幕末・明治の暗殺事件 特集:桜田門外の変から伊藤博文暗殺まで、19の事件を年表とともにまとめています。▶ 暗殺事件の特集を見る
江幡広光(えばた ひろみつ、通称は貞七郎)と林忠五郎(はやし ちゅうごろう)は、元治元年(1864年)6月16日の夜、京都で一橋慶喜の側近・平岡円四郎を斬った水戸藩士です。平岡は、のちの渋沢栄一を一橋家に招いた人物としても知られます。
二人は一橋家に付けられた水戸藩士で、討った平岡と同じ家に仕える立場でした。生年も分からない無名の藩士たちですが、林が事件の直前に兄へ送った手紙が、二人の思いを伝えています。分かっていることを、藩と身分、幕末の歩み、立場の変化、逸話、事件、最期、ゆかりの地の順にまとめます。確かな肖像は伝わっていません。
江幡広光・林忠五郎とは—先に答え
| 藩・身分 | ともに水戸藩士。江幡は床几廻(藩主の身辺警護役)から床几廻世話役。林は一橋家の警衛世話役 |
|---|---|
| 名前 | 江幡:諱は定彦(広光とも)、通称は貞七郎。林:諱は正義 |
| 生没 | 生年はともに不明。元治元年(1864年)6月16日、事件の現場で死去 |
| 幕末に何をした | 藩主・徳川慶篤の上洛に従って京都へ。公家の警衛などを務めたのち、一橋家付きとなる |
| 立場の変化 | 水戸藩の警護役→朝廷側の要人の警衛→一橋家付きの警衛役 |
| 事件 | 平岡円四郎暗殺(元治元年6月16日の夜、京都の千本組屋敷の外) |
| 最期 | 重傷を負って自害、闘死、刺し違え、切腹と、記録によって説が分かれる |
二人の水戸藩士
江幡広光(貞七郎)
江幡広光は、水戸藩領の海老沢村で、江幡定衛門矩美の長男として生まれました。生まれた年は分かっていません。諱は「定彦」とする史料が多く、「広光」とも伝わります。万延元年(1860年)、藩主の身辺を守る床几廻に任じられ、武芸に励んだことで白銀を賜っています。
林忠五郎
林忠五郎(諱は正義)は、水戸藩士・林正清の子で、兄に忠左衛門がいました。生年や若いころのことは、ほとんど伝わっていません。
幕末に何をしたのか—京都へ、そして一橋家へ
文久3年(1863年)2月、藩主・徳川慶篤が将軍家茂の上洛に合わせて京都に上ると、江幡もこれに従いました。4月の石清水八幡宮への行幸では藩主の弟・松平昭訓に付き従い、その後は長州へ下る公家・正親町公董の警衛や、有栖川宮家の警衛を務め、朝廷からも褒美を受けています。林も同じころ京都で一橋家の警衛世話役となり、御所の門の守りにもついていました。
元治元年(1864年)4月、江幡は有栖川家の警衛を解かれて一橋家付きとなります。一橋慶喜は水戸藩主・徳川斉昭の子で、このころ朝廷と幕府の間に立つ禁裏御守衛総督として京都で重きをなしていました。二人は、その慶喜の家に付けられた水戸藩士だったのです。
立場の変化—主家の重臣を討つ側へ
二人は藩主の上洛に従った警護役から、朝廷側の要人の警衛、そして一橋家付きへと立場を移していきました。京都の本圀寺に詰めていた水戸藩の尊王攘夷派に近く、のちに筑波山で挙兵する天狗党にも心を寄せていたとされます。慶喜の側近として権勢をふるう平岡は、こうした水戸の攘夷派から、主君を攘夷から遠ざける者として強く憎まれていたとされます(天狗党の乱とは)。
逸話—兄への手紙
林忠五郎は事件の8日前、6月8日付で兄の忠左衛門に手紙を送っています。6月5日の池田屋事件で肥後の宮部鼎蔵らが討たれた直後のことでした。手紙で林は、平岡が老中・水野忠精と組んで慶喜の目をふさいでいるとして、場所を問わず二人で命を懸けて討つ、と書いています。二人の斬奸状は見つかっていませんが、この手紙がその代わりとなる記録です。
関わった事件—平岡円四郎暗殺(元治元年6月16日)

6月16日の夜(14日、17日とする記録もあります)、平岡円四郎は一橋家家老の宿所から戻る途中、迎えに来た家臣の川村恵十郎とともに、京都の町奉行所与力の組屋敷(千本組屋敷)の外を歩いていました。そこを背後から襲われ、頭と腰を斬られて即死します。従者2人も殺されました。維新期の出来事をまとめた史料集『維新史料綱要』は「水戸藩士林忠五郎・江幡貞七郎等」が平岡を殺したと記しています。くわしくは平岡円四郎暗殺とはをどうぞ。
最期—現場で命を落とす
二人は事件の現場で命を落としました。その様子は記録によって違い、重傷を負って自害した、川村恵十郎らと斬り合って討たれた、二人で互いに刺し違えた、千本通で切腹した、と4つの説があります。辞世は伝わっていません。
二人の葬祭は、京都東山の霊明神社で行われたと伝わります。同社は、水戸藩士で最初に葬祭を行った志士として二人の名を挙げています。
江幡広光・林忠五郎ゆかりの地
霊明神社(京都市東山区)
京都市東山区清閑寺霊山町25。幕末の志士の神葬祭を多く行った神社で、二人の葬祭もここで行われたとされます。墓地への参道は私道のため、参拝の可否は神社に問い合わせてください。
千本組屋敷の跡(京都市)
事件の現場となった、京都町奉行所の与力・同心の組屋敷があった一帯です。碑があるかは確認できていません。
常磐共有墓地(茨城県水戸市)
幕末に命を落とした水戸藩の志士たちが多く葬られている墓地です(【現地取材】水戸・常磐共有墓地を歩く)。
幕末・明治の暗殺事件を読む
- 桜田門外の変(1860)—大老・井伊直弼
- 坂下門外の変(1862)—老中・安藤信正
- 吉田東洋暗殺(1862)—土佐藩の参政
- 本間精一郎暗殺(1862)—木屋町の天誅
- 目明し文吉の殺害(1862)—三条河原
- 清河八郎暗殺(1863)—麻布一ノ橋
- 姉小路公知暗殺・朔平門外の変(1863)
- 芹沢鴨暗殺(1863)—壬生・八木邸
- 平岡円四郎暗殺(1864)—一橋慶喜の側近
- 佐久間象山暗殺(1864)—三条木屋町
- 原市之進暗殺(1867)—将軍慶喜の側近
- 赤松小三郎暗殺(1867)—東洞院通
- 坂本龍馬暗殺・近江屋事件(1867)
- 油小路事件(1867)—伊東甲子太郎
- 横井小楠暗殺(1869)—寺町丸太町
- 大村益次郎暗殺(1869)—兵部大輔の死
- 大久保利通暗殺・紀尾井坂の変(1878)
- 森有礼暗殺(1889)—憲法発布の朝
- 伊藤博文暗殺(1909)—ハルビン駅
▶ 暗殺した側の人物をもっと読む
- 有村次左衛門—桜田門外の変でただ一人の薩摩藩士
- 関鉄之介—桜田門外の変の現場の指揮役
- 高橋多一郎—水戸藩の奥右筆頭取。桜田門外の変を計画し、大坂で自刃
- 金子孫二郎—水戸藩の郡奉行。桜田門外の変を江戸で総指揮した
- 平山兵介—坂下門外の変で老中・安藤信正を襲った水戸の浪士
- 河本杜太郎・河野顕三—越後と下野の医師の子。坂下門外の変で闘死
- 大橋訥庵—江戸の儒者。坂下門外の変を計画し、事件直前に捕らえられた
- 那須信吾—土佐勤王党。吉田東洋を斬った
- 大石団蔵(高見弥市)—吉田東洋を斬り、のち薩摩藩士として英国へ留学
- 安岡嘉助—吉田東洋を斬り、天誅組に加わって処刑された郷士
- 岡田以蔵—土佐の郷士。「天誅の名人」と恐れられた
- 田中新兵衛—町人から薩摩藩士になった「人斬り新兵衛」
- 佐々木只三郎—見廻組の与頭。清河八郎暗殺を指揮した
- 河上彦斎—肥後の「人斬り彦斎」
- 依田雄太郎・鈴木豊次郎—将軍慶喜の側近・原市之進を斬った幕臣
- 中村半次郎(桐野利秋)—薩摩の「人斬り半次郎」。のちの陸軍少将
- 今井信郎—見廻組。近江屋事件への関与を明治に語った
- 渡辺篤—見廻組。晩年に「龍馬を斬った」と書き残した剣客
- 桂早之助—見廻組。龍馬を斬った一人とされる小太刀の名手
- 大石鍬次郎—新選組の監察。油小路で伊東甲子太郎の殺害に加わった
- 津下四郎左衛門—備前の若者。横井小楠を斬り、森鷗外が描いた
- 神代直人—長州の攘夷派。大村益次郎襲撃の首謀者
- 金輪五郎・団伸二郎—大村益次郎を襲った8人の刺客。秋田の草莽と長州の脱藩士
- 島田一郎—加賀藩の足軽の子。紀尾井坂の変の首謀者
- 長連豪—西郷を慕った加賀の士族。紀尾井坂の変の実行者
- 西野文太郎—憲法発布の朝に森有礼を刺した長州出身の青年
- 安重根—ハルビン駅で伊藤博文を撃った朝鮮の独立運動家
- 幕末四大人斬りとは—4人を比べる
- 幕末・明治の暗殺事件 特集(年表と全事件の一覧)
あわせて読みたい
- 平岡円四郎暗殺とは—一橋慶喜の右腕はなぜ水戸藩士に斬られたのか。渋沢栄一を見いだした男の最期
- 天狗党の乱とは何だったのか—幕末の水戸が二つに割れ、敦賀で三百五十二人が斬られるまで
- 水戸藩/徳川家35万石:徳川昭武 桜田門外の変や天狗党の乱で多くの有志を失い失速した水戸藩
- 【現地取材】水戸・常磐共有墓地を歩く—桜田門外の実行隊長と、討たれた井伊直弼の霊塚
- 平山兵介とは何をした人物か—坂下門外の変で老中・安藤信正の駕籠に斬り込んだ水戸の浪士。一刀流の剣、脱藩と潜伏、22歳の最期とゆかりの地
- 関鉄之介とは何をした人物か—桜田門外の変で現場を指揮した水戸藩士。郡奉行所からの抜擢、1年半の逃避行、斬首とゆかりの地
- 幕末・明治の暗殺事件 特集—桜田門外の変から龍馬暗殺、伊藤博文暗殺まで19の事件を年表で読む
参考資料
- Wikipedia「江幡広光」
- Wikipedia「林忠五郎」
- Wikipedia「平岡円四郎」
- コトバンク「平岡円四郎」(日本人名大辞典)
- Wikipedia「川村恵十郎」
- 『維新史料綱要』巻5、『藤岡屋日記』

