津下四郎左衛門とは何をした人物か—横井小楠を斬った備前の若者。森鷗外が子の証言で描いた生涯、勇戦隊から京都へ、処刑とゆかりの地

京都・寺町通で横井小楠の駕籠を待ち受ける刺客たちのイラスト

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津下四郎左衛門(つげ しろうざえもん)は、明治2年(1869年)1月5日、京都の寺町通で新政府の参与・横井小楠を斬った刺客の一人です。備前(岡山)の村役人の家に生まれた若者で、事件の翌年、20代前半で処刑されました。

その生涯は、44年後に息子が森鷗外を訪ねて語った話をもとに、鷗外の『津下四郎左衛門』(大正4年)に書き残されています。刺客の家族がその後どう生きたかまで分かる、珍しい例です。藩と身分、何をしたか、立場の変化、逸話、事件、最期、ゆかりの地の順にたどります。確かな肖像は伝わっていません。

目次

津下四郎左衛門とは—先に答え

藩・身分 備前国上道郡浮田村の里正(村役人)の家。岡山藩家老・伊木若狭(忠澄)に仕えた(藩から見れば陪臣)
生没 嘉永元年(1848年)または嘉永2年生まれ〜明治3年(1870年)10月10日。享年23(日本人名大辞典)
名前 名は正義。変名は土屋信雄(裁判記録では土屋延雄)
何をした 伊木家の勇戦隊に加わり備中松山の鎮撫に出陣。のち上田立夫と京都へ出て、横井小楠を襲撃
立場の変化 村役人の子→勇戦隊士→藩を離れた浪士→罪人
事件 横井小楠暗殺(明治2年1月5日、京都・寺町通)
最期 明治3年10月10日に処刑(梟示)。墓は建てられなかったと鷗外は記す

備前の村役人の家に生まれる

津下四郎左衛門は嘉永元年(1848年、鷗外の作品では嘉永2年)、備前国上道郡浮田村(現在の岡山市のあたり)で、代々その村の里正(村役人)を務めた家に生まれました。父は市郎左衛門。15歳で元服し、岡山の剣客・阿部守衛に内弟子として入って撃剣を学びます。幼いころに婚約していた塩見氏の娘・丈と夫婦になり、文久3年(1863年)には長男の鹿太が生まれました。

何をしたのか—勇戦隊から京都へ

伊木家の勇戦隊に加わる

慶応4年(1868年)、岡山藩の家老・伊木若狭が幕府方だった備中松山藩の鎮撫に向かうと、四郎左衛門は伊木家が募った勇戦隊に志願しました。はじめは里正の子という身分を理由に断られましたが、隊長に腕を認められて入隊し、剣術の試合で活躍して伊木から馬を与えられたといいます。松山の鎮撫は、血を流さずに終わりました。

上田立夫と京都へ

勇戦隊のあとに募られた義戦隊で参謀格を務めていた上田立夫と親しくなり、二人は藩を離れて京都に出ます。四郎左衛門は「土屋信雄」と名を変え、粟田の三宅典膳の家に身を潜めました。

立場の変化—身分の壁を越えようとした若者

村役人の子は、本来なら武士として隊に加わることもできない身分でした。四郎左衛門は剣の腕で勇戦隊に入り、家老に認められるまでになります。しかし戊辰戦争が終わり、新しい政府が開国と西洋化へ進んでいくなかで、攘夷を信じる若者たちの居場所はなくなっていきました。鷗外は四郎左衛門を「気節の人」と認めながら、「時勢を洞察することの出来ぬ昧者であつた」とも書いています。

逸話

雪の夜の父子

事件の直前の大晦日、雪の夜に、幼い鹿太は父と会いました。父は「坊主好く来た」と頭をなでたといいます。鹿太が覚えている父の姿は、これが最後でした。

くちなしの枝を折った子

のちに父の死を母に尋ねた鹿太は、「斬られて死んだ」と聞かされ、木刀でくちなしの枝を叩き折って敵討ちを誓ったといいます。一家は「刑余の人の妻子」として世間を避けて暮らしました。成長した鹿太(津下正高)は大正2年(1913年)、森鷗外の家を訪ねて父の話をし、鷗外はそれを『津下四郎左衛門』として『中央公論』大正4年4月号に発表しました。

関わった事件—横井小楠暗殺(明治2年1月5日)

京都・寺町通で横井小楠の駕籠を待ち受ける刺客たちのイラスト
寺町通で駕籠を待ち受ける刺客たち(イメージイラスト)

横井小楠は熊本藩出身の思想家で、越前の松平春嶽に招かれて藩政改革を指導し、明治新政府では参与となっていました。開国と公議を説くその考えは、攘夷派から「外国に通じ、キリスト教を広めようとしている」と敵視されていました。

明治2年1月5日の午後、太政官から帰る小楠の駕籠が寺町通の御霊社の南にさしかかったところを、6人が襲いました。合図の銃声のあと、小楠は短刀1本で応戦しましたが討たれます。鷗外の描写では、四郎左衛門が小楠と打ち合ったすえにその首を取ったとされますが、首を取ったのは鹿島又之允だとする資料も多く、はっきりしません。現場に倒れていた仲間の柳田直蔵の懐からは、小楠を「天誅」に処するとした斬奸状が見つかりました。事件のくわしい経緯は横井小楠暗殺とはをどうぞ。

ほかの実行者たち

  • 上田立夫:義戦隊の参謀格で、四郎左衛門の親友。出身は諸説あり。1月16日に高野山の麓で捕らえられ、明治3年に処刑
  • 鹿島又之允:尾張の出身とも。上田とともに捕らえられ、処刑
  • 柳田直蔵:大和郡山藩の者。門人に斬られて深手を負い、まもなく死亡
  • 前岡力雄:十津川の出身。明治3年に中山道の垂井宿で捕らえられた
  • 中井刀禰尾:十津川の出身。捕らえられず行方知れずとなった

長引いた裁き

四郎左衛門は1月14日に身柄を押さえられました(自首したとする記録もあります)。ところが裁きはなかなか下りませんでした。役人を監察する弾正台の中に「小楠こそ国賊で、斬った者は憂国の士だ」と主張する者がいて、小楠の罪を示す証拠として『天道覚明論』という文書まで持ち出されたのです。鷗外はこの文書を、小楠が書いたにしては「余りに拙」として疑っています。減刑を求める嘆願も出されましたが、事件から1年9か月後の明治3年10月、判決が下りました。

最期—明治3年10月10日

四郎左衛門は明治3年(1870年)10月10日に処刑され、首をさらされる梟示となりました。23歳でした(日本人名大辞典による)。鷗外は「官辺への遠慮があるので、墓は立てずにしまつた」と書いており、遺族は長く、花を手向ける墓も持てなかったといいます。上田立夫・鹿島又之允も同じ日に処刑され、計画に関わった十津川郷士の上平主税らは流罪や禁固となりました。

津下四郎左衛門ゆかりの地

横井小楠殉節地の碑(京都市中京区)

寺町通丸太町下ル東側、下御霊神社の入口近くの歩道に立つ碑です。昭和7年(1932年)に京都市教育会が建て直したもので、屋外なのでいつでも見られます。

南禅寺天授庵(京都市左京区)

小楠の墓があります(墓碑は「沼山横井先生墓」)。拝観の時間と料金は寺で確かめてください。

浮田村(岡山市)

四郎左衛門の生まれた備前国上道郡浮田村は、現在の岡山市東部にあたります。

森鷗外『津下四郎左衛門』は青空文庫で読むことができます。

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参考資料

  • 森鷗外『津下四郎左衛門』(青空文庫)
  • コトバンク「津下四郎左衛門」(日本人名大辞典)
  • Wikipedia「横井小楠」
  • 京都市「横井小楠殉節地」(京都市の石碑データベース)
  • 源了圓「横井小楠の暗殺をめぐる事件と『天道覚明論』をめぐる問題」(国際基督教大学『人文科学研究』別冊14号、2005年)
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