幕末の水戸藩といえば、徳川斉昭と水戸学、そして桜田門外の変が思い浮かびます。尊王攘夷という言葉を全国に広めたのは、まぎれもなくこの藩でした。ところがその水戸藩は、明治の新政府にほとんど人を送り出していません。藩が内側で割れ、割れた者同士が殺し合って、人材が消えてしまったからです。その中心にあったのが「天狗党の乱」でした。元治元年から翌年にかけての一年余りで、何が起きたのかを追ってみます。
「天狗党」という呼び名
幕末の水戸藩には、大きく三つの立場がありました。斉昭の改革路線を継いで尊王攘夷を急進的に進めようとする激派、穏健にことを運ぼうとする鎮派、そして門閥の保守派である諸生党です。諸生党という名は、藩校弘道館の諸生、つまり書生が多かったことに由来します。
安政の大獄で改革派が力を失うと、幕府に恭順する門閥派が藩内で勢いを取り戻しました。市川三左衛門が鎮派の一部と結んで諸生党を組み、激派を排除しにかかります。その激派が世に「天狗党」と呼ばれました。
筑波山の六十二人
元治元年(1864年)三月二十七日、藤田小四郎が筑波山で兵を挙げました。水戸学の大家・藤田東湖の四男で、このとき二十三歳です。集まったのは六十二人、あるいは六十余人と伝わります。主将には、水戸町奉行を務めた田丸稲之衛門が担がれました。
目的は倒幕ではありません。横浜の港を閉じる「鎖港」を、幕府に実行させることでした。幕府に敵対する気はなく、京都にいる一橋慶喜を通じて朝廷に志を伝えようという、あくまで「尊王敬幕」の立場です。この出発点を押さえておかないと、あとの展開が読みにくくなります。
人数はみるみる増えました。数日で百五十人を超え、五月末にはおよそ七百人。最も多いときで千四百人を超えたとされますが、約千人とする資料もあり、数字には幅があります。
日光を阻まれ、太平山へ
四月三日、一行は下野の日光へ向かいます。東照宮を押さえて志を天下に示そうという狙いでしたが、日光奉行の通報で近隣の諸藩が兵を出したため、進路を変えました。移った先が、栃木市の太平山です。
ここに一か月半ほど留まりました。地元の記録には、元治元年四月十四日から五月二十九日までの四十五日間とするものもあります。関東平野を一望する謙信平を擁する山で、五月三十日に筑波山へ戻ったときには総勢七百人ほどになっていました。この太平山にはいま、天狗党の鎮魂碑が立っています。建てたのは、彼らを追討した側の政権にいた人物でした。その話は後ほど触れます。
栃木宿が焼けた
ここから話が難しくなります。天狗党は一枚岩ではありませんでした。別働隊を率いた田中愿蔵は、軍資金の調達で極端な手段に出ます。
六月五日、田中隊は栃木宿に入り、通りかかった町人を殺害したうえで軍資金三万両を要求しました。五千両しか集まらなかったため家々に押し入って金品を奪い、宿場に火を放ちます。翌日までに、宿場内だけで二百三十七戸が焼けました。六月二十一日には土浦の真鍋宿でも放火と略奪を働き、七十七戸を焼いています。
この暴走は、天狗党自身にとっても痛手でした。七月二十九日、本隊は茨城郡下土師で田中隊を攻撃して撃破しています。味方が味方を討ったことになります。田中愿蔵は八溝山で追い詰められて隊を解散し、逃げたところを捕らえられ、元治元年十月十六日に久慈川の河原で斬られました。二十一歳でした。
藩が二つに割れた—大発勢と、宍戸藩主の切腹
元治元年八月、幕府の命を受けて水戸藩主の名代として鎮撫に向かったのが、宍戸藩主の松平頼徳でした。ところが道中で武田耕雲斎らが加わり、勢力はふくれ上がります。これが「大発勢」です。人数は千人から三千人とも、七百人ともいわれ、資料によって差があります。
八月十日、一行は水戸城下に至りました。しかし市川三左衛門ら諸生党は城門を閉ざし、藩主の名代の入城を拒みます。頼徳は那珂湊に布陣するほかありませんでした。二十二日には両者が全面衝突し、二十五日に幕府の追討軍が笠間へ着くと、大発勢は那珂湊へ後退します。
そして頼徳は、幕府軍から「天狗党と野合した敵」と見なされました。真意を訴える機会を与えるという名目で呼び出され、元治元年十月五日、切腹を命じられます。三十四歳でした。家臣ら千人余りが投降し、うち四十三名は佐倉藩や古河藩などに預けられたのち、数か月後に切腹や斬首となっています。宍戸藩は改易となりました。大名が改易のうえ切腹を命じられたのは宝永六年以来、およそ百五十五年ぶりのことです。
那珂湊の包囲
那珂湊は、この乱で最大の激戦地になりました。幕府の追討軍と諸生党が陸から包囲し、洋上には幕府海軍の「黒龍丸」が展開して艦砲射撃を行っています。水戸市に残る絵図には「那珂湊合戦図 元治元年九月二十一日」「同 九月二十九日」とあり、九月を通じて戦いが続いたことが分かります。
この戦いで那珂湊は、民家も社寺もその大半を失いました。十月には大発勢の千人余りが投降しています。
千人の西上
那珂湊を脱した千人余りが、水戸藩領の北のはずれ、大子村に集まりました。そして元治元年十一月一日、京都をめざして出発します。総大将は武田耕雲斎、副将が田丸稲之衛門と藤田小四郎。耕雲斎は初め断っていましたが、小四郎の熱望に押されてやむなく首領を引き受けたと伝わります。
目的はあくまで、一橋慶喜を通じて朝廷に尊王攘夷の志を訴えることでした。栃木宿の反省もあってか、好意的に迎え入れる町に対しては放火・略奪・殺戮を禁じる軍規を定めています。
道中では二度、大きな戦いがありました。十一月十六日未明の下仁田戦争では、天狗党九百二十余名が高崎藩の追撃隊と衝突し、三方からの奇襲で高崎藩を敗走させています。戦死は高崎藩三十六名、天狗党四名。鎧兜を着けた日本最後の戦とも呼ばれます。十一月二十日の和田峠では、高島藩と松本藩の連合と戦いました。二百名を迂回させて挟み撃ちにする奇策で両藩を崩し、戦死は松本藩五名、高島藩六名、天狗党十七名と伝わります。
その先は伊那路を南下し、木曽福島の関所を避けて清内路峠を越え、十一月二十六日に馬籠で中山道へ戻りました。二十七日に大井、二十八日に御嵩、二十九日に鵜沼、十二月一日に揖斐。そこから琵琶湖の東岸は警備が厳重で通れないと判断し、蝿帽子峠を越えて越前へ入ります。
頼みの相手が、討伐軍の頭にいた
十二月十一日、一行は越前の新保宿に着きます。ここで彼らは、決定的な事実を知ることになりました。訴えかけようとしていた一橋慶喜その人が、朝廷に願い出て加賀・会津・桑名の兵四千を率い、追討軍の総大将として海津まで出陣していたのです。
耕雲斎は嘆願書を再三送りましたが、「降伏書ではない」という理由で受け取りを拒まれました。軍議では山陰方面への転進を主張する声も出ましたが、耕雲斎は降伏を選びます。幕府軍は十七日までに降らなければ総攻撃すると通告しており、鯖江・府中の兵が後方から迫るなかで、八百二十三名が加賀藩に投降しました。降伏の日付は十二月十一日、十七日、二十日と資料が分かれますが、人数は八百二十三名で一致しています。
ここまでの経緯を思い返すと、皮肉というほかありません。京都の慶喜に志を伝えるためだけに、彼らは千キロ近い雪道を歩いてきました。その相手が、討伐軍の頭にいたのです。
加賀藩の厚遇と、鰊倉
投降を受けた加賀藩の軍監永原甚七郎は、彼らを賊としては扱いませんでした。本勝寺・本妙寺・長遠寺の三つの寺に収容し、食事なども丁重にあてがっています。幕府に対しても「士道をもって遇するべき」と嘆願しました。
ところが、相良藩主で幕府追討軍の総括を務めた田沼意尊が敦賀へ着くと、扱いは一変します。関東での惨禍を目にしていた意尊らは激怒し、天狗党員を鰊倉へ押し込めました。鰊粕、つまり肥料の鰊を保管しておく荷蔵で、十六棟ありました。
与えられたのは一日に握飯ひとつと湯水一杯。衛生状態は最悪で、病に倒れる者が続出し、処刑を待たずに二十名以上が死んでいます。
三百五十二人
処刑が始まったのは、元治二年、すなわち慶応元年の二月四日でした。
- 二月四日—幹部二十四名。武田耕雲斎、田丸稲之衛門を含む
- 二月十五日ごろ—百三十五名
- 二月十六日ごろ—百二名
- 二月十九日ごろ—七十五名
- 二月二十三日—十六名。藤田小四郎を含む
合わせて三百五十二名。敦賀側の資料では三百五十三名とされ、埋葬者数としてはこちらが使われます。一名の差の理由はわかっていません。捕らえられた総数は八百二十八名で、斬首を免れた者は遠島や追放となっています。
武田耕雲斎は六十三歳、田丸稲之衛門は六十一歳、そして藤田小四郎は二十四歳でした。小四郎の処刑日を二月四日とする記述も見かけますが、日別の内訳と照らすと二月二十三日が整合します。処刑の場は来迎寺野と呼ばれ、そのたびに穴を掘って埋めたため、五つの塚ができました。
首は水戸へ送られた
ここから先は、書くのがつらい部分です。
武田耕雲斎の首は塩漬けにされ、水戸へ送られました。三月二十五日から三日間、水戸城下を引き回されたうえ、那珂湊で晒され、そのまま捨て置かれています。
そして同じ三月二十五日、耕雲斎の妻・延子と、子や孫を含む家族が水戸で斬られました。延子は四十歳。塩漬けの首を抱かされたうえで斬られたという伝えもあります。孫には少女や幼児も含まれていました。諸生党は、天狗党の家族を女児・幼児にいたるまで処刑しています。
それでも終わりませんでした
戊辰戦争が始まると、立場が入れ替わります。朝廷は諸生党に追討令を出し、遠島や謹慎となっていた天狗党の生き残りは罪を許されて帰藩を命じられました。賊と官が、そっくり逆になったのです。
市川三左衛門は約五百名を率いて水戸を脱し、北越から会津へ転戦しました。会津降伏後は水戸奪還をめざして戻りますが、城には入れず、明治元年十月一日から二日にかけて水戸の弘道館を占拠して銃撃戦になります。弘道館戦争です。この戦いで弘道館は正門・正庁・至善堂を残して焼け、貴重な蔵書の多くも失われました。正門や正庁の玄関には、いまも弾痕が残っています。
脱出した諸生党は下総へ逃れ、明治元年十月六日、匝瑳郡松山村と八日市場のあたりで壊滅しました。市川勢百十三人に対し、天狗党側はおよそ千人。二時間余り抗戦したものの、三十数名が討死して終わっています。
市川三左衛門は明治二年二月二十六日に捕らえられ、四月三日、水戸郊外の長岡原で逆さ磔に処されました。そして今度は、帰藩した武田金次郎ら天狗党の生き残りが諸生党の残党を白昼に襲い、諸生党の家族がことごとく処刑されます。報復が報復を呼んで、水戸藩は極度の混乱に陥りました。
水戸市の資料は、こう書いています。「足かけ五年間におよぶ争いで、有為な人材は水戸からいなくなったとさえいわれています」。尊王攘夷を全国に広めた藩が、新政府にほとんど人を出せなかった理由が、ここにあります。
敦賀の人たちが、弔い続けました
この話に、ひとつだけ救いがあるとすれば、それは処刑の地となった敦賀の側にあります。
処刑の直後から、敦賀の十四か寺ほどが供養を願い出ました。三月四日と四月十五日には五つの塚の前で法要が営まれ、両日とも多くの人が訪れています。塚には天狗党を弔う人々や、ここで祈れば願いが叶うという噂を信じた参拝者が集まりました。
明治元年には五つの塚を盛り土でひとつにまとめ、一辺約三十メートル、高さ約四メートルの方形の墳墓としました。十五基の墓石のうち十三基に三百五十三名の姓名が刻まれ、中央のひときわ大きな一基に武田耕雲斎ら幹部二十四名の名が見えます。この「武田耕雲斎等墓」は、昭和九年十二月二十八日に国の史跡となりました。
隣には松原神社があります。祭神は「正四位武田伊賀守以下四百十一柱」。処刑された三百五十三名に、戦死・戦病死した者を加えた数です。創建は明治七年とも八年ともされ、例祭は十月十日。百五十年を超えて慰霊が続いています。境内には、彼らが押し込められた鰊蔵の一棟が移築されて残りました。
加賀藩の永原甚七郎も、明治五年、自分の菩提寺である金沢の棟岳寺に供養碑を建てています。いまも墓前祭が営まれ、武田耕雲斎の子孫が参列しています。
追討した側の人が、碑を建てました
最後に、太平山の話に戻ります。
関東平野を見晴らす謙信平の南側に、大きな自然石の碑が立っています。水戸天狗党の鎮魂碑で、明治十四年六月二十四日の建立です。刻まれているのは、次の四句でした。
懐昔勤王士 義旗此地揚 方今頼無事 題石米元章
むかし勤王の士がこの地に義の旗を揚げた、そのおかげで今は無事である—という意味になります。
この碑の発起人が、秋月種樹という人物です。日向高鍋藩九代藩主の三男で、文久二年に幕府の学問所奉行、翌年には若年寄格を兼ね、元治元年には将軍家茂の侍読を務めました。維新後は新政府の参与、公議所議長、元老院議官。そして明治十四年に隠居しています。碑を建てたのは、その年でした。
つまりこういうことになります。天狗党が挙兵した元治元年に幕府の中枢にいて、彼らを追討する側に立っていた人物が、隠居した年に、追われた側を「勤王士」と呼ぶ碑を建てたのです。十六年という時間が、その言葉を刻ませたのだと思います。
いま歩ける場所
- 筑波山(茨城県つくば市)—挙兵の地。中腹に藤田小四郎の像が立ちます
- 太平山 謙信平(栃木県栃木市)—四十五日間の屯所。鎮魂碑
- 弘道館(茨城県水戸市)—正門と正庁玄関に弘道館戦争の弾痕
- 回天神社・回天館(水戸市松本町)—明治三年に造られた志士の墓。敦賀の鰊蔵の一棟が移築され、資料が展示されています
- 武田耕雲斎等墓・松原神社(福井県敦賀市松原町)—国の史跡。例祭は十月十日
- 田中愿蔵刑場跡(福島県塙町)
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この記事の情報源
茨城大学図書館「水戸幕末争乱(天狗党の乱)」、水戸市公式サイトの展示資料、福井県文書館の刊行資料、敦賀市公式サイト「武田耕雲斎等墓」整備事業ガイドブック、敦賀観光協会、福井県観光連盟、栃木市および下仁田町公式サイト、白河地域の史跡案内、石川県立図書館。年号は旧暦で記しました。
人数や日付に幅のあるものは、その旨を本文に明記しています。とくに降伏の日付(十二月十一日・十七日・二十日)、処刑総数(三百五十二名・三百五十三名)、藤田小四郎の処刑日(二月四日説・二月二十三日説)は資料によって異なります。誤りにお気づきの際はご指摘いただけますと幸いです。



