は伝わっていません。2年前の桜田門外の変では、井伊直弼を討った志士の多くが、事件のあとで処刑されたり自刃したりしています。坂下門外の変では、襲った6人が全員その場で命を落としました。

平山兵介ゆかりの地

坂下門(東京都千代田区、皇居)

事件の現場です。坂下門は現在、皇居の宮内庁への出入り口として使われています。

小塚原回向院(東京都荒川区)

荒川区南千住5-33-13、JR南千住駅から歩いて数分。「平山兵介之遺墳」と刻まれた墓があります。桜田門外の変の関鉄之介らの墓もある寺です。

常磐共有墓地(茨城県水戸市)

桜田門外の変・坂下門外の変に加わった水戸の志士たちが葬られている墓地です(【現地取材】水戸・常磐共有墓地を歩く)。

磐城平藩(福島県いわき市)

襲われた安藤信正が治めた藩です(磐城平藩)。

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参考資料

  • Wikipedia「平山兵介」
  • コトバンク「平山兵介」(日本人名大辞典)
  • Wikipedia「坂下門外の変」
  • コトバンク「坂下門外の変」(日本大百科全書・世界大百科事典ほか)
  • 荒川区「回向院」
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