水戸藩の歩み
水戸城は戦国時代後期は「佐竹義宣」の領地だったが、関ヶ原の戦いの局地戦で旗幟不鮮明により、秋田(久保田藩)へ減封の上、転封となりました。その後、徳川家康の五男松平(武田)信吉が十五万石で入封したが、翌年、信吉は21歳で病死しました。信吉の死により翌月、家康の十男で当時2歳の長福丸(徳川頼宣)が新たに二十万石で水戸に入封します。

しかし、頼宣は紀州へ移封となり初代紀州藩主となります。頼宣のあとに、頼宣の同母弟である家康の十一男の鶴千代丸(徳川頼房)が下総下妻藩より二十五万石で入封しました。ここに頼房を初代藩主とした御三家水戸徳川家が成立しました。
九代藩主の徳川斉昭は、藩政の改革と幕府の政治への参加を目指しました。藤田東湖ら有能な藩士を取り立て、藩校の弘道館を開いて教育を立て直し、水戸学が藩の考え方を大きく方向づけるようになります。しかし、尊王攘夷の主張があまりに強かったために幕府から疎まれ、長男の慶篤に家督を譲って隠居させられました。

十代藩主の徳川慶篤は、高松藩主の松平頼胤、守山藩主の松平頼誠、府中藩主の松平頼縄という三つの分家の当主に後見されながら藩を治めました。慶篤の実の弟が、一橋家を継いで最後の将軍となる徳川慶喜です。斉昭には男子が多く、親藩・外様を問わず、多くの藩に養子として送り出されています。
幕末の水戸藩は、斉昭という大きな存在を抱えながら、藩内では保守派の諸生党と改革派の天狗党が激しく争い、まとまりを失っていきました。その争いは、藩士がかかわった桜田門外の変や天狗党の乱、そして明治元年の弘道館戦争へとつながります。藩論は一つにならず、財政の苦しさも解消できないまま、尊王攘夷の本家でありながら、幕末の政局の主導権を握ることはできませんでした。

最後の藩主「徳川昭武」は、幕末の動乱期にパリ万国博覧会に将軍「慶喜」の名代としてヨーロッパ派遣を命じられていたが、大政奉還と幕府の崩壊により、新政府より帰国の指示が出されました。これにより日本へ帰国するとともに、長兄で水戸藩主の「慶篤」が死去したためそのまま水戸藩主の座に就きます。
水戸藩をもっと深く—日本中に火をつけて、自分が焼け落ちた藩
幕末の主要な事件を並べていくと、ほとんどすべてに水戸の名が出てきます。桜田門外の変を起こしたのは水戸浪士であり、筑波山で挙兵したのは水戸の藤田小四郎であり、最後の将軍は水戸で育ちました。吉田松陰も、二十二歳のときに一か月この城下で学んでいます。
それでいて、明治新政府の中枢に水戸の人間はいません。思想を全国へ輸出しておいて、自分は内輪の殺し合いで燃え尽きた藩—それが幕末の水戸です。
光圀が始めた事業が、二百年後に火を噴いた
火種を作ったのは、二代藩主・徳川光圀です。彼が始めた『大日本史』の編纂事業が、代を重ねるうちに水戸学という一つの学問体系を生みました。天皇を中心に日本の歴史を筋道立てて記述する—その営みが、幕末には尊王思想として噴き出すことになります。
光圀は葬礼にも手を入れました。仏式の葬礼を廃して家臣に自葬祭を勧め、『喪祭儀略』を編んで作法と墓石の形まで定めています。その一環として寛文六年(1666年)に家臣へ賜ったのが、寺院に属さない諸宗共有の墓地—常磐共有墓地です。のちに藤田東湖も関鉄之介もここに葬られました。
斉昭がやったこと
九代・徳川斉昭が藩主となったのは文政十二年(1829年)。門閥にこだわらず藤田東湖や武田耕雲斎ら下士層を登用し、追鳥狩という大規模な軍事訓練を行い、稗倉を設けて飢饉に備え、西洋兵器の国産化を進めました。寺院の梵鐘や仏像を没収して大砲に鋳直したのもこの人です。
天保十二年(1841年)に弘道館を仮開館させ、翌天保十三年に偕楽園を開きました。弘道館の敷地はおよそ十万五千平方メートル、藩校としては全国最大の規模です。初代教授頭取には会沢正志斎を据えました。
水戸東照宮には、斉昭が作らせた安神車という鉄板張りの牛車型装甲車両が二両残っています。中に一人が入って小銃を撃つ構造で、「日本最古の鉄製戦車」と呼ばれることもあります。製作年や、実戦で使われたかどうかはわかっていません。攘夷を唱えながら西洋式の兵器を作る—斉昭という人の矛盾が、この鉄の箱によく出ています。
その激しさは幕府に警戒されました。安政五年、無断登城して彦根藩の井伊直弼を詰問し、翌安政六年に永蟄居しました。そして万延元年八月十五日、水戸で急逝します。享年六十一。桜田門外の変から、わずか五か月後でした。
水戸が輸出したもの
この藩の特徴は、人材を外へ出したことです。
| 人物 | 水戸から出ていったもの |
|---|---|
| 会沢正志斎 | 文政八年(1825年)の『新論』で尊王攘夷論を体系化した。過激すぎるとして公刊されなかったが、写本が全国の志士に読まれた |
| 藤田東湖 | 「弘道館記」の草案を書き、『弘道館記述義』『回天詩史』を著した。その文章が水戸学を水戸の外へ運んだ |
| 吉田松陰 | 嘉永四年十二月から翌年一月まで、一か月余り水戸に滞在。会沢正志斎・豊田天功に師事した。その精神がやがて長州藩の志士を動かす |
| 徳川慶喜 | 生後七か月で江戸から水戸へ移され、弘化四年に一橋家を継ぐまで約九年をこの町で過ごした。弘道館で会沢正志斎らに学んでいる |
藤田東湖は安政二年十月二日の安政の大地震で、母を守るため梁を肩で受け止めて圧死しました。享年五十。桜田門外の変の五年前です。もし東湖が生きていたら水戸は割れずに済んだのではないか—そう言われ続けてきた人物です。
桜田門外の変
安政七年三月三日(1860年)、江戸城桜田門外で井伊直弼の行列が襲われました。現場を指揮したのは水戸藩士・関鉄之介です。
事件後の逃避行は長かったです。薩摩へ、近畿へ、四国へ、水戸領袋田へ、そして越後へ。湯沢温泉で捕らえられ、文久二年五月十一日、小伝馬町の牢で斬首されました。享年三十九。
興味深いのは、その後です。関鉄之介の墓がある常磐共有墓地には、「彦根城主 大老 井伊掃部頭直弼台霊塚」と刻まれた標柱が立っています。討った側の町に、討たれた側を弔う塔があります。
天狗党と諸生党—内側で殺し合った
元治元年(1864年)三月二十七日、藤田東湖の子・藤田小四郎ら六十二人が筑波山で挙兵しました。横浜鎖港の即時実行を幕府に迫るためです。数日で百五十人、最盛期には約千四百人にふくれ上がりました。
だが実態は苛烈でした。攘夷を口実に府中・筑波・柿岡などの町村から金品を徴発し、抵抗すれば火を放ったと記録されています。四月三日には日光へ向かい、東照宮を占拠して攘夷の兵を挙げようとしたが、近隣諸藩の出動に阻まれました。
この間、水戸城下では保守派の市川三左衛門が諸生党を結成し、元治元年八月半ばまでに藩の実権を掌握します。天狗党は帰る場所を失いました。
武田耕雲斎に率いられた一党は那珂湊から西へ向かい、京の朝廷に志を訴えようとしたが、十二月に敦賀で加賀藩に投降します。捕縛された八百二十八名のうち三百五十二名が処刑された(水戸の妙雲寺にある耕雲斎の墓の案内板は「元治二年二月四日、敦賀において三百四十余名の同志とともに断罪」と記します。数字は資料によって幅がある)。耕雲斎は六十三歳でした。
その案内板は、こう結んでいます。「水戸藩の悲運ここに極まったのである」。
そして自分たちの学校を撃ち合った
終わりはさらに惨いです。
戊辰戦争で会津から敗走した諸生党が水戸へ戻り、明治元年九月二十九日に弘道館を占拠しました。これに対して水戸城側の本圀寺党と天狗党の残党が攻撃を仕掛けます。明治元年十月一日、大手門を挟んでの戦闘。翌二日夜に諸生党が退却するまでに、反諸生党側で八十七名、諸生党側でおよそ九十名が死にました。
弘道館は正門・正庁・至善堂を残して焼失し、いまも正門の柱に弾痕が残ります。戊辰戦争の各地の戦いは旧幕府軍と新政府軍の戦いだが、水戸のこれは違います。同じ藩の武士同士が、自分たちの学校を挟んで撃ち合いました。
諸生党は十月六日、下総八日市場でも敗れて壊滅します。市川三左衛門は逃亡の末に翌年捕らえられ、水戸で処刑されました。
慶喜が、学んだ場所へ帰ってきた
慶応四年(1868年)四月十一日の明け方、徳川慶喜は上野寛永寺を出発しました。江戸開城の合意にもとづく移居です。四月十五日に水戸へ着き、弘道館の至善堂で謹慎しました。七月十日に駿府への転居を命じられ、十九日に水戸を発つまで、およそ三か月。
生後七か月でこの町へ来て、九年を過ごし、弘道館で学んだ少年が、二十年後に将軍職を失って同じ学校の一室へ戻ってきました。そして彼が去った二か月半後に、その建物は同じ藩の武士に焼かれます。
最後の藩主が見たもの
最後の藩主・徳川昭武は斉昭の十八男、慶喜の弟です。慶応三年、将軍の名代としてパリ万博へ渡り、明治元年(1868年)十一月に帰国して水戸藩主となりました。
ヨーロッパを見てきた青年が帰り着いた先は、焼けた弘道館と、人のいなくなった藩でした。天狗党の乱で三百五十余名、弘道館戦争で百七十七名。数えられるだけでもこれです。明治四年の廃藩置県で、昭武は藩知事を免ぜられました。
なぜ水戸は、主導権を握れなかったのか
答えははっきりしています。藩論が統一できなかったからです。
薩摩藩も長州藩も土佐藩も、藩内の対立を経験しています。だがどこかの時点で一本にまとまりました。水戸はまとまらないまま、天狗党と諸生党が互いを殺し尽くしました。
思想を作り、それを全国へ配り、最後は自分がその思想で割れて焼けました。水戸城と弘道館を歩き、常磐共有墓地に並ぶ墓を見ると、この藩が幕末に払った代償の大きさが分かります。日本中に火をつけて、自分が焼け落ちた藩—そう呼ぶほかありません。
関連する現地取材

明治二年(1869年)の版籍奉還、明治四年(1871年)の廃藩置県により、水戸県を経て、茨城県に編入されました。
水戸藩をもっと詳しく
参勤交代をしない藩—定府制と「35万石」の実情
水戸藩は御三家のなかでただ一つ、参勤交代を行わない「江戸定府」の藩でした。藩主はふだん江戸小石川の上屋敷に住み、水戸へ帰るときは必要に応じて幕府の許可を得る定めで、この仕組みは廃藩まで続きます。
石高も、見かけと中身に差がありました。徳川頼房が入った慶長14年(1609年)は25万石、元和8年(1622年)に3万石の加増で28万石となり、3代藩主・徳川綱條の元禄14年(1701年)に新田分を加えたとして表高を35万石に改めました。ただ、この高直しには無理があったとされます。家臣団は光圀の時代で約4,000人に及んだとみられ、財政は早くから苦しいものでした。
立て直しを試みたのが宝永の改革です。綱條は宝永3年(1706年)ごろ浪人の松波勘十郎を登用し、年貢の増徴や専売制の見直し、涸沼と巴川を結ぶ運河(通称「勘十郎堀」)の建設を進めました。しかし宝永5年(1708年)の暮れから領内全体で農民の反対運動が起こり、翌年1月には数千人が江戸へ上って訴えます。松波は罷免されて改革は止まり、のちに捕らえられて獄死したとされます。斉昭の改革より100年以上前から、水戸藩は財政難と向き合っていたのです。
『大日本史』—完成まで249年
光圀が『大日本史』の編纂に着手したのは明暦3年(1657年)、江戸駒込の別邸に史局を開いたのが始まりです。寛文12年(1672年)に史局を小石川の本邸へ移して「彰考館」と名づけ、史館員を増やして各地へ史料の調査に人を送りました。光圀の没後、正徳5年(1715年)に藩主綱條が書名を『大日本史』と定め、享保5年(1720年)には校訂を加えた本を幕府に献上しています。
事業は元文2年(1737年)に中心人物の安積澹泊が亡くなって休止し、寛政11年(1799年)の光圀百年忌を前に、立原翠軒らが校訂を再開しました。このとき翠軒と弟子の藤田幽谷が対立し、史館は大きく揺れます。幽谷の子が藤田東湖です。編纂をめぐる議論のなかから、幕末の志士を動かす後期水戸学が育っていきました。
本紀・列伝に続く「志」「表」の編纂は明治に入っても続き、全397巻が完成したのは明治39年(1906年)、着手から249年後のことでした。昭和4年(1929年)、水戸徳川家の当主・徳川圀順は「大日本史の編纂を完成」した功を認められ、侯爵から公爵に陞爵しています。
戊午の密勅—桜田門外の変までの1年半
桜田門外の変の直接の火種となったのが、安政5年(1858年)8月に朝廷から水戸藩へ下された勅書、いわゆる戊午の密勅です。勅許を得ずに日米修好通商条約に調印した幕府を責め、御三家や諸藩が協力して幕政を改めるよう求めたうえ、水戸藩から諸藩へ写しを回すよう命じる内容でした。勅書は8月7日の深夜に京都で水戸藩の京都留守居役の代理に渡され、16日の深夜に江戸の藩邸で藩主・徳川慶篤に伝えられています。幕府へは3日遅れの8月10日に伝えられました。幕府を飛び越えて一つの大名に勅書が下されるのは、異例のことでした。
翌安政6年(1859年)8月27日、安政の大獄の処分として家老の安島帯刀が切腹、京都留守居役の鵜飼吉左衛門らが斬首となり、斉昭は永蟄居を命じられます。同年12月には幕府が朝廷を通じて勅書の返納を命じましたが、藩内は返納を主張する鎮派(会沢正志斎ら)と、反対する激派(武田耕雲斎ら、のちの天狗党)に割れました。
激派は数百人で水戸街道の長岡宿に集まって街道をふさぎ(長岡屯集)、これを武力で鎮める動きが出ると、一部が脱藩して江戸へ向かいます。その行き着いた先が、安政7年(1860年)3月3日の桜田門外の変でした。変後の混乱で返納はうやむやになり、勅書は水戸にとどめ置かれました。
最後の藩主・徳川昭武の明治
パリから戻って藩主となった昭武は、明治2年(1869年)の版籍奉還で水戸藩知事となり、同じ年に北海道の天塩国4郡と北見国利尻郡の支配を命じられて、開拓にも関わりました。明治4年(1871年)の廃藩置県で藩知事を免じられたのち、明治9年(1876年)にはフィラデルフィア万国博覧会の御用掛として渡米し、そのままフランスへ再び留学して、明治14年(1881年)に帰国しています。
明治16年(1883年)、昭武は隠居して甥の徳川篤敬に家督を譲りました。篤敬は翌年の華族令で侯爵となります。昭武は明治17年(1884年)に完成した千葉県松戸の戸定邸に生母と移り住み、自転車や狩猟、写真、園芸を楽しんで暮らしました。自分で現像まで手がけた写真が、今も数多く残っています。明治25年(1892年)には次男の武定が子爵となり、松戸徳川家を立てました。昭武は明治43年(1910年)7月3日に満56歳で亡くなり、常陸太田市の瑞龍山に葬られています。
戸定邸は2006年に国の重要文化財に指定され、庭園も「旧徳川昭武庭園」として国の名勝になっています。一帯は戸定が丘歴史公園として公開され、園内の戸定歴史館では、徳川慶喜と昭武の兄弟が撮った写真などを見ることができます。
水戸城・弘道館の今
水戸城は北を那珂川、南を千波湖に守られた平山城で、主に土塁と空堀で築かれた、戦国期の東国らしい城でした。象徴だった御三階櫓は昭和20年(1945年)8月2日の水戸空襲で焼失し、本丸跡はいま茨城県立水戸第一高等学校・附属中学校の敷地になっています。佐竹氏時代の建物とされる薬医門は、現存する水戸城の建物ではもっとも古く、水戸一高の敷地に移築されて残っています。
近年は復元が進み、2020年に大手門が木造で復元され、2021年6月からは二の丸角櫓も公開されています。三の丸付近には土塁と空堀がよく残り、茨城県の史跡に指定されています。弘道館は1952年に国の特別史跡となり、正庁・至善堂・正門と塀は1964年に重要文化財に指定されました。水戸城は2006年に日本100名城に選ばれています。実際に歩いた様子は水戸城と弘道館の現地取材記事で紹介しています。
場所・アクセス・地図
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水戸の現地を歩いた記録
水戸藩の城跡は、当サイトの運営者が実際に訪ねて撮影しています。記事は次の一本です。
残っている石垣や堀、現地の解説板に何が書かれているかは、文献だけでは分かりません。写真はすべて現地で撮影したものです。藩の歴史を読んだあとに、その藩が拠った場所を見てみてください。
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