新選組は、いつも「会津藩お預かり」という立場にありました。隊を京都に置いたのも、給金を出したのも、戦に送り出したのも会津藩です。そして戊辰戦争では、新選組は会津の地で会津藩とともに戦いました。この記事では、京都守護職・松平容保と会津藩が新選組にとってどんな存在だったのかをまとめます。
新選組と会津藩(年表)
| 時期 | できごと |
|---|---|
| 文久二年(1862)閏八月 | 京都の治安を守るため「京都守護職」が置かれ、会津藩主・松平容保が就く |
| 文久二年十二月 | 容保が会津藩兵を率いて京都に入り、黒谷の金戒光明寺を本陣とする |
| 文久三年(1863)三月 | 京都に残った浪士たちが会津藩のお預かりとなり、「壬生浪士組」が発足 |
| 文久三年八月 | 八月十八日の政変。会津・薩摩が長州勢を京都から追い出す。壬生浪士組も出動 |
| 元治元年(1864) | 六月の池田屋事件、七月の禁門の変で、新選組は会津藩とともに働く |
| 慶応三年(1867)六月 | 新選組の隊士が幕臣に取り立てられる |
| 慶応三年十二月 | 王政復古により京都守護職が廃止される |
| 慶応四年(1868) | 鳥羽伏見の敗戦ののち、新選組は会津へ。白河口・母成峠で会津藩とともに戦う。九月二十二日、会津藩降伏 |
京都守護職と松平容保
幕末の京都では、尊王攘夷を唱える浪士たちによる暗殺や脅しが相次ぎ、町奉行所や所司代だけでは治安を保てなくなっていました。そこで幕府は文久二年、京都の治安を預かる新しい役「京都守護職」を置き、会津藩主の松平容保を任じます。
会津藩の中には、家老の西郷頼母らのように、藩の負担が重すぎるとして反対する声もありました。しかし容保は、藩祖・保科正之が残した「将軍家に忠勤を尽くせ」という家訓を重んじ、この役を引き受けたといわれます。会津藩はおよそ千人の兵を京都に置き、一年ごとに交代させました。本陣は東山の黒谷、金戒光明寺です(会津藩/松平家)。
「会津藩お預かり」になった浪士たち
文久三年、浪士組の多くが江戸へ戻るなか、京都に残った芹沢鴨・近藤勇らは、会津藩に願い出てそのお預かりとなりました。こうして生まれたのが壬生浪士組、のちの新選組です。浪士たちを会津藩に取り次いだのは、のちの京都見廻組の佐々木只三郎だったともいわれます。
「お預かり」とは、会津藩の正式な家臣ではないものの、会津藩の指図のもとで働く立場のことです。給金も会津藩から出ていました。八月十八日の政変のあと「新選組」の名を与えられたとされるのも、会津藩の働きかけによるものと考えられています(芹沢鴨と水戸派の最期)。
会津藩の手足として
新選組は、会津藩が京都で果たす役目の「手足」でした。元治元年の池田屋事件では、会津藩などの援兵が遅れるなかで新選組が斬り込み、禁門の変では会津藩の指揮のもとで九条河原に布陣し、天王山まで長州勢を追いました(池田屋事件に出動した隊士・禁門の変と新選組)。
一方で、隊の内部の問題が会津藩に持ち込まれることもありました。元治元年、永倉新八・葛山武八郎ら六人は、近藤勇のふるまいを五か条にまとめて会津藩に訴えています。容保がこれをなだめて収めましたが、建白に加わった葛山は、のちに切腹させられました。慶応三年、幕臣取り立てに反対した茨木司ら四人が自刃したのも、会津藩邸でのことです。
守護職の廃止と鳥羽伏見
慶応三年十月の大政奉還、十二月の王政復古によって、京都守護職は廃止されました。容保と会津藩は京都を離れて大坂へ下り、新選組も伏見奉行所へ移ります。翌慶応四年一月の鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍は敗れ、容保は徳川慶喜とともに軍艦で江戸へ戻りました(鳥羽伏見の戦いと新選組)。
会津で、ともに戦う
新政府は会津藩を「朝敵」とし、討伐の軍を向けました。新選組は近藤勇を失ったのち、会津へ向かいます。土方歳三が宇都宮で負傷して会津で療養するあいだ、白河口の戦いでは斎藤一が新選組を率いて会津藩とともに戦いました。八月の母成峠のときには土方も傷が癒えて会津方面にいましたが、このときも新選組を率いたのは斎藤でした。土方が仙台へ向かったあとも、斎藤は会津に残り、会津藩が降伏したあとまで戦い続けたといわれます(会津の新選組)。
京都で「お預かり」として始まった新選組と会津藩の縁は、最後は会津の地で、ともに敗れることで終わりました。斎藤一はその後も会津藩士たちとともに斗南へ移り、会津の女性と結婚し、墓も会津若松に残っています。
新選組と会津藩を読み解く
会津藩にとって、新選組は何だったのか
会津藩は、およそ千人の藩兵を京都に置いていました。それなのに、なぜ浪士の集まりである新選組を抱える必要があったのでしょうか。
理由の一つは、藩兵には動きにくい仕事があったことです。藩の兵が町なかで浪士を斬れば、それはそのまま藩の責任になり、他藩との争いにもつながりかねません。浪士の集まりである新選組が取り締まりの前面に立てば、会津藩は一歩引いた立場を保てます。新選組は、会津藩にとって使い勝手のよい「現場の部隊」でした。池田屋事件で会津藩兵の到着が遅れ、新選組が先に斬り込んだことも、こうした役割分担をよく表しています。
孝明天皇の信頼と、その死
松平容保は、孝明天皇から厚い信頼を寄せられていました。文久三年には天皇から直筆の手紙と歌を賜り、容保はこれを竹の筒に入れて、生涯肌身離さず持ち続けたと伝えられます。会津藩が京都で力をふるうことができたのは、この天皇の信頼があったからでした。
ところが慶応二年十二月、孝明天皇は急に亡くなります。会津藩は最大の後ろ盾を失い、京都での立場は少しずつ弱まっていきました。翌慶応三年、伊東甲子太郎らが新選組を離れて名乗った「御陵衛士」は、この孝明天皇の陵を守ることを名目とした集団です。会津藩を支えた天皇の死が、会津藩の預かる新選組の分裂にも形を変えてつながっていたことになります。
京都守護職と京都所司代は、兄弟だった
元治元年からは、容保の実の弟である桑名藩主・松平定敬が京都所司代を務めました。京都の治安を預かる二つの役を、兄弟で担ったことになります。二人は一橋家から将軍となった徳川慶喜とともに京都の政治を動かし、「一会桑」と呼ばれました。戊辰戦争で弟の定敬は箱館まで渡り、船に乗れなかった家臣の一部が、蝦夷地で新選組に加わりました。兄弟のいきさつは森常吉のページで詳しく扱っています。
それぞれの「その後」
| 戊辰戦争のあと | |
|---|---|
| 松平容保 | 死罪を免れて謹慎。のちに日光東照宮の宮司となる |
| 会津藩 | 下北半島などへ移されて斗南藩となり、厳しい暮らしを強いられる |
| 斎藤一 | 会津藩士とともに斗南へ移り、のちに警視庁に勤める。墓は会津若松に |
| 家老・萱野権兵衛 | 藩主に代わって戦いの責めを負い、明治二年五月に切腹 |
京都で新選組を預かった会津藩は、戊辰戦争で最も重い処分を受けた藩の一つになりました。新選組と会津藩は、京都で栄えた時期も、敗れて苦しんだ時期も、ともに歩んだ間柄だったといえます。
訪ねるなら
- 金戒光明寺(京都市左京区黒谷):会津藩の本陣。境内には、京都で亡くなった会津藩士を葬った会津藩殉難者墓地があります。
- 会津若松城(鶴ヶ城)(福島県会津若松市):会津藩の本拠。
- 天寧寺・阿弥陀寺(会津若松市):近藤勇の墓、斎藤一の墓があります(新選組の墓所めぐり)。
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参考にした資料:Wikipedia「京都守護職」、会津藩・新選組に関する諸研究。細部には諸説があります。

